歌姫と大魔王

 休日を明日に控えた消灯時間後、ブルーエア劇場女子練習生寮はひそやかなざわめきに満ちていた。外では大雨が降っている。廊下の所々に置かれたたらいに、天井から染み込んだ雨水がささやかな水音を立てて飛び込んでいく。寝静まったはずの部屋部屋から、時折漏れ聞こえるささやき声や笑い声。三階の隅にあるグローリアとファティマ――内一人は、昨日新婚旅行へ行けと隣国コードニア行きの船に放り込まれたので現在は留守だ――の部屋でも、六人の練習生が集まってろうそくの明りを頼りにひそひそとおしゃべりを続けていた。右と左のベッドに同じ年頃の少女達が二人ずつ寝そべり、ベッドに挟まれた床の真ん中にはろうそく。そのろうそくを挟んで、残りの二人があぐらをかいている。
「雨漏りひどいよね、最近。直せばいいのに」
 グローリアと向かい合ったベッドに寝そべっているシャイアが、廊下から聞こえる水音に呟いた。
「雨漏りと言えばさ」
 ベッド組のペナンが隣に寝そべっているグローリアを覗き込む。
「リーリア、雨漏りの音を聞くと音楽を志したきっかけを思い出すって言ってたよね。私聞きたいなあ、リーリアが歌を志したきっかけ」
 私はなんとなく成り行きで始めてハマっちゃったんだけどさーと、ペナンは陽気に笑いつつ仕種でグローリアを促した。
「私の場合、きっかけはお父様の悪友が運んできたわ」
「悪友?」
 床であぐら組のマハティラが軽く身を乗り出す。
「そう。コードニア帝国皇帝ランス。良くも悪くも派手な噂が絶えない男。お父様と知り合った経緯は不明。我が家に対しては街道が一本敷設できるくらいの借金を抱えていて、お父様にとっては唯一にして最大の不良債権でもあるわ。で、彼はお父様に借りがあるので、お父様が仕事でいない間は私の面倒を見てくれていたの」

 あれは確か七歳の春だったわ、と、グローリアは話し始めた。

「グローリア」
 コードニア帝国宮廷の第三書庫。外界から隔絶されたような静かな空気と薄明かりが満ちるその空間に、陽気な男性の声が響く。梯子を明り取りの窓の下に置き、そのてっぺんで読書に励んでいたグローリアは、真面目な表情を取り繕って梯子の下からこちらを見上げているこの宮廷の主に視線を落とした。
 もう二十七歳なのだが、外見も行動もそれよりはるかに若い……というか、行動の方はむしろ子どもっぽい。引き締まった体躯にこげ茶色のくせのない短く切った髪。額にダークブルーのバンダナを五センチ幅くらいに折って巻き、数年前から伸ばしているあごひげを細いリボン――今日はピンク色だ――で結んでいる。金糸で縫い取りのしてある上着の下からはシャツがのぞき、襟元のボタンは外れ、一応豪華なはずの衣装は見事に着崩されていた。どっちかというと皇帝より海賊の親玉とかの方がしっくり来る雰囲気だ。皇帝補佐官がひげを伸ばせと言ったのは、たぶん貫禄をつけて欲しいという意図だったのだろうが、どう見てもガラの悪さを増加させているようにしか見えない。褐色の深い輝きを宿した瞳は、明り取りの光を反射していたずらっぽく輝いていた。
 グローリアはランスの心は読めない。全く読めない。
 制御がちゃんと出来ていなくて、読みたくもない他人の感情を読んでしまうグローリアを守るため、グローリアの父親は宮廷でグローリアを育てることを決めた。宮廷は「いろいろある」所なので、そういう不穏な魔力が働かないように強力な結界が張ってあるからだ。うっかり他人の心をのぞいてしまうことがないので、グローリアも安心して過ごすことができる。
 しかし、宮廷の外にいて何の護符もつけていなくても、なぜかランスの心だけは読むことができなかった(ちなみに、本人は俺様天才だから心を読まれるなんてありえないのさがっはっはとコメントしている)。
 ――注意しなさい、グローリア。
 思い出すのはふた月ほど前の宮廷の一室。父親と二人で泊まっていた、ベッドとクローゼットだけが置かれた簡素な部屋。グローリアをその男に預けて旅に出ることになった父親は、グローリアの両肩に手を置いて、沈痛な面持ちでそう言った。
 ――こいつが真面目な表情を取り繕っているときは、絶対にろくなことを考えていない。奴が本当に真面目に物事に取り組むのは、世界が滅びに瀕しているときくらいだ。
 経験から出た父の言葉は重々しかった。
 そんなわけで、本から顔を上げたグローリアは猜疑心八割くらいでその男の顔を見下ろしたのである。
「ランス伯父様、何の用?」
「伯父様はやめないかなあ、グローリア?」
 ランスは若干引きつった笑顔で首をかしげながら、両手をこちらに伸ばしてよこした。
「お兄様って年じゃないわ。私のお父様より年上なんでしょう?」
 グローリアは本を閉じてランスに抱き下ろされる。
「まあ……そうなんだけどよ」
 ランスはため息とグローリアを床に下ろす。落ち込んでいるように見えなくも無いが、いつも一秒で復活するのでグローリアは気にしない。
「で、だ。今日は国立劇場のこけら落としで……こけら落としって知ってるかグローリア」
「新築劇場の初興行」
 今回は復活までに一秒もかからなかった。さすがだ。と、心の中で思いつつ、グローリアは冷静に答える。
「そう、それだ。難しい言葉知ってるなあ、えらいぞグローリア」
 ランスはぐりぐりとグローリアの頭をなでた。今は誰も見ていないとは言え、少し気恥ずかしい。
「で、ディルス王国王都のブルーエア劇場から有名な歌手が客演しに来てくれることになってな。まあ、それがまたえらい美人で」
 ランスにとっては最重要項目であるに違いない。コードニア帝国皇帝が女たらしだというのは、今日びこの国では四歳の子供でも知っている有名な事実だ。
「お前のお母さんのまた従妹弟子くらいなんだ」
「……それ、何?」
「ああ、えー……? と? お前のお母さんに歌を教えた旅の音楽家の師匠の妹弟子の弟子の弟子だったかな?」
 ランスは自信なさげに視線をさまよわせながら答えた。
「ずいぶん遠いのね」
「そう、ずいぶん遠いんだ」
 ランスは口の端に笑みを浮かべて頷く。グローリアには、何故ランスがそんなに楽しそうにしているのかがよくわからない。
「まあ、それもまたなんかの縁。ってことでお前も一緒に聞きにいかねえか?」
「こけら落としを? いつ?」
「今日の夕方さ!」
 ランスは真っ白な歯をきらめかせ、さわやかに両腕を広げて笑った。その仕種はさすがに馬鹿っぽい、と、グローリアは半眼でその様子を見上げた。

 精緻な細工の施された手すりは綺麗だったが視界を遮る。劇場の様子を見たかったグローリアは席から立ち、背伸びをして舞台を見下ろした。
「ん? どうした? 見えないのか? 駄目だぞグローリア、そういう時はこの俺を! 頼ってくれなくっちゃあ」
 さすがに国民の前に出るということできちんとした格好をしているランスが満面の笑みで自らの胸を叩き、両脇に控えていた皇帝補佐官たちは左右対称の動作で頭を抱えた。
 女たらし、借金大魔王。その上ロリコンだと言う噂まで立ったらかなわない、という思考がグローリアまで届く。
「ほら、これでよく見えるだろ」
 ランスは補佐官達の苦悩になど見向きもせず、グローリアを抱き上げて自分の右肩に乗せた。
 なんだか照れくさい。頬が熱くなる。絶対赤くなってる。
 そう思いながら、左腕をランスの頭に回して身体を安定させ、国立劇場の大ホールを見渡した。舞台の正面の皇帝専用のボックス席からは、馬蹄型のホールが一望できる。垂直の壁には着飾った貴族達を満載したボックス席。一階にはボックス席を手に入れられなかった比較的お金に恵まれない貴族達。その手前、音は聞こえても舞台はほとんど見えないだろう位置に学生と一般市民。空いた席なんてほとんど見当たらない。正面には、何か秘密を隠すみたいに深紅の幕を下ろした、縦にも横にも大きな舞台。
「……広いのね」
 ようやく搾り出した言葉は、まるで感嘆のため息のようだった。
「すげえだろ?」
 皇帝は得意そうに頷く。頭が揺れて、グローリアは思わず回した左腕に力を込めた。
「……また、借金したの?」
「……俺が建てたんじゃねえもん、借金は増えてねえよ。サーヴェス伯爵が私財を投じて作って国に寄付してくれたってわけ。実は最近こういうの多いんだ。ディルス王国方面への街道のメンテナンスもこないだドゥルトゥース侯爵がやってくれたしさ。次の首都市長選の人気取りだろうなーって気はするけどありがたいよな。雇用も増えるし。さすがに娯楽で借金を増やすなんて真似は皇帝になってからはできなくってさー。私有財産すら遊びに使えないんだもんなー。まあ遊んでる暇もねえけど」
 やだね不景気だね俺様遊びたい盛りなのにあーかったりーとか呟いて補佐官達の神経を逆なでしまくってから、ランスはぼそりと呟く。
「借金するならまず俺の部屋の雨漏り直すって」
 壊れてたんかい。
 右と左の皇帝補佐官が、同時に心の中だけで突っ込みを入れた。ランスはもちろん気付くはずもなく、最近は雨が降ると桶に水が滴る音が子守唄代わりだぜと話し続ける。
 コードニア皇帝の住居が実は城の裏手の小さな邸だということはあまり知られていない。公務に使われている施設の維持費は国庫から出るが、その邸の維持費は皇帝自らが負担していた。皇帝はもちろん国庫からそれなりの給料をもらってはいるが、結構貧乏だ。それどころか、グローリアが生まれた頃にあった内乱で荒廃して予算も政策もへったくれもなくなっていたコードニアを「他人の金」で建て直したとか言われるコードニア一の借金大魔王だったりする。この国の制度では、コードニア帝国の国庫が潤ってもランスの個人金庫の中身が増えるわけではない。そんなわけで、国は建て直ってひとまず安泰となったが、皇帝が座る借金大魔王の座も当分揺るぎそうになかった。
「自分で直したら?」
 考えた末に、グローリアは半眼で提案する。
「おう、今度の休日にな。高いところ平気か? 平気だったら助手頼むわ」
「了解」
 グローリアの返事にかぶさるように、開演を告げる鐘の音が響き渡った。

「今度の休日」は、コンサートから十日ほど後に訪れた。
 よく晴れた日だった。大工日和だった。ランスとグローリアは二階建ての邸の傾斜の緩い三角屋根に上り、赤やオレンジの屋根瓦を点検して回る。二人は屋根を上と下の二つに分けて担当箇所を決めた。グローリアが上。ランスは下。ランス曰く、いつでも落ちて来いばっちり受け止めてやるぜふはは。
「うわー割れちまってるよ参ったな」
 額にバンダナ首にはタオル、着ている服は作業服といった出で立ちのランスが呟く。
「金あったら防水の魔法頼むんだけどなあ」
 ランスは割れた瓦を取り外し、周囲を見回して安全を確認してから屋根の下へ放り投げた。一瞬間をおいてから、瓦が完膚なきまでに砕け散る音が耳へと届く。
「……ランス」
 外れかかっていた瓦を元の位置に戻しながら、グローリアは自分の下方にいるランスに呼びかけた。
「ん? なんだ?」
「私……歌ってみたいわ」
「おう、今か? 歌え歌え、聞いてっから」
 ランスはさっき外した瓦の位置に新しい瓦をはめ込む。新しい瓦は雨や太陽にさらされた周りの瓦より色が濃いけれど、こうやって次第に生み出されるモザイクが美しいのだと、昨日瓦を店から運んできたおじさんが言っていた。
「そうじゃなくて。今じゃ、なくて。ちゃんと……上手に歌えるようになりたいの」

 十日前、舞台に出てきた歌姫は、ざわめきの納まらない客席に向かって鮮やかに微笑んだ。軽い会釈を合図に、歌い手の後ろに座っていた老人が小さなハープを奏で始める。ざわめきは細い細いハープの音色に飲み込まれ、消えた。
 歌い手は拡声の呪文にも頼ることなく、清流のような音色でホールを満たす。それだけで空気が変わった。昔、賢者の学院の倉庫で見た不思議な色に輝く天体模型を、いつか父親に連れられて旅をした大陸の草原を、その空の色や匂いを、わらぶき屋根に囲まれた広場へと出迎えて歓迎してくれた人々の笑顔を、歌声は次々と記憶から取り出してみせる。
 ちょっと無茶なくらい身を乗り出した自分を、ランスと左右の皇帝補佐官が肩や袖を掴んで支えていたことにも気付かなかった。

「シーナさんみたいに」
 ブルーエア劇場からやってきた歌姫の名を告げると、ランスはふと立ち上がり、身軽な動作でグローリアの前までやってきてしゃがみこんだ。褐色の瞳が同じ目線まで下りてくる。グローリアは真剣な表情で見返す。
「歌いたい」
 敷地のどこかから馬のいななき。
 ランスの瞳が緊張を解く。
「……そっか。じゃあ……明日のパーティでシーナちゃんつかまえて、いい先生いないか聞いてみるよ」
「ありがとう」
 ランスは「にしゃ」という感じで相好を崩して、口笛を吹きながら自分が担当する下半分へ戻った。どこで覚えてきたのか、最近城下町で流行っている恋歌のメロディだ。
 しばらく口笛と城内の木立でさえずる小鳥の声だけが響く。
 作業が最後の一メートルにさしかかったところで、グローリアはおもむろに口を開いた。
「……お父様は、私にどんな人になって欲しいのかな」
 口笛が止む。
「さあなあ」
「歌い手でも、良いと思う?」
「いんじゃね?」
「お父様の仕事、手伝えないけど」
「メンタルケアは重要なお手伝いだぞー」
 ランスは使い物にならなくなった瓦を再び屋根の上から投げ落とした。ひさしに隠れて見えない地面で、瓦が完膚なきまでに砕け散る。
「……お母様は、どうかな」
「んー、魔術使ってるときよりは歌ってるときの方がまだ幸せそうだったけど」
 新しい瓦を設置し終わったランスは、立ち上がって両手をはたいた。
「ま、まだまだ成人まではたっぷり十年くらいはあるんだし、そんなに深刻に考えなくてもいいんじゃねえの。で」
 ちらり、とグローリアに視線を投げる。
「真面目に練習したい?」
「……うん、したい」
 グローリアは思わず身を乗り出して頷き、ランスは満面の笑みを浮かべた。
「よし、じゃあ、お歌の先生はこのランスさんが見つけてきてしんぜよう。一曲できたら聞かせろよ? 楽しみにしてっから」
「約束するわ」
「あ、でも学科とは別な。お勉強は減らさないかんな」
「……わかってる」
 それはちょっとやだなあ、と思いつつ、グローリアはまた頷いた。

 翌々日引き合わされた「お歌の先生」は、中年で化粧が派手で口調が穏やかで笑うととても綺麗な人だった。歌手としては無名だったけれど、グローリアの扱いはとても上手だった。

「その先生に乗せられて、気がつけば憧れのブルーエア劇場の練習生になるためのオーディションまで受けていたというわけ」
「でも、リーリアって家出して劇場に来たんだよねぇ?」
 向かいのベッドに寝そべっているマンハイム――「ファティマのお別れ会」では大道具を担当していた――がのんびりとした口調で首をかしげる。
「こういう体質だから、反対する人も多かったのよ。今はもう認めてもらってるけど」
「ふぅん。やっぱり、辛いことも多い?」
「内緒」
 グローリアは寝そべったまま、笑い猫のような表情で小さく肩をすくめた。隣のペナンは小さく息を吐いて微笑し、沈黙が重苦しくなる直前のタイミングでベッドのスプリングを利用して勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、明日は夕方から打ち上げもあるし、間に合うように掃除とか洗濯とかしないといかんし、そろそろ寝ますか」
「もう遅いものねぇ」
 向かいのベッドのマンハイムも、同意しながら立ち上がる。
「あ、明日、騎士団の人たちには人数の変更はない?」
 グローリアのベッドから降りながら、「ファティマのお別れ会打ち上げお食事会」の幹事であるペナンが首をかしげる。
「大丈夫。今朝アルに会ったから、ちゃんと確認しておいたわ」
「ならよし。じゃあ、明日の打ち上げ楽しみにしています。おやすみ」
「おやすみなさい」
 グローリアを除く五人が口々に「おやすみ」を言って出て行く。一人残ったグローリアは、寝そべったままろうそくを吹き消し、布団を目深にかぶって目を閉じた。
 そろそろ本当に寝静まってきたブルーエア劇場女子練習生寮、廊下に置かれたたらいの中に、また一つ雨滴が飛び込んだ。