ラーメンはとんこつ、星空はにせもの

「カーイ君。ラーメン食べに行こうよ、ラーメン」
「は?」
 長引きに長引いた退屈な会議が終わって宿舎に戻る途中、突然前に回り込んで来たリサが、何の脈絡もなくそう言った。壁画や天井画や神々の彫刻で飾られた光王庁の廊下には、他に誰の人影も見えない。
「カイ君も夕食まだでしょ? 安くて美味いラーメン屋見つけたんだよね。付き合ってよ」
 バロック様式の建築方式とルネサンス時代の芸術作品を模倣して造営された格調高くきらびやかな光王庁にも、カイやリサが貰っている給料にも、その単語は相応しくなかった。ラーメンなるものが如何なる食べ物か知識だけは持っているカイは、あからさまに眉を顰める。
「なぜ私が……」
「え、だって友だちじゃん、私たち」
「お前の友だちは他にも大勢いるだろう」
「ここにはカイ君しかいないけど?」
 リサがにやりと勝利を確信した笑みを浮かべ、カイは己が誘いを断るための理論構築に失敗したことを悟った。
「んじゃ、ひゃうぃごー!」
 何の迷いもなく手を取られて、一瞬思考が停止する。そのせいで振りほどくタイミングを逃したカイは、いったいどのタイミングで手を放してもらえば良いのかとひたすら悩みながらラーメン屋への道を歩いて行く羽目になった。

 リサの行きつけの店は、中央省庁区の治安維持圏内から外れた『境目』の裏路地にあった。
 品はないが強烈に食欲を刺激する香りが充満した店内の、油染みとすすで薄汚れたカウンターに二人並んで腰掛ける。
「ラーメンと言えばとんこつでしょ。おっちゃーん、とんこつ一丁!」
 座った途端、リサは片手を上げて機嫌良く大声を張り上げた。
「はいよー!」
 カウンターの中でしかめ面をしていた壮年の男が、それに負けない威勢の良い声で答える。
「私は醤油を」
「えー、とんこつが良いって言ってるのに。付き合い悪いなー、もー」
「人の趣味にとやかく言うな」
 勢いについて行けないカイは、ため息混じりに首を横に振った。
「はいはい」
 リサは軽く肩をすくめ、しょうがないなと妙に優しげな笑みを浮かべる。

「ユリンに赴任だってね」
 驚くほどの速さで提供されたラーメンを、割り箸で器用に持ち上げてすすりながら、リサが行儀悪くそう言った。
「ああ、そういうことになった」
 いちいち目くじらを立てても仕方がない。ほとんど諦めの境地で、カイはただ質問に答える。
「うらやましいな〜。い〜い所じゃない、あそこ」
「うらやましいなら代わってくれ。私が行けば、団長を妙な陰謀に巻き込むことになる」
 フォークで麺を巻き取りながら、カイはうんざりとため息を吐いた。
「えー、やだ。裏で糸引いてんのフランシスでしょ? 無理無理。あそこに太刀打ちできるわけないもん。素直に乗っといた方がマシだって」
 リサの言葉には、どこかフランシスに対する敬意にも似た感情が滲む。聖騎士団にとってはいろいろと複雑な利害関係にあるフランシスだが、カイやリサにとっては微妙に信頼を寄せられる相手でもあった。聖騎士団の害になることはあっても、リラ教会にとっては益となることしかしないだろうという、本当に奇妙な。
「ま、しょうがないから楽しんできなよ。地上の楽園ってやつをさ」
「地上の楽園……か」
「そうそう。良い機会だと思って。あ、おっちゃん替え玉一つ!」
「はいよ!」
 勢いよく挙手するリサのどんぶりに、なくなるタイミングを見計らっていたらしい店の主人が即座に麺を放り込む。
「速いな」
「カイ君がのんびりなんだって。麺伸びちゃうよ。早くお食べ」
「あ、ああ」
「とっとと食べて替え玉頼みなよ。餞別ってことでここはリサさんのおごりにしといたげるから」
 猛然とラーメンに襲いかかりながら、リサは満面の笑みだ。
「必要ない。自分の分は自分で」
「失敬な。貧乏なリサさんの出血大サービスなんだから、たまにはありがたく受け取っておきなさいよー。それにここカードも電子マネーも使えないんだよ。持ってきてないでしょ? 現金」
 財布の中を見るまでもなく図星だった。
「……すまない。しかしお前、何も買ってないのになぜそんなに貧乏なんだ?」
「貯めてるの。しゅじゅちゅだい。あ、噛んじゃった」
「手術? 何のだ?」
 食べる手を止めてリサの横顔を見つめる。
「記憶装置の埋め込みー」
 湯気の隙間から見えるリサはいつも通りの喰えない微笑を浮かべていた。発する言葉も普段の気楽な調子のままだ。
「竜化症がいよいよヤバくてね〜。私の記憶力もうほとんど役に立たないんだよね。超ポンコツ。ご飯食べたかどうかも忘れるっていう。おっちゃ〜ん、こっちの兄さんにおかわり〜!」
「はいよ!」
 言っていることは、とても気楽に話せるような内容ではないのに。
「そんなに進んでいるなら、聖騎士は引退するべきだ。ロストするぞ」
「そだねー。ま、やめないんだけど」
 リサは箸を置き、カウンターに置いてあったピッチャーから勝手にコップへ水を注いで飲み干す。
「……リサ」
「カイ君だってわかってるでしょ? ジュリアンには信用できる仲間が一人でも多く必要なんだって」
「それは……そうだが」
「今んとこ、それはカイ君と私とランティスとフェイルくらい。これもわかってるよね?」
 いつもの気楽な調子を装っているが、付き合いの長いカイにはリサが本気の話をしていることがわかってしまう。
「ダストは……」
「あの子は味方とは言い切れないよ。もっと大切なものを持ってる」
 リサはコップを持った両手でカウンターに肘をつき、ふっと微笑んだ。
「だからやめるとか無理なんだって。ほら、箸止まってる! 麺伸びちゃうってば」
 横目で睨まれたカイは、知らぬ間に継ぎ足されていた麺をため息混じりに(箸ではなく)フォークで巻き取り始めた。

 食べ終わってすぐ、カイとリサは店を出た。回転率の高いラーメン屋には、それでも数人の行列が出来ている。電圧の定まらない電球に照らされた裏路地を、肩を並べて宿舎へ向かう。ごみごみとした路地の影には、路上で暮らす人々が肩を寄せ合って風雨を凌いでいる。
「あ、そだ。プラネタリウム寄ってこうよ」
 リサがくるりと振り向いて満面の笑みを浮かべた。
「プラネタリウム? 星ならユリンでいくらでも見られるだろう」
「ユリンとプラネタリウムでは決定的に違うところが一つあーる。わっかるっかな〜?」
 リサは後ろ向きに歩きながら人差し指を振ってみせる。
「プラネタリウムの星はドーム型のスクリーンに投影機を使って映し出したものだが、ユリンの空は」
「あー外れ。正解は解説があるかないか、でしたー」
 つまらなさそうにカイの言葉を遮って、リサは細い路地の一本に足を踏み入れる。経営しているかどうかもわからない怪しげな酒場の入ったビルが建ち並ぶ路地のどん詰まりには、古ぼけたブリキに手書きの文字で「プラネタリム」と書いたプレートが掲げられていた。

 無人のプラネタリウムは、中央の機械に規定の金額分小銭を投入して席に着くと自動的にプログラムの再生を始めた。天井は脚立でも持ってくれば手が届いてしまいそうなほど低いドームで、座席は二人掛けのベンチが六組適当に置いてあるだけだ。中央省庁区の教育用プラネタリウムの機械を百分の一に縮めたような手のひらサイズの機械が、少しぼやけた光を継ぎ目の見えるドームに照射する。
「オリオン座のベテルギウスってもう爆発してんのかなー。するって話あったらしいじゃん? サーズウィアのちょっと後くらいに」
 録音された女性の声が淡々と冬の星座を紹介していく中で、リサがふと呟いた。
「そうだな。している可能性はあると思う」
「してたら結局観察できなかったことになるよね。もったいない」
 夜空に映し出された矢印が、ちょうどオリオン座のベテルギウスを指している。
「さすがにこの環境であっても、その規模の爆発となれば観測されるんじゃないか?」
「そしたら爆発してないじゃん。さっきと意見変わってるじゃん」
 隣から不満げな声と共に軽い裏拳が降ってきた。
「星が既に爆発していても、光がまだ届かないという可能性もある」
 リサの拳をぞんざいに払い除けながら、それでも律儀にカイは答える。
「あー、六百四十光年離れてるもんね。星が滅びた後も、六百四十年はその光を見られるわけだ。空が晴れてたらだけど」
 払い除けたリサの手が、そのまま天空にかざされた。
「すごいよね。死んだ後もその輝きが誰かの目に届く、とか」
 言葉の割に、リサの言い方はぞんざいだった。
「なんかさー、私、今結構感動してるんだけど」
 それにしては不満そうだ。表情を見たいけれど、ぼやけた星明かりはリサの表情までは照らし出してくれない。
「忘れちゃうんだろうなー、とか思うと、なんか、あーあって感じ」
 天空に向かっていたリサの手が力なく下ろされる。
「あーあ」
 いつものリサらしい、軽薄な調子のため息。けれど付き合いの長いカイには、そこに込められた実感の重さがわかってしまう。
「リサ。やはり、聖騎士団、やめたらどうだ」
「えー、やだ」
 即座に返ってきた言葉は、やはり軽薄な調子だった。そうやって自分の覚悟や決意を隠してしまうのは、リサの悪い癖だ。
「お前の抜けた分くらい、私がどうにかする」
「やめてどうすんの」
 リサの声がいつもより低く、力なく響く。ようやく彼女の本当の感情を引きずり出すことができた、ここからが勝負だ。
「カイ君さ、私に他になんかあると思ってるわけ?」
「いくらでも見つけられるだろう」
 絶対に、勝てる見込みのない勝負。わかっていて挑む自分は愚かなのだろうか。睨み付けるにせものの星空には、もちろん答えなど書いていない。
「無理でしょ。だって何にも終わってないのに。なのに、他に何か見つけられるわけないって」
 リサの声は震えない。彼女は泣かない。どこかにあるはずの弱さを、その心の柔らかい部分を、リサは絶対に誰かに晒したりしない。
「カイ君だって、そうでしょ? 今やめろって言われたらさ、何すんの? 一人で」
「お前を……救う道はないのか」
 絞り出した、自分の声の方が震えていた。勝ち目のない勝負。何度挑んでも結果は変わらない。己の無力さに打ちのめされるばかりだ。
「ないない。無理無理。諦めなって。カイ君だって、ただの無力な人間の一人に過ぎないんだからね〜」
 リサは軽い調子でカイの心をえぐる。そうすることでもう二度と言うなと戒める。いつものリサのやり口だ。
「あ、終わった」
 カイが言葉を失っている内に、満天の星空は夜明けの光に消えていた。歪んだ楕円形の太陽がプログラムの終了を告げている。リサは思い切り伸びをして立ち上がった。
「さーってと。とっくに結論の出ているむなしい議論は終わりにして、帰りますかー。お腹もふくれたしね」
「……リサ」
「んー?」
 立ち上がって見下ろすと、リサが横目でちらりと見上げてきた。
「私がお前にしてやれることはないのか? 何も……」
「ああ、いっこあるかな」
 視線を逸らし、先に立って歩き出しながらリサはやはりいつもの軽い調子で言う。
「何だ?」
「忘れないこと」
 一瞬リサの声だと思えなかったほど、静かで優しい声だった。
「忘れない……?」
「そう。竜化症にかかっても、おじいちゃんになってボケちゃっても、私のこと、忘れないで」
 十数年の付き合いの中で、一度も聞いたことのない、切実な響きを持ったリサの声。カイは瞬きも忘れて呆然と立ち尽くす。
 プラネタリウムの出口に手をかけたリサは、肩越しに振り返ってにやりと人を食ったような笑みを浮かべた。その表情も態度も、もういつも通りの軽薄なリサだ。
「私は忘れちゃうからさ。ひとつヨロシクー」
 ピースサインでウィンクを飛ばしてくるリサを、カイは真っ直ぐ見つめる。
「わかった。約束しよう。どんな手段をもってしても、お前のことだけは忘れない」
 一瞬目を見開いたリサは、次の瞬間にはもういつものにやにや笑いを浮かべていた。
「お、言い切ったね。えらいえらい。頼りにしてますよ。私の騎士様」
「誰がお前の騎士だ」
 いつも通りはぐらかされただけなのだが、それが妙に気に障ってカイは眉間に皺を寄せる。
「ノリでしょ、ノリ。もー、つきあいわっるいなあ」
 扉を押し開けて出て行くリサの足取りは軽い。外から下水と生ゴミの臭気が流れ込んでくる。リサの背中を追いながら、カイは誓う。
 絶対に忘れない。飄々とした笑みと軽薄な言動で本心を誤魔化してしまう、この不器用な幼馴染みのことを。
 彼女が全てを忘れてしまったとしても。決して。