ペーパームーン

 暗幕の夜空には、ボール紙にペンキを塗ってくりぬいただけの、安っぽい月と星が輝いておりました。せまい舞台をふちどるのは、座長さんが大好きなワインに似た色の幕で、女の子は生まれたときからずっと、その幕にふちどられた舞台の中で生きておりました。ごたごたと大道具がつめこまれた舞台裏やきぃきぃ鳴るふるいベンチがならべられた客席には、女の子は出て行ってはいけなかったのです。
 舞台の上で夜ごとダンスをおどり、歌ってみせるのが、女の子のしごとでした。舞台の上には女の子のほかにもおおきなくまのぬいぐるみやブリキのロボットが住んでいましたが、かれらはお客さんが帰ってしまうととたんにむっつりとだまりこんで、女の子がどんなに話しかけても答えてはくれません。
 でも、あやつり人形のスケアクロウだけはちがいました。スケアクロウは安物の紙と布とベニヤ板でできた芝居小屋には不似合いなくらい立派なお人形です。座長さんがとくべつな魔法使いにとくべつにつくってもらった、人間と同じおおきさのあやつり人形なのです。とてもきれいな金色の髪と青い瞳の、王子様みたいな姿をしています。でもちっともきどったところがなくて、ほかのだれよりも女の子に親切にしてくれるのです。
 お客さんが大勢入ってきた夜は、女の子とスケアクロウはお姫様と王子様になりました。そしてまた別の晩には、か弱い女の子と勇敢な猟師に、また別の晩には、お母さんを捜して旅に出た少女と、彼女を導く魔法使いになりました。そのときだけは、女の子は自分が白くてやせっぽちの女の子で、相手はたましいのないあやつり人形なのだということを忘れられたし、お客さんも一緒にそれを忘れてくれたのです。
 女の子が一日のうちで一番かなしいきもちになるのは、舞台が終わってお客さんが帰ってしまったあとでした。さっきまで一緒に大冒険を繰り広げていた仲間たちはみんな舞台裏やすみっこの方に座り込んでしまって、もう何を話しかけても答えてくれなくなってしまうからです。そして舞台の袖の方から、まるで汚いものでも投げつけるように、つつみに入った女の子の食事が放り込まれるのです。
「さっさと食え、食い終わったら練習!」
 つつみを投げつけた座長さんは、いつもそれだけ言うと早足で立ち去ってしまうのでした。女の子が座長さんのふとっちょでおひげの姿を見られるのは一日でそのときだけです。だから女の子は、座長さんのことがあまり好きではありませんでした。

 ある晩、女の子は舞台が終わった後もじっといちばん前の座席にすわっている女の人に気がつきました。
「何かお困りですか?」
 女の子はさっきまで演じていたお姫様の声で、そっと女の人に話しかけました。
「いいえ、いいえ。ちがうのよ、スピカ」
 首を振った女の人の瞳から、涙がすうっと流れおちました。
「ごめんなさい、スピカ。あなたをこんなところにしかおいておけなくてごめんなさい。迎えに来てあげられなくてごめんなさい」
 女の人は泣きながら立ち上がって、女の子に両手をのばしました。ふんわりと香った女の人のにおいに、女の子は目を見開いて、思わずぺたんと舞台のふちにすわりこみました。
「おかあさん?」
 女の人はだまって女の子をだきしめました。くまのぬいぐるみよりももっとやわらかくてあたたかい感触に、女の子はしあわせなきもちになって目を閉じました。女の人の胸からは、とくん、とくん、と、何かなつかしい音が聞こえてきます。
「お客さん、困りますよ」
 でも、しあわせな時間は座長さんのトンカチみたいなかちかちの声で壊されてしまいました。
「もう舞台はおしまいです。劇場が閉まる時間なんです」
 舞台の袖からこちらをのぞきこみながら、座長さんはこわい顔をして言いました。
「ごめんなさい」
 女の人はとてもとても申し訳なさそうに、大きなおなかを突き出している座長さんに頭を下げました。
「その子はここから出られないんです。連れて行くことはできませんよ」
「わかっています。ご心配をおかけしてごめんなさい」
 かちんこちんの座長さんの声に、女の人は体をちいさくしてあやまります。
「スピカをよろしくお願いします。スピカ、座長さんのいうことをよくきくのよ」
 女の子がゆっくりとうなずくのを見て、女の人はやっと小さく笑顔をうかべました。でもすぐにその笑顔はかくれてしまって、女の人は劇場の外に出て行ってしまいました。
 最後まで見送っていたかったのに、座長さんは情け容赦なく女の子の腕を引っ張りました。
「さあさあ、練習を始めるぞ」
「でもまだお夕食をいただいていないわ」
 女の子がひかえめにそう言うと、座長は白いまゆ毛をふきげんなときの形にゆがめました。
「もう食べてる時間はない。夕食は抜き。さあ、明日の練習だ」

 その晩、おなかがすいて眠れない女の子のところに、そっとスケアクロウがサンドイッチを運んできてくれました。
「きみの名前、スピカっていうんだね」
 スケアクロウは女の子の大好きな、低くてやさしい声で言いました。
「なまえ?」
 ごわごわしてかびくさい毛布にくるまって、サンドイッチを両手で持ってかじりながら、女の子はスケアクロウを見上げます。
「ぼくの名前はスケアクロウ、きみの名前はスピカ。そういうこと」
 いつもどこかとおいところから響いてくるみたいに、やさしく女の子をつつみこんでくれるスケアクロウの声は、やっぱり今日もつかれきった女の子のきもちを元気にしてくれました。
「スピカ」
 さっき、女の人が女の子にそう呼びかけていたのを、スケアクロウは聞いていたのでしょう。
「むかし、この世界にまだ青空があったころ、そういう名前の星が見えていたって聞いたことがあるよ」
「まだ青空があったころ……」
 それは、魔法みたいにすてきな響きのことばでした。女の子が知っている空は、暗幕で作られたにせものの夜空だけ。芝居小屋の外にはほんものの空が広がっているけれど、それはもう何百年もの間、灰色の雲におおわれて晴れたことがないのだと聞いたことがあります。
「スピカはおとめ座の一等星なんだって」
「おとめざ? いっとうせい?」
 スケアクロウはときどき女の子にはむつかしすぎる言葉をつかうことがあります。そんなときでも女の子が聞き返せば、スケアクロウはすぐにべつの言葉で説明してくれるのです。
「一等星っていうのは、いっとう明るい星のこと。むかしのひとは夜空にうかんだ星をつなげて、夜空に絵を描いたんだ。おとめ座っていうのは、夜空に描かれた女のひとの絵のこと。みんな夜空に女のひとの絵を思い浮かべて、あれは女神さまが夜空にのぼった姿だって考えたんだよ。スピカはその女神さまが持っている麦の穂のさきっぽで光っているんだ」
 スケアクロウはかたかた音を鳴らしながら、女の子のとなりに腰掛けました。女の子はこくびをかしげながらスケアクロウのしろい横顔を見上げます。
「女神さまに名前はあるの?」
「いろんな説があるよ」
 スケアクロウがどんなに話しても、その口は動くことはありません。
「でもぼくが知っているのは、アストライアっていう女神さまのことだけ」
「女神さまのおはなし、ききたいわ」
「いいよ。ねむるまでのおはなしは、今日はそれにしよう」
 青い硝子玉の瞳が、女の子を見つめました。人形の表情は変わることはないけれど、女の子はスケアクロウがやさしくほほえんでいるのだと思うことにしました。
「ありがとう、スケアクロウ」
 サンドイッチを食べ終わった女の子が眠る用意をするまで、スケアクロウはそこにすわってお話をしてくれました。
「むかしむかし、地上が今よりもずっと平和だったころ。人間と神様は、そこで仲良くくらしていました。でもひとびとが武器を手にして争うようになったので、たくさんいた神様はみんないやになって空のむこうへ帰っていってしまいました」
 芝居小屋のすみずみまでしみとおるようなスケアクロウの声を聞きながら、女の子は眠る用意を終えてまたごわごわの毛布にくるまりました。
「アストライアという女神さまは最後まで地上にのこってみんなに正義をおしえていましたが、それでもひとびとは自分の欲望や正義のためにたたかいつづけて、地上を血のいろでそめあげてしまいました」
「かなしいおはなし」
 女の子がそっとつぶやくと、スケアクロウはかたかたと音を立ててうなずきました。
「そうだね。だからアストライアも、けっきょく最後には人間にあいそをつかしていなくなってしまったんだ」
「アストライアがいなくなったあとでも、青空や星空はいなくならなかったの?」
「そうだよ。だからむかしのひとたちは夜空にアストライアの姿をみることができたんだ。でも、神様が地上からひとりもいなくなったあとも、人間は自分たちの神様をつくっては争ってばかりいた。だから星空も青空も、人間にあいそをつかしていなくなってしまったのさ」
 いつもやさしいスケアクロウの声に、すこしだけとげとげしたものがまじりました。
「ねえ、スケアクロウ。みんながいいこにしていたら、青空ももどってきてくれるのかしら」
 女の子はなんだかぞくぞくした寒さをかんじたので、毛布をきつくからだに巻き付けながらたずねました。
「……うん。きっとね」
 うなずいたスケアクロウの声は、もういつものやさしくつつみこむようなものにもどっています。女の子はほっとしてほほえみました。
「じゃあ、わたし、今よりうんといいこになるわ」
「ということは、今日ははやくねるのかい?」
「ええ。そうするわ。おやすみなさい、スケアクロウ」
 頭のうえまで毛布にくるまると、スケアクロウはそっと毛布のうえから女の子の頭をなでてくれました。
「おやすみ、スピカ」
 スケアクロウが呼んでくれるその名前は、なんだかとてもあたたかいきもちを女の子の胸に与えてくれるのでした。

 女の子は夢をみました。女の子を「スピカ」とよんでだきしめてくれた女の人が、暗幕の夜空からかなしそうにこちらをみおろしている夢でした。
 わたし、いいこにしているわ、と、女の子は女の人にいいました。だから、お空からもどってきて、と。
 でも女の人は片手にもった麦のたばで自分のかおをかくしてしまいました。女の子のことをみなくてもすむようにしたいみたいでした。女の子はそれをみるとさみしくてかなしくて、泣きたくなってしまいました。
「おきて、スピカ」
 女の子の大好きな、スケアクロウの声が夜空の上からふってきました。
「もう朝だよ。だからどうか泣かないで。目をあけて、ぼくをみて」
 女の子が目をあけると、燕尾服すがたのスケアクロウがこちらをのぞきこんでいました。
「わるい夢をみたの?」
「わからない……わすれてしまったわ」
 女の子はごしごしと目をこすりながら答えました。目をこすった手の甲に、涙のあとがにじみました。
「そう。じゃあ、顔を洗ってしごとの準備をしよう。今日のぼくはきみのご主人さまだよ」
 スケアクロウがげんきよくそういってくれたので、女の子もようやく笑うことができました。女の子はてきぱきと寝具をしまって、一日の準備をはじめました。

「メイカ! メイカ! 気をしっかり持て!」
 座長さんの怒鳴り声が聞こえてきたのは、みんなが一日の準備を終えて、舞台に大道具を運び込もうとしているときのことでした。メイカ、というのは、いつもみんなのご飯をつくってくれている女の人の名前です。メイカさんは女の子と同じようにこの芝居小屋から出ることが許されていないので、おいしいものをつくるための材料を自分で買いに行けないのが残念だといつも話していました。
「諦めるな! 消えてしまうんじゃない!」
 奥の厨房から聞こえてくる座長さんの声がいっそうおおきくなりました。それは、泣きさけぶような、とても胸がいたくなるような叫び声でした。
「メイカ! メイカ!」
 集まってきたほかのひとたちも、口々にメイカさんの名前を呼んでいます。舞台から出て行けない女の子は、ただそのざわめきを聴きながら、胸をどきどきさせているしかありませんでした。

 その日、時間になっても舞台の幕が上がることはありませんでした。
「ねえ、スケアクロウ。いったい何があったの?」
 誰も来ない舞台の上でただ待ち続けていた女の子は、スケアクロウが下手から姿を見せたとたんに、夢中になってかけよりました。
「メイカさんが、消えてしまったんだ」
 力のない声で、スケアクロウは教えてくれました。
「病気だったんだよ。この世界から、消えてなくなってしまう病気。その病気が進まないようにするために、メイカさんはここにいたんだ。……でも」
 いつものスケアクロウからは考えられないくらい、とてもかなしそうで元気のない声でした。
「戻ってくるの?」
 スケアクロウは表情のない人形のひとみで、じっと女の子を見下ろしました。
「戻ってこない。死ぬっていうのは、もう戻ってこないってことなんだよ」
 感情のこもらない調子で、スケアクロウは答えました。今までスケアクロウがそんな調子で話したことはありません。それで女の子には、スケアクロウが泣いているのだとわかってしまいました。
「……スケアクロウは」
 急に心配になって、女の子はスケアクロウの服の裾をぎゅっとにぎりしめました。
「スケアクロウは、いなくならない?」
「ぼくは、いなくならないよ。不死身だからね」
 ふっと、スケアクロウの声の調子がやわらかくなりました。
「ふじみ?」
「絶対に死なないってこと」
 まるで何か約束をするときのようにおごそかに、スケアクロウはそう言いました。

 メイカさんの白い棺が芝居小屋に運び込まれたのは、それから数日後のことでした。劇場のみんなは客席に集まって、舞台の上に置かれた空っぽのメイカさんの棺に祈りを捧げました。舞台の上から降りられない女の子も、舞台袖からその様子をじっと見守っておりました。舞台袖に片付けられた大道具やぬいぐるみやブリキのロボットに混じって、スケアクロウも大人しく座り込んでいます。
 客席のいちばん前でかなしそうに祈っている座長さんのとなりには、見たことのない仮面の男の人が立っていました。背の高い男の人です。
 あの人は誰だろう。
 女の子は不思議に思いました。でも今は、たずねることができる相手はひとりもいません。さみしい気持ちで何も言わないスケアクロウを見つめているうちに、さいごのひとりがお祈りを終えました。いつの間にかみんなどこかへ行ってしまって、客席に残っているのは座長さんと何人かの男の人だけです。仮面の男の人はその中には見当たりませんでした。
「スピカ」
 やわらかい声が女の子を呼びました。女の子はきょろきょろと辺りを見回して、ゆっくり立ち上がろうとしているスケアクロウに気付きました。スケアクロウの声はいつもどこから聞こえてくるかわからないので、女の子はときどきこうやってスケアクロウのことを探してしまうのです。
「今日はメイカさんのお葬式なんだよ。きみはここから出られないから、ここでメイカさんにお別れするんだ」
 スケアクロウは舞台の真ん中に置かれた白い棺を指さしました。
「わたしもお葬式に行きたいわ、スケアクロウ」
「馬鹿なことを言うな」
 ぴしゃりと厳しい声が背後から叩き付けられました。振り向くと、うれたトマトみたいに顔を真っ赤にした座長さんが棺の前に立っていました。
「馬鹿なことを言うな!」
 座長さんは大きな声でどなりました。
「外に出るだと!? 消えてしまいたいのか!? メイカのようになったらどうする気だ!」
 舞台がびりびりとふるえるくらいの剣幕でした。女の子はびっくりしてしまって、ただ目をまんまるに見開いて座長さんをみていることしかできませんでした。
 女の子が呆然としている間に、メイカさんの棺は台車に載せられて運ばれて行ってしまいました。
 女の子はぺたりと舞台の上に座り込んで、両手を組み合わせてお祈りしました。メイカさんが安らかに眠れるように。でもお祈りが神様に届いているのか、女の子にはわかりませんでした。

「メイカさんは天国へ行ったの?」
「うん、きっとね」
 みんなが戻ってくるのと一緒に起きてきたスケアクロウと、女の子はその晩小さな声で話していました。
「スピカ、良いことを教えてあげる」
「いいこと?」
 スケアクロウの青いガラス玉の瞳を、女の子はじっと見上げます。
「そう。もしかしたら、もうすぐ青空がもどってくるかもしれない。そうしたら、きみももうこんなところに閉じこもっている必要はなくなるんだよ」
「外に出られるってこと?」
 スケアクロウはゆっくりとうなずきました。
「そうしたら、スケアクロウと一緒に青空を見ることができる?」
「……ぼくには、無理だ」
「え?」
 絞り出すような小声が何と言ったのか聞き取れなくて、女の子は聞き返しました。なんだかとても苦しそうな声だったので、心配になってしまったのです。
「ううん。なんでもない。そのときぼくはここにはいないかもしれない。でも、きっともう一人のぼくがきみを外に連れて行くよ。約束する。一緒に青空を見ることはできないけれど。空を見つめるきみと、きっと一緒にいる」
 女の子には、スケアクロウが何を言っているのかよくわかりませんでした。だからきちんと返事もできません。けれどなんだか不安になるようなことを言われている気がして、女の子はスケアクロウの袖をぎゅっと握りしめたのでした。

 それは、ある日の舞台の途中のことでした。
 王子様を演じていたスケアクロウが、急にぴたりと動くのをやめてしまったのです。いいえ、スケアクロウだけではありません。おおきなくまのぬいぐるみもブリキのロボットも、みんないっせいに動きをとめてしまったのです。
「戻ってきたんだ」
 スケアクロウのうれしそうな声が、天から降ってくるように聞こえました。そしてスケアクロウはゆっくりと、舞台の上にたおれました。
「スケアクロウ?」
 いったい何がおこったのか、女の子にはまったくわかりませんでした。
「ねえ、どうしたの? スケアクロウ」
 まだ舞台は途中なのに、いったいどうしてしまったのでしょう。女の子はあわててかけよって、スケアクロウの肩をゆさぶりました。
「起きて、まだ舞台は終わっていないわ。途中でやめるなんて……スケアクロウ?」
 呼んでもゆさぶっても、スケアクロウはぴくりとも動きません。女の子はだんだんこわくなってきました。なぜだかわからないけれど、メイカさんがいなくなってしまったときのことを思い出してしまうのです。
「うそ、うそよ……だって、スケアクロウは不死身だって……」
 いやな想像を振り切るように、女の子はスケアクロウの手を握りました。
「ごめんね。それはもう動かせないんだ」
 やさしいスケアクロウの声が、なぜかうしろの方からきこえてきました。びっくりした女の子の背後には、背の高い仮面の男の人が立っていました。メイカさんのお葬式の時に、座長さんの隣に立っていた人です。
 男の人はゆっくりと仮面を外しました。男の人の顔は、口元とあご以外はすべてつやのないまっくろな闇におおわれていました。その闇の中に、ときどき流れ星のようなひかりが走ります。目があるはずのところには、筒型ルーペのような義眼のレンズがはまっていました。女の子は声も出ないほどびっくりしてしまって、ただ男の人を見上げることしかできませんでした。
「ねえ、スピカ。青空が戻ってきたんだよ。外へ行こう。今なら大丈夫。きみも外に出られる」
 座長さん以外の、人間の男の人が舞台にのぼってきたのは初めてだったので、女の子はこわくなってしまいました。
「大丈夫だよ、スピカ」
 男の人の口元が、やさしくほほえみました。その声は、スケアクロウのやさしくつつみこむような声と、まったくおなじものでした。
「君といっしょに、見たいんだ。ほんものの、青空を」
 そうして男の人は、スピカに右手を差し出しました。女の子はためらいながら、その手をゆっくりと取りました。男の人の手は大きくてあたたかくて、女の子はさっきまでのこわいという気持ちを忘れました。

 男の人に手を引かれて、女の子は生まれて初めて芝居小屋の外へ足を踏み出しました。光のあふれる外の世界では、みんなが口を開けて上を見上げています。女の子もまぶしさに目を細めながら、ゆっくりと空を見上げました。
 そこに広がっていたのは、どこまでも、どこまでも続いていくような広い広い青空でした。女の子は吸い込まれるように、ふわりと両手を伸ばしました。手のひらに降り注ぐ太陽の光が、緊張に冷え切った女の子の手をやさしくあたためてくれます。それは、すべての人が空へ飛び上がっていけるような気がするくらい、とても広くて自由な空でした。
「ねえ、スピカ」
 聞き慣れたスケアクロウの声が、見慣れない男の人の口から放たれました。女の子はまだ少し戸惑いながら、隣で空を見上げている男の人を見つめます。
「ぼくと踊ってくれる?」
 男の人はスケアクロウがダンスを申し込むときと同じように、やさしく包み込むような調子で言いました。女の子は吸い込まれるような青空からむりやり視線を引きはがして、男の人を見上げます。スケアクロウの硝子でできた瞳よりも、男の人の義眼はこわい感じがしましたが、女の子に差し出された手のやさしさは、いつもねむるまえに頭をなでてくれるスケアクロウのそれと同じでした。
「あなたは、だれ?」
 男の人の手を取りながら、女の子はたずねました。答えはもう知っていたけれど、そのひとの言葉で聞いてみたかったのです。
「ぼくの名前はスケアクロウ」
 男の人はやわらかい声で、女の子が望んだ答えを返してくれました。
 男の人の義眼にはどんな表情もうつってはいないけれど、女の子はスケアクロウがやさしくほほえんでいるのだと思うことにしました。だからいつも人形を操ってそうしてくれていたときのように、その人のリズムにあわせておどりはじめました。
 人形のスケアクロウは動かなくなってしまったけれど、不死身のスケアクロウはこれからもずっと女の子とおどってくれるのです。
 やっと戻ってきた青空の下で。