第六話 望郷 〜A nostalgia for somewhere〜

 朝目が覚めたとき、ランはすぐには起きあがらずに、目覚める直前に見ていた夢を思い出していた。
 夢の中でランは『鉄の魚』の中にいた。そして空を見上げていた。研究塔を飛び出して、雲の上に出たあの時に見た、果てしなく続く広い広い青空を。
 ランとテオにあてがわれた寝床は高い枝の上に立てられた小屋の中にあって、時折風にゆらゆらと揺れるので、まるでその青空の中を浮遊しているような、不思議な気分だった。
 ぼんやりと天井を見上げたまま、胸元のペンダントを探る。堅く直線的な水晶の中を、定められた回路に従って魔力が走り抜けていくのを感じる。
 隣の寝床で、テオが音もなく体を起こした。朝日はまだ昇らず、テオの輪郭は薄闇にぼやけてはっきりとは見えない。
「もう、起きる?」
 ランは梢を渡る風にかき消されない程度の小声で訊ねた。
「ああ」
 テオは短く答え、ランに背を向けて着替え始める。ランも起きあがり、昨日巫女から客人の世話を言いつかった女性が洗っておいてくれた衣服に着替えた。

 着替え終わってテントから出ると、世話係の女性が幹に程近いところで待っていた。女性は朝食にと軽い焼き菓子を差出し、歩きながら食べるよう指示して幹を下り始める。
 巨木のそちらこちらでは、聖地の住民たちが移動前の準備に忙しく立ち働いていた。昨夜ランが治療した人々とも幾度かすれ違いながら、女性は下層区を抜けて木の根へと二人を導く。
 下層区から張り出した木の根では、昨日の巫女とレプカが待っていた。巫女の脇でおとなしく立っていたレプカの背には、三日分の食料が積まれている。二人をここまで案内してきた女性は、巫女に軽く一礼すると挨拶もそこそこに足早に立ち去ってしまった。
 二人を迎えた巫女は、水壁を開く前に二人を順に見ながら言った。
「街道を道なりに行かれれば、夕刻にはカナンという村へ着くことができましょう。開けた場所での野営は危険なれば、その地にて休まれますよう。ユリンはカナンの村より西へ一日半の行程にございます」
 何事か考え込むような間をおいてから、巫女はランに向かって再び口を開く。
「旅の巫女よ。一つ、忠告が」
「私、ですか?」
 やはり巫女という呼び名はどこか受け入れがたくて、ランは一瞬答えに迷った。
「はい。神々の領域へ赴き、再び帰って来ることが出来る者は稀だと、伝承では言われております。自身も神々の世界の一員となってしまうのだと。次も戻って来られるとは限りません。ユリンにも神界への入り口はございますが、どうか慎まれるように」
 言い聞かせるような口調に、ランは目を伏せて曖昧な笑みを浮かべる。
「……大丈夫。そのこと、知ってます。ちゃんと、自分でわかっています」
「それならば良いのですが」
 ため息混じりに頷いた巫女は、お気をつけて、と呟き、水壁に向かって両腕を広げた。低く歌うような声で紡がれる呪文に、大樹を守る水壁がゆっくりと開いていく。
 森に向かって開けていく視界に瞳を細めながら、ランはまた水晶のペンダントを握りしめていた。
 ――そう、わかっている。
 それが、自分と『彼女』に何をもたらすものであるのかも。

 黄色いレンガの道が夕日に赤く染まる頃、二人は半ば崩れかけた村の跡に到着した。畑の間にまばらに建っている砂レンガの家々は、荒れ果ててはいるが打ち壊されたような跡はなく、生い茂る草や木はほとんどが野性に返って伸び放題になっている。
「まさか、再びカナンの地を踏むことになるとは思わなかった」
 蔦に覆われた扉を蹴り開けて宿を確保した後、テオはそう言って村を眺め渡した。
「再び?」
 残照に浮かぶテオの横顔を見上げながら、ランは小さく訊ねる。
「俺の生まれた村だ。異変が始まるずっと前に放棄された村だから、もう訪れる機会はないと思っていた」
 答えたテオの声には、不思議な感傷が宿っているようだった。
 懐かしいと、思っているのだろうか。
「そうなんだ……」
 ランは軽く目を見開いて、村を見渡すテオの視線を追った。テオと同じように村を見渡しながら自分の心を探ってみても、こみ上げてくる感傷はひどく遠くて薄かった。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
 目を細めて微笑みながら、ランはそう答えた。感傷が襲ってこないことの方が、荒れ果てた村の風景よりも悲しかった。

 村の中でも一番原形を保っている家の土間を借りて、二人と一頭は夕食を取った。円形の建物は中心に囲炉裏がある作りで、その上には煙出しの小窓が開けられている。二人が入り込んだ建物の煙出しは大きく崩れて広がってしまっていて、仰向けに寝転がると、まるで井戸の底から夜空を見上げているようだった。
「懐かしいって、思う?」
 夕食を食べ終わった後、寝袋にくるまって転がりながら、ランはテオに訊ねた。炎のはぜる音が耳を柔らかく打つ。問いかける口調も自然と穏やかなものになる。
「……懐かしい? ここのことか? ……何も覚えていないからな……」
 テオは自分自身に問いかけるように、ゆっくりと呟いた。
 崩れた天井から見えるのは、薄く曇って星のない夜空だ。風の神々の怒りはまだ解けていないけれど、今は家の周囲に張った結界に触れる気配も無く、テオは久しぶりに緊張を解いているようだった。
「クスファムは?」
 寝返りを打ってテオの方を向きながら、ランはさらに訊ねかける。テオは炎の向こうで、静かな視線で空を見上げている。
「そうだな……俺にとっては、あそこの方が故郷のようなものかもしれないな。けして優しくはなかったし、良い思い出があるわけでもないが……」
「私も、この村で生まれたの」
 唐突な告白にはそろそろ慣れてきているのか、テオの反応は視線をこちらに向けて小さく微笑んだだけだった。
 暖かい光に照らされた、穏やかな笑顔に安堵する。どんなことでも話して良いと、許されているようで。
「だから、この村に来れば、ここで生まれたんだって、そう思えば、何かあるかなって、そう、思ってた。だけど今、懐かしいと思うのは研究塔の中の自分の部屋。嫌いだったはずなのに、今は懐かしい」
 静まり返った世界の中で、焚き火の炎だけが命を持っているかのように動き続ける。テオは再び空を見上げ、ややあってゆっくりと瞳を閉じた。ランも少し黙って、燃え尽きていく炎を見つめ続ける。
 テオの呼吸がだんだんゆっくりになっていくのを聞きながら、ランはもう一度ささやくように口を開いた。
「……窓から、空が見えたの」
「まだ……起きてたのか」
 眠りの世界へ行きかけていた意識を無理やり引き戻したのだろう。答えたテオの声はかすれていた。
「ごめん。もう寝るから、寝ながらでいいから、少しだけ聞いて」
 ささやくような小さな声音で、ランは続ける。
「小さい窓でね。鉄格子がはまってて、そこから空を見上げるたびに……なんとなくいらいらしたの。……うらやましかった。私はあの空の全てを見ることはできなかったから。窓枠に切り取られた、小さな空しか見ることができなかったから……見えなくなれば良いのにって、そう、思ってた」
 崩れた天井の隙間に手を伸ばす。研究塔にいたときも、よくこんなふうに手を伸ばしていた。この崩れかけた廃墟からはいつでも外に出られるけれど、研究塔の中から出ることは許されなかった。
「空は嫌いだって、ずっと思ってたけど、でも、違ったの」
 壊してしまうんだ、全て。
 それで良いんだと思っていた。けれど今は、そう思ってしまったことが悲しい。踏み出した世界はあまりにも広くて美しくて、目指す場所になんて絶対に辿り着けないと思ったけれど手を差し伸べてくれる人がいた。今はどんなことをしてでも守りたかった。広い世界のすべてを憎むのではなく、今ここにある幸せを。
 壊せと言った自分に頷いた彼女が、どんな表情をしていたのか、もう思い出すことすら出来ない。閉ざされた研究塔の中に捕らわれていた『彼女』は、それでも破壊を望んではいなかったはずなのに。
 ――泣く資格なんて無い。テオは許してくれるかもしれないけれど、私にそんな権利は無い。
 そう思って、ランは笑った。
 笑おうとした。あの時言えなかった言葉が、震えてしまわないように。
 ちゃんと『彼女』に届くように。
「……私、あの空が……好きだった」
 ささやく声は、楽園の空にとけて消える。

 翌日の昼頃、黄色いレンガの道を『鉄の箱』がこちらへ向かってくるのが見えた。フロントにデザインされたロゴに見覚えがある。
「軍用トラック……まだ残ってたんだ……」
 ランは呟きながら、無意識に身を引いていた。
「二人乗っているな。……どうした?」
 怯えたようにあとずさったランに、テオは眉根を寄せてトラックへ視線を戻す。トラックのキャビンには、迷彩服を着た男が二人乗っていた。運転席の男が、こちらに気づいてスピードを落とす。と同時に助手席の男がベルトに差していた拳銃を引き抜き、窓から身を乗り出した。
 殺気を感じたテオが咄嗟に張った結界に、弾丸が当たって弾ける。運転席の男は、慌ててもう一人を取り押さえようとしている。
「敵か?」
 身構えながら、テオが訊ねた。
「待って。風達の言葉にやられているの。殺さないで、どうにかできない? 今なら私、治せるよ」
 早口で訴えると、テオは頷いて剣を引き抜き、剣の柄の宝玉に意識を集中させる。
 いつもより獰猛な魔力が、テオの意思に応えて高まるのが感じられた。
「我が望みを糧となし、我が敵に眠りをもたらせ」
 剣に宿った雷神が苦しげに咆哮する。殺してしまえと、渦巻く風が叫ぶ。
「テオ!」
 ランが干渉するより先に、魔術はテオの制御を離れ、暴発した。

「こっちの世界に逃げてきたのか? あんた?」
 寝息を立てる相棒を再び助手席に放り込んだ後で、運転席に座っていた無精髭の男はランを見下ろしてそう尋ねた。
「いえ、逃げてきたわけじゃ……」
 ランはテオの魔術で眠ってしまった男がちゃんと助手席に収まったのを確認して、首を横に振りながら男から一歩遠ざかる。男は面食らったように瞬きして、胸ポケットから煙草を取り出した。
「まあ、理由はどうでも良いけどな。ただあんた、その服着て歩くのはやめたほうがいいぜ。それ、セルフィティー研究所の制服だろ? 世界を滅ぼした連中の仲間だと思われるぞ。……まあ、そうなのかも知れねえが」
 久々に聞く名前に、心臓が鷲掴みにされたような嫌な気分に襲われる。
「もしそうだったら、私を殺しますか?」
 瞳を伏せながら問うと、男はため息をついて首を横に振った。
「今さらんな不毛なことしてもな……」
 男は開いたままのドアに寄りかかり、火のついていない煙草で相棒を指す。
「西の方はもうダメだ。こいつもかなりやられっちまってる」
 気絶している男の頭を軽く小突く仕草には、共に危機を乗り越えてきた者に対する親しみが感じられた。きっと長い付き合いなのだろう。
「こんなことになるなら、職務に忠実になんてしてないで、さっさと逃げときゃよかったと思うよ。まあ、俺には守護神がついてっからそう簡単にはくたばらねえけどな」
 男はそう言って煙草をくわえ、彼の守護神が宿っているらしい水晶の原石をズボンのポケットから取り出した。水晶の中を走り抜ける魔力は、確かに男を守るのに十分なものだった。
「俺達は東へ行くが、あんたらはどうする」
 水晶を玩びながら、男が問いかけてくる。煙草をくわえたままなのに、その発音は驚くほど明瞭だ。
「私……ユリンの街へ行かなくてはならない。……まだ、無事ですよね?」
 男は頷いて水晶をポケットにしまった。
「あそこは大丈夫だ。神々からの攻撃には慣れてるからな。それ専用の施設も充実してるし、動力もまだ通ってる。受け入れてもらえる当てがあるんなら、あそこに逃げ込むってのは悪い判断じゃねえな」
「ありがとう。東の方にはもうどんな勢力も残っていないと思います。楽園の人たちと協力して生活して行こうとしている方もいるようです」
 男はその言葉ににやりと笑い、結局火をつけられないままだった煙草をトラックの灰皿に放り込む。
「賢明な判断だと思うね。じゃあ、気をつけてな。狂っちまった奴らが残ってるかもしれねえ」
 男は言いながらキャビンを回り込み、運転席に腰を下ろした。
「はい、あなた方も、お気をつけて」
 頭を下げるランに軽く手を振って、男は車を発進させた。古ぼけた軍用トラックは、砂埃を立てながらゆっくり遠ざかっていく。
 しばらくそれを見守った後で、ランはゆっくりとレプカの側へ戻った。
「……テオ」
 テオは地面に腰を下ろしたレプカの背に寄りかかったまま、瞳を閉じている。
「大丈夫?」
 側にしゃがみこんで訊ねると、テオは薄く目を開いて頷いた。
「休めばすぐに良くなる。単に魔力を使いすぎただけだ」
 疲労のにじむその様子に、ランは眉根を寄せて視線を落とす。
「……ごめんね」
「お前が謝ることじゃない」
 また泣き出したいような気分になって、ランは数回瞬きをした。
「……もうすぐだな」
 呟くテオの視線は、西の方へ向かっている。
「もうすぐ、目的地だ」
 不意に、思いがけず穏やかな風が通り過ぎた。優しい気配の風に、ランは祈るように瞳を閉じる。
 そう、もうすぐだ。
 旅の終わりは近い。