第二話 夕立

 フレデリック・ディル・グリアとケンカした日の翌日、私は賢者の学院の屋上にいた。

 上空を雲が流れる。ゆったりとしたテンポ。降り注ぐ陽射しはそれとは対照的に厳しい。じっと耳を澄ませていれば、肌が焦げる音まで聞こえてきそうなほど。洗い立てのローブに、背中から汗が染みていくのがわかる。屋上のフェンスに寄りかかったまま見上げる空は青い。
 青。
 あの日の、手紙の色だ。

 幼馴染だった。同じ託児所に預けられ、一緒に賢者の学院幼等部に入り、中等部は私が通わなかったので一緒ではなかったが同じ教会に通っていたので顔は合わせていたし、ついに賢者の学院高等部でも一緒だった。何も知らずに受験して、入学式の点呼で初めて気付いた。
 話もしなくなったのは七歳になった頃。それからもう十年も経っていた。廊下ですれ違っても挨拶もしない。それほど遠い、存在。

 崩したのはあいつの方。
 昼休みに部活に出て、帰ってきたときクラスメイトに手渡された、賢者の学院の紋章が刻まれた封筒。表には崩れた字で私の名前が書かれていた。
「さっき隣のクラスのフレデリック・ディル・グリアが、これフォスキーアに、って」
 さほど親しいわけでもないクラスメイトは何も追求しなかった。封筒の表の文字が、フレデリック・ディル・グリアのものではないということに気付いていたからかもしれない。
 私は窓際の自分の席に戻って封筒の中身を取り出した。中に入っていたのは私の所属している部活に対する広報委員からの取材要請。その書類に挟まって、薄い、青い色の便箋。
 私は無表情のまま便箋を封筒に戻して、鞄の中に入れた。

 五時間目の授業には集中できなかった。薄青の便箋と、そこに書かれた几帳面に揃えられた筆跡をずっと思い出していた。ほんの一行だけの手紙。けれど、そこに見えた文字が見間違いではなかったと、どうしても思えなかった。

 らしくない、と思った。五時間目の後の休み時間、誰もいない実験室を見つけて、そこであいつの筆跡をたどって。
 ずっと見ていたから知っている。こんなことは全然あいつらしくない。
 私は自分の感情が単なる憧れに過ぎないと、ちゃんとわかっていた。遠くから眺めるだけでいい。話す必要なんて無い。話すことも無い。何も。
 そう思っていたのに。
 もう一度だけ、目を通した。本当にらしくない手紙。

 実験室から出てすぐフレデリックの教室へ向かった。フレデリックは廊下で、窓際に立ってこちらを見ていた。白衣のポケットに両手を突っ込んで、右足に体重を預けて。
「さっきの手紙のことだけど」
 フレデリックはいつもの意地の悪そうな笑顔のまま私を見下ろした。何も言わない。ただ、促すように視線を向けただけ。
 私はゆっくりと瞬きをして、フレデリックを見上げて頷いた。
「いいよ」
「どっちが?」
「どっちも」
 無表情を保つのに苦労した。ポーカーフェイスは得意な方だけれど。
「そっか。じゃ、放課後迎えに行く。教室で待ってろよ」
 フレデリックはいつもの偉そうな調子で私に命じた。
 私は黙って頷いた。
 私たちは、うまく表情を隠せていただろうか。

 放課後の屋上には誰もいなかった。夏の陽射しはまだ厳しい。遮るもの一つ無い屋上にわざわざ出てくるような酔狂な人間は私たちくらいらしい。
 フェンスの隙間からグラウンドが見えた。
 今日は業者がグラウンドの整備に入るので、運動系の部活の活動は禁止されていた。珍しく。いつもなら雨の日でもどうにかして練習しているのに。

 多分、そういう話をすれば良かったんだと思う。でも私は何も話せなかった。もともと人見知りが激しいから、よく知らない相手と二人きりになったとき、自分から話し出すことはほとんど無い。
「一週間前に導師昇格試験があったんだ」
「ふうん」
 結局、先に切り出したのはフレデリックだった。試験のことは知っていた。魔術師になるつもりはなかったので興味はなかったが、同じ部活の友人が頼みもしないのに詳しい話を聞かせてくれていたから。
「俺、さ、落ちた」
 黙ってフレデリックを見上げた。悲しいような、笑顔だった。いつもの挑戦的な表情ではなく。
 数秒間私たちは視線を逸らさなかった。とても長い時間に感じられた、と、表現するべきシチュエーションだと思った。
 実際には数秒間はやっぱり数秒間で、数秒間はとても短い。
 私はゆっくり瞬きをした。緊張したときの癖。
 目を開けたとき視界は暗くて、私はもう一度瞳を閉じた。背中に回された腕の感触に肩の力が抜けた。
 抱きしめ返したんだと思う、私は。太陽の光が赤く変わり始める頃には腕が痛くなっていたから。
 赤い光が灰色の分厚い雲を照らしているのをフレデリックの肩越しに見て、夕立を運んでくる雲だと思った。
 近くで雷が落ちて、大きな音がした。直後に降り出した雨はぬるま湯のようだった。長く伸びた影の上に、雨の滴が黒い円を描いた。

 学院の時計塔の鐘は魔法仕掛けで、一日を均等に十二に分けて鳴る仕組みになっている。授業の開始時間に合わせて鳴るようにしてくれと言った導師がいたらしいが、未だに直っていないところを見ると取り合ってもらえなかったらしい。
 九回目の鐘が鳴り終わる。雨はもうほとんどやんでいて、空は暗かった。
「帰るか?」
 フレデリックが言った。
「そうだね」
 頷いて、私は身体を離した。

 その日から私たちはよく話すようになった。その日のことにはけして触れずに。
 卒業した後も何度か一緒に出かけた。行き先は大概水族館かブルーエア劇場で、用事が済むと寄り道もせずに家へ帰った。送ってもらったこともなかった。あいつは他の女の子には優しいから、どうして私は送ってくれないんだと訊いたら笑ってごまかされたのでケンカした。
 他にも理由も思い出せないようなケンカを何度もして、そのたびに従妹に愚痴を言っていた気がする。従妹は笑って取り合ってくれなかったから、多分のろけだと思っていたのだろう。
 そうじゃない。雨が降るたびに、私はいらいらするのだ。二人して何も無かったように振舞っていることに。
 昨日もそうだった。あの日と同じように、急に雷が鳴って降り始めた雨。
 自分が何を知りたがっていたのかなんて最初からわかっていた。
 どうして私だったのか。どんな気持ちであの手紙を書いたのか。
 聞けなかったからいらいらして、そのたびにケンカを吹っかけた。
 不毛すぎる。バカみたいだ。そんな風になるくらいならさっさと訊ねてしまえばいいことなのに。

 ゆっくり瞬きをしてから立ち上がった。日差しに長く当たっていたせいで頭が痛い。
 そういえば、あいつの診療所、客がなかなか集まらないとか言っていた。
 たまには売り上げに貢献してやるのも悪くはないかもしれない。