第四話 楽園 〜But I'll trust her〜

 草原の景色は変わることなく、遥か地平線まで続いていた。何日も同じ景色を眺めながら歩くうちに、日付の感覚が薄れてきた。村を出てから何日経ったのか、テオは数えるのを諦めた。
 街道を行く人々は徐々にその数を減らし、やがて人とも動物ともすれ違うことはなくなった。

「空気が変わってきたね」
 最後に人とすれ違ってから数日たったある朝、ランが落ち着かなげに空気の匂いを嗅いでいるレプカの首筋を撫でて言った。ちょうど荷物をまとめ終えたところだったテオは立ち上がり、ランの次の言葉を待つ。
「そろそろ危険かもしれない」
 レプカと同じ方、まだ太陽の光が十分届いていない西の空を見やりながら、ランは静かに呟いた。
「テオもリョクも、もう戻った方が良いと思う。東へ」
「お前を置いて行けと?」
 テオは荷物をリョクの背に置き、眉根を寄せてランを見下ろす。
「そう。危険を冒してまで私に付き合う理由は、テオには無いはず」
 リョクを挟んでランの横顔を見つめながら、今さら何を言っているのかと、テオは内心苛立った。
「俺がお前に同行しているのは知りたいことがあるからだ。単なる親切心からじゃない」
 ランが空から視線を戻してテオを見上げる。その瞳に、どこか思い詰めたようなひかりが宿る。
「テオは、何を知りたいの?」
 レプカの背に置かれた手が、微かに震えていることに気付いて、テオは不機嫌に目を細めた。ランが何を恐れているのか解らない。
「鉄の獣も人間も、生きている訳ではない。彼らを動かしているのは俺と同じ人間だった。何故奴らはこそこそと魔法を使うことを禁じて回っている? 何故商人のふりをして衣類や食料をただ同然でばら撒いている? 俺はこの世界のありようが気に食わない。母と旅を続けていた頃のことを思えば、あの村の平和も作られた、不自然なものとしか思えなかった。ユリンには奴らの本拠地があるんだろう? ユリンは聖地として崇められているが、それは恐らく奴らが仕組んだことだろう。部外者を寄せ付けないために。そこへ行けば、この世界の謎を解き明かせるかもしれない。俺は戻るつもりは無い」
 ランはきつく眉根を寄せ、テオから視線を逸らしてうつむいた。
「謎解きをしたいのなら、少し遅かったよ。私、前に言ったと思う。鉄でできた人も動物も、もういないって。彼らはもう帰って来ない。魔術の使用も禁じられることは無い。少なくとも、テオに今までそれを禁じてきた人たちはもう働かない」
 レプカの背からランの手が滑り落ちる。
「謎解きをする必要は、もう無くなった。世界が変わってしまった。テオが知りたいと思っていた、この世界を自分たちの都合の良い様に動かしてきた人間たちの組織は、もう残骸しか無い。だから」
 うつむいたまま、それでもランはきっぱりと言った。
「テオはもう、戻って。ユリンには、私一人で行く」
「……お前は、今さら何を言っているんだ?」
 テオはリョクの前面を回り込んでランの正面に立つ。そうして一歩踏み出すと、ランも怯えたように一歩下がった。距離が縮まらない。
「……私は、テオが怖い」
 ランの声が震えた。
「本当は最後まで一緒に来て欲しいと思う。でも、一緒に来たらテオは知ってしまう。私、酷いことばかりしてる。テオはきっと許してくれない。テオに嫌われたくない」
「……俺は、恐らくお前を嫌いにはならない」
 ため息と共に答えると、ランは何度か瞬きを繰り返した。
「なぜ、そう、思うの?」
 ランの動揺を感じたレプカが、戸惑ったようにランに顔をすり寄せる。テオは不思議と穏やかな気分でそれを眺めた。
「なんとなくな」
 肩の力を抜いて近づけば、ランもそれ以上逃げようとはしなかった。未だにうつむいたままのランの肩を、テオは軽く叩く。
「行こう。危険ならなおさら、できるだけ距離を稼いでおきたい」
「……ごめんなさい」
 ランは低く呟いた。テオはその瞳から零れ落ちる涙に少しためらってから、その手を取って逆の手でレプカの手綱を取る。
「……行こう」
 テオは泣き続けるランの歩調に合わせて、ゆっくりと歩き始めた。

 その日の道程の中で、二人はほとんど口を利かなかった。日が落ちる少し前から始めた野営の準備も無言のままで、ただ黙々と旅の中で自然にできていた役割分担に従った。
 食事ができあがり、焚き火を挟んで向かい合って食事を始めてから、ようやくランは口を開いた。
「……おいしい」
 適当に見繕ってきた石と切り株を椅子代わりに囲む炎は、星の見えない草原の中で唯一の光だ。
「そうか?」
 自分の作ったものでは予想通りの味しかしないから、おいしいかどうかは判断がつかないと思いながら、テオは顔を上げる。
「うん。すごいと思う。手際も良いし」
「別に……慣れているだけだ」
 真正面から誉められるのはなんだか居心地が悪くて、テオは思わず視線をそらした。また会話が途切れて、レプカが草を食む音が微かな風に乗って耳へ届く。
「テオは……何を、って、聞かないんだね」
 食事があらかた終わったところで、ランはミルクの入ったコップを手に首をかしげた。
「何を?」
 テオが眉をひそめると、ランは微かに肩を揺らして笑う。
「ユリンへ、何を届けに行くのか、って」
「わざと、言葉を濁しているようだったからな」
 聞いても答えないだろうと思った、と呟くと、ランは何がおかしいのかまた嬉しそうに笑った。
「……ありがと。テオ、優しいね」
 テオはしばらく視線をあちこちにさまよわせてから「そうか?」と、首を捻った。
「そう思う」
 頷いて、ランはふと微笑を消した。
「……ここの人たちの文化。テオは、閉鎖的だと思う?」
「ああ。そう……だな。よそ者には厳しいし、閉鎖的、なんだろうとは、思う」
 唐突な問いに戸惑いながらテオは答える。
「私が参加していた、酷いことの一つが、それ。私たちは、そうなるように仕向けてきたの」
「何のために?」
 ランは両手で持ったコップに一瞬視線を落とし、再び焚き火の炎を見つめた。ランの瞳に炎が映って、明滅する琥珀のように輝く。瞳に炎を映したまま、ランは予言を行う巫女のような厳かな口調でテオの問いに答える。
「異分子を排除するために。楽園の人々は、常に回り続ける自然の営みを自らの意思でコントロールしようとしてはならない。いつもと同じ日常。それに変化を与えるものは危険。変化を与えるものはコミュニティ……村に代表されるような人々の共同体に僅かの被害を与えていなくなり、それが繰り返されるうちに人々は変化を与えようとすることを恐れ、変化を与えようとするものを排除するようになる。そういうふうに、何代にもわたって刷り込んできたの」
「……目的は?」
 焚き火の中で、太い枯れ木が音を立てて折れた。ランは燃え尽きていく枯れ木を眺め続ける。朱く照らされたその瞳には、どんな表情も浮かんではいない。
「外には、神々を捕らえて、兵器として利用している人間たちがいる。神々はそれから逃れようと、この楽園に集まる。ここには神々を敬うものはいるけれど、利用しようとするものはいないから。そういうふうに見えるから。その神々を捕らえて、兵器として利用していたの。そのために、私たちはこの楽園を作り、運営してきた。この楽園は罠だった。神々を捕らえるための」
 淡々とした口調に、テオは周囲の気温が下がったような気分に襲われた。
「俺と母は、ずっと鉄の獣や人間を動かしている連中に追われていた。クスファムの村で母が死んだとき、彼らは俺に言った。クスファムの村に同化し、魔術を封印するならこのまま生かしておいてやろうと。魔術を使う者は、その計画には邪魔だったのか?」
「そう。魔術を使う者は、楽園の秘密を知ってしまうかもしれない。神々を『使う』術を、楽園の人たちに知られるわけにはいかないのに。特に、テオのお母さんは……もとはこちら側の人間だったから」
「……ああ、それは……知っている……」
 あちらこちらを旅しながら、村々に外のことを訴えていた母が、どこへ行っても狂人扱いされたことを思い出す。その豊富な知識から、母が楽園の外から来たのだろうということはなんとなく察していた。
「私、裏切り者を捜せと言われたの。私は楽園全土を一度に探すことができるほど大きな魔力を持っているから。どこへ逃げたかすぐに知らせるように。それが、私の最初の仕事。それがこなせれば一人前だと認めると言われて、すごく、すごく頑張った。きちんと仕事をこなして、一人前だと頭をなでられて、探し出した相手がどうなったのか、知ろうともしなかった」
 ランの手の中で、コップに注がれた液体が細かく波立った。
「知ったのは、だいぶあと。私、テオを知ってたよ。私が探していたのは、テオのお母さんだったから。だから」
「母も、同じことを言っていた」
 続きを聞きたくなくて、テオはランの言葉を遮り、視線を勢いの弱まってきた炎へ落とした。
「同じこと?」
 ランがこちらを振り仰ぐ気配がしたが、テオは炎から視線は上げず、集めたおいた木の枝の束から一本を抜き取って焚き火に継ぎ足す。目を見て話す勇気は無かった。
「『知ろうともしなかった』と。母も同じようなことをしていたのだろう。そう言ったときの母があまりにもつらそうだったから、俺は知りたいと思ったんだ。この世界の秘密を。お前は手遅れだと言ったが、それでも」
「私も知りたい」
 神をその身に宿した巫女姫のような、静かな声でランは言った。思わず顔を上げると、ランはテオに微笑みかけて星の無い空を見上げた。
「この世界がこれからどうなっていくのか。どんなにつらくても見守りたい。せめて、この空が晴れるまでは」