あなたとならどこへでも

 柔らかなランプの明かりに照らされた屋根裏で、ジュリアンはフィラと二人で毛布にくるまっていた。踊る小豚亭はもうすっかり寝静まっているけれど、まだ眠ってしまうのが惜しいような気がして天窓から見える夜空を見上げている。客室を空けたからそこへ移っても、とエディスには言われたのだが、二人ともこの狭くて居心地の良い場所が気に入っていたのでつい遠慮してしまった。
 もともと物を欲しがる性質ではないのか、フィラが暮らしてきた屋根裏部屋はすっきりと片付いていた。家具らしい家具は大小二つのチェストだけだ。小さい方のチェストを、フィラはコップやランプなどの小物を置く机代わりにも使っているようだった。個性を主張するわけではないけれど、丁寧に選んで手入れされてきたのだろう品物たち。壁に飾られた小さな額の中には、生意気そうな白猫の絵が収まっている。よく見ると右下のサインはバルトロのものだった。以前来た時に見かけた記憶はないから、もしかしたらジュリアンがグロス・ディアから戻ってくる間に描かれたものなのかもしれない。
 フィラがユリンを出ていたことは、もう皆に知れ渡っていた。ユリンがどういう場所だったのか明らかになったために、フィラがここにいられなかった理由とサーズウィアが来た後で戻ってきた理由が、どちらも説明できるようになったからだ。ジュリアンはフィラがユリンを出た後に出会った賞金稼ぎで、今は婚約中だと紹介されることになった。エルマーが聖騎士団時代の戦友の息子だと身元を保証してくれたからか、旅の間に雰囲気が変わったせいか、ファーストネームも髪の色も変えていないのに元聖騎士団団長ジュリアン・レイと今のジュリアンを結びつけて考える者は今日のところはいなかったようだ。
 フィラの婚約の話は前から出ていたようで、興味津々に馴れ初めを聞かれたりはしたけれど、それもあまり深く突っ込んで聞かれることはなかった。皆の今日の関心はエディスやユリンを訪れていたキースがそうなるように誘導してくれたおかげもあって、ほとんどバルトロの飛行機の方に持って行かれていたからだ。午前中で一通りの祝福を受けた後、積もる話もあるだろうから、とエディスとエルマーから休みを言い渡されたので、午後は二人で町を散歩しながらお互いが今までどうしていたかをずっと話していた。その割にまだ話し足りない気がしているのだが、屋根裏に上がって寝る支度を調えてからはなぜか沈黙がその場を支配している。
「これから……どうしますか?」
 黙ってカモミールティーを飲んでいたフィラが、ふと静かな声で問いかけた。
「とりあえず、仕事を探さないとな」
 どうにかこちらの大陸に辿り着いた後は、WRUからの難民に紛れて最低限の入国手続きだけをして入ってきて、フェイルと連絡をとった翌日にはひとっ飛びにユリンだ。自分でも驚くくらいこれからのことは白紙だった。
「賞金稼ぎとしてやっていくつもりはないから、他に手を考えないと」
 フィラが身動ぎして、ジュリアンを見上げる。未来は白紙だけれど、ここまで戻ってくる間ずっと考えていた。出来ることなら、これからはフィラが安心していられるような生活を送りたい。どちらにしろ、賞金稼ぎとしてやっていくにはまた一から魔術を使わない戦闘技術を学び直さなければならないし、天魔に対抗できる武装も手に入れなければならない。ゼロから始めるのであれば、平穏な生活を手に入れる方がまだ楽な道ではあるのかもしれなかった。
「まずはWRUからの難民を対象にした教育機関か、どこかその辺りへの就職口を探すか……」
 離れている間にすっかり世界の状況が変わってしまったから、様々な情報を集めるところからしていかなければならない。個人的なつては色々あるけれど、どこまで頼りにして良いのかは迷うところだった。
「お前はこれからどうする予定だったんだ?」
 フィラと視線を合わせて問いかける。間近で瞬く瞳に、触れ合った肩の体温に、帰ってきたのだという実感がじわりと湧き上がった。
「私、来年はリラ教会立音楽院を受験しようかと……」
 フィラは空になったマグカップを寝藁の側の棚に置いて、ジュリアンに身を寄せ、手を重ねる。甘えるような仕草に微笑しながら、ジュリアンは空いている方の手でフィラの肩を抱き寄せた。
「とすると中央省庁区だな」
 中央省庁区ではジュリアンのことをよく知っている人間も多いから、さすがに名前も姿も変えないままではまずいかと考える。数ヶ月領主として過ごしただけで、人前にも余り出たことがないユリンとでは状況が違いすぎる。
「あ、いえ、しようと思ってた、んですけど」
 なぜ過去形なのかと疑問に思いながら、ジュリアンは先を促すようにフィラの顔を覗き込む。
「さっきフェイルさんから、来年の夏頃にはヨーロッパと中央省庁区の間で航空便が就航するって連絡があって」
 迷うように視線を揺らしながら、フィラは言葉の先を探しているようだった。
「それで、フランスのパリの音楽院がそれを記念して特別枠で北米大陸からの生徒を募集する予定もあるって……」
 目を伏せたフィラの逡巡に、ジュリアンは微笑する。心は既に決まっているように見えるけれど、フィラにはまだどこか躊躇いがある様子だった。
「フェイルがわざわざ情報を寄越したということは、特別枠に採用される可能性があるということだろう」
 今まで足を踏み入れたことのない、言葉も恐らくほとんど通じないだろう大陸へ渡ることには、フィラももしかしたら不安があるのかもしれない。
「ヨーロッパの方は風霊戦争の主戦場とは離れていたから、比較的天魔や荒神の数は少なかったらしい。治安はこちらよりも良いかもしれないな」
「あの、でも、ジュリアンは……」
 背中を押すような言葉に、フィラは戸惑った瞳でジュリアンを見上げる。
「どこか、行きたい場所とか、住みたいところとか」
 言葉とは裏腹に重ねた手に微かに力が込められたのがわかって、離れたくないと言われているような気分になった。今さら離れたりするわけがないのに。
「俺がしたいことはどこでも出来る。強いて言えば、中央省庁区だと知り合いが多すぎて今のままの姿と名前を使うわけにはいかない、くらいだな」
 旅立つ前よりも近くなった気がする距離で、フィラが瞬いた。
「お前はどうなんだ? リラ教会立音楽院を目指したい気持ちもあるんじゃないか?」
 フィラはたぶん、中央省庁区で今まで通りに暮らすわけに行かないジュリアンの事情をわかっている。フランスへ渡りたいという気持ちは嘘ではないと思うが、ずっと目指してきたリラ教会立音楽院への希望をそのために曲げようとしているなら、そんなことは気にせずに決めて欲しかった。多少の不便はあるとしても、どうにかなるだけの味方はいる。
「あ、あのですね」
 フィラはなぜかジュリアンと正面から向き合うように姿勢を正して、改まった口調で話し始めた。
「こっちの大陸では、風霊戦争の後でいったん音楽の文化が途切れてしまっているんです。だから、こちらで教えられている音楽はほとんど考古学的な調査の結果なんだって、以前先生から聞きました」
「ああ、そうだろうな。リラ教会立音楽院の設立も確か十数年前だったはずだ。エステル・フロベールも関わっていたんだったか」
 音楽については詳しくないが、国家施策とエステルの来歴についてはある程度把握している。それに、途切れてしまったのは音楽文化だけではない。こちらの大陸ではあらゆる文化が風霊戦争以前とは断絶してしまっていると言っても過言ではなかった。フィラは少しだけ気の抜けた様子で肩を下げる。
「やっぱり知ってたんですね」
「まあ、いろいろ調べたからな」
 フィラが光の巫女なのではないかと疑いを持ってから、フィラ自身だけでなく、その周辺の人々まで第三特殊任務部隊《レイリス》に細かく調査させていた。エステルに関してもフィラと同じくらい詳細に調査する必要があったし、その調査結果は当然頭に入っている。
「……私より詳しそうな気がする」
 拗ねたように視線を逸らすフィラに、ジュリアンは苦笑した。確かに、忘れてしまった方が良いことなのかもしれない。今のフィラのことはこれから知っていけば良いのだし、本人の意志を無視して集められた情報を知られているというのは、あまり気分の良いものではないだろう。
「パリの方は途切れなかったんだな」
 話の流れからすると、そういうことだ。確認するジュリアンに、フィラは神妙に頷いた。
「そうらしいんです。だから、その、もし、良かったら……」
「そうだな。こちらの大陸よりは顔が割れていないし、過ごしやすそうだ」
 フィラに見透かされているとおり、故郷を離れがたい気持ちがないわけではないが、どうせどこに行ったって何もないところからすべてやり直しだ。やってみたいことは色々あるけれど、ありすぎて一つ選ぶとしたらフィラの側にいることくらいしか思いつかない。ただ、どこへ行ってもどうにかなるんじゃないかという出所のよくわからない自信があった。何も未来が決まっていない今の状況を何故か楽しんでいる自分を感じる。
「一緒に行こう。俺も見てみたい」
 そう告げた瞬間、少しだけ緊張していたフィラの表情がふわりと緩む。ほっと安心しきったように綻ぶその笑顔が見たかった。満足してその肩に額を寄せると、頭の中で「もう我慢出来ない!」とティナが叫ぶ声がした。
「ちょっと、僕出かけてくるからね!」
 膝元に微かな魔術の気配が集まる。視線だけそちらに向けると、わざわざほんの僅かに残った魔力で幻の子猫の身体を作ったティナが、すり抜けるとわかっていながらジュリアンの膝を引っ掻いていた。気配と声に気付いて、フィラもそちらを見下ろす。
「ティナ。出かけるって、出来るの?」
「出来るよ! 意識を遠くに飛ばすんだよ! 同化するってったって一心同体になるわけじゃないから!」
 毛を逆立てながら吼える姿は、完全に以前のティナのままだ。光の神であるティナは幻の魔術を呼吸するように操ることが出来るから、たぶん意識もせずに以前と同じ感覚で振る舞っているのだろう。
「じゃあ行ってくる!」
 ひとしきり早口で、同化したとはいえいかに自分がジュリアンと別の存在であるかをまくし立てたティナは、最後にそう告げるとさっと窓硝子をすり抜けて屋根裏部屋を出て行った。
「えっと……」
「なんだか……あっという間にいつも通りだな」
 フィラと過ごしてきた時間はどう考えても非日常だったはずなのに、平穏な時間はずっとこれが日常であったような錯覚を呼ぶ。
「そうですね」
 ジュリアンと目を見合わせたフィラが、嬉しそうに肩を揺らして笑う。
「私、本当はジュリアンとだったらどこへでも行けるって思ってるんですよ」
 身を寄せ合った距離で、フィラは内緒話のように耳元でそう囁いた。
「ああ、俺もだ」
 フィラの身体を抱き寄せながら、満ち足りた気持ちでそう告げる。どこにだって行ける。そして幸せになれる。そこが世界の果てでも、この世の終わりでも、地獄の底であったとしても。
 今はもう、そんなところへフィラを連れていくつもりは、もちろんないけれど。