海の向こうの国

 フィラの留学が正式に決定した後、ジュリアンは数ヶ月時期をずらして別ルートでフランスへ向かうことになった。
 WRUからの難民が、就航したばかりの高額な航空便に乗るのはあまりに不自然なので、貨物輸送船の三等船室に乗って二十日ほどの旅路だ。
 ジュリアンの今の立場は、WRUの非人道的な実験への協力を渋って社会的に抹殺された研究者、ということになっている。つらい思い出の残るWRUに別れを告げ、新天地を目指したことになさいませ、とそのプロフィールを考えたフェイルが言っていた。確かにそう話せば、過去を根掘り葉掘り聞きたがる人間は減るだろう。実際、長い船旅の中で話すようになった人間も幾人かいたけれど、ジュリアンの過去には余り触れないでいてくれた。
 彼らから聞いたWRU国内の状況は、思っていた以上にひどいものだった。経済はほとんど破綻し、兵役を拒否した者は容赦なく実験体として捕らえられて研究塔へ送られ、一部の政府関係者以外は泥をすするような生活を余儀なくされていたらしい。そんな状況でランベールの支援を受けたレジスタンスの組織は人々の希望だったと、彼らは語った。もちろん、それは難民として新大陸を目指さなければならないような立場の者から見たWRUの姿だ。
 サーズウィアの到来をもって完成した革命は、WRUの人々にはそのまま『サーズウィア革命』と呼ばれているらしい。それを引き起こした張本人としてはやや複雑な気分だった。
 その辺りの話は居心地が悪かったけれど、過去の話が一段落すると、ヨーロッパで仕事が見つかるのか、かつて新大陸を目指した祖先たちはこんな気分だったのだろうかと、これからのことに話題は移っていった。長い船旅の間、とりとめもなくそんな話をしながら娯楽もない長い船旅を乗り切った。
 特にかつて研究塔に勤めていたという四十歳くらいの男とは、フェイルが考えたジュリアンの身の上と辿ってきた道が近いこともあって話が弾んだ。クレイグと名乗ったその男は、言葉を濁してはいたがダストの『開発』に関わったことがあったらしい。
 新たな世界を『創造』するという、恐るべき魔術の開発に関わっていたのだと、酒に酔ったある晩、人目の少ない甲板で彼は語った。生み出された不安定な世界のバランスを保つために、強大な魔力を持つ人間をその世界の中に継続的に生み出す必要があり、ダストは当初そのひな形として作られた存在だったらしい。そのひな形の作成があまりに上手く行きすぎたので、兵器開発部門に接収されてダストは戦術兵器として使用されることになった。男から得た断片的な情報と今までにジュリアンが得てきた情報を総合すると、そういうことになる。
 敬虔なキリスト教徒であるらしいクレイグは、世界を創造するなどという神への冒涜に荷担したことを悔いているようだった。けれど同時に、生み出された世界には我が子に対するような愛情を感じてもいるのだと、懺悔するように彼は告げた。
「サーズウィアが来たあと、我々が作ってしまった世界がどうなっているかはわからない。魔力の供給が途絶えたことで滅びてしまったかもしれない」
 夜の甲板で星を見上げながら、クレイグはそう話し続ける。
「神の領域に踏み込んだ我々は罪を背負わなければならない。しかし彼らはただこの世に生まれ落ちてきただけだ。それを救うことが出来なかったとしたら……それもやはり我々の罪だ」
 その世界の崩壊を防ぐために、ダストが聖騎士団を抜けたことをジュリアンは知っていた。だから大丈夫だと彼に言ってしまいたかったけれど、今のジュリアンは元聖騎士団団長のジュリアンではない。
「生命は案外しぶといものです。きっと何とか生き延びているでしょう」
 気休めのようにそう慰めながら、それが自分自身でも祈っていることなのだろうと思った。生きていようと死んでいようと、二度と会うことは叶わない戦友の未来を。

 ル・アーブルの港に着いて入国手続きを済ませたところで、船で共に渡ってきた皆とは解散になった。とはいえ、向かう先が同じ者も何人かはいる。クレイグもその一人だったので、またしばらく同道することになった。まだこちらの言葉を覚えていない彼らを手伝って切符を買い、パリへ向かう列車に乗り込む。
 数ヶ月暮らしていくだけの金は、出発前にこちらでも使える口座に用意してあるけれど、住む場所も仕事もまだ何も決まってはいなかった。フィラが来る前に、ある程度の生活基盤は築いておきたいところだ。そんなことを考えながら、入国手続きの後にもらったこちらでの生活を紹介したパンフレットを読んでいると、隣に座っていたクレイグが話しかけてきた。
「君はこれから行く当てはあるのかい?」
 クレイグが昔から憧れていたという理由でパリを目指していることは、船旅の途中で聞いていた。天魔や荒神の被害の少なかったこちらの大陸では、まだ風霊戦争以前の地名や文化がだいぶ生きている。それでも都市が結界と防壁によって要塞化しているところと、列車が装甲で覆われているところは光王庁の周辺と変わらない。サーズウィアが来る前は、さらに天魔の襲撃に備えた魔術装置も装備されていたのだろう。ティナと融合したために未だに感じることが出来る魔力の痕跡からも、それが伺えた。
「出来れば学位を取得したいので、奨学金を狙いつつ仕事も探すつもりです。WRUで改造を施されたために、今でも僅かながら魔術を使うことは出来ますし、今後天魔に対抗していくための方策を研究出来る仕事に、いずれは就きたいと考えているので」
「しかしそれでは、言語の壁が大きいだろう」
 レイ家は代々フランス語を母語にしてきたけれど、その言葉はヨーロッパ方面との連絡手段が大きく制限されてしまった風霊戦争以降の歴史の中でずいぶんと変質してしまっている。だから、確かにそのまま言葉が通じる、というわけではなかった。
「ここに来るまでに学習しました」
 大陸間の通信回線は今のところ政府関係者と一部の企業以外の一般市民が使えるほどには整備されていないけれど、それでも大陸内の通信基盤は整えられているので、レイ家の出版部門の努力の成果で、諸外国の出版物は身分と立場を失った後でも利用することは出来た。
「……なんだと?」
「基礎的な魔術の理論くらいならこちらの言葉で説明出来るかと」
「日常会話通り越してそこか……」
 何故か遠い目をしているクレイグに、ジュリアンは苦笑する。
「出来るだけ早めに仕事を見つけたかったんですよ」
 向こうからいくつかの高等魔術学校に送っておいた履歴書と動機書への返事は、リラ司教国の大使館へ送られているはずだった。実績も紹介もなく、学歴も証明できない状態ではあるけれど、フィラが入学を許されたのと同じように、リラ司教国からの移民、特にWRUからの難民のために特別に用意された枠がある。大学側の選考を通ることが出来れば、奨学金はリラ司教国が出してくれることになっていた。狭き門だが、能力さえ示せれば道は開ける。
「準備万端だな」
 その話を聞いたクレイグは驚きを通り越して呆れているようだった。
「……そういう性分なもので」
「そう見えるよ」
 私はリラ司教国の制度に頼りたくはなかった、とクレイグは小さく呟く。
「WRUに未練はないが、それでもリラ司教国は敵国だ。ずっと敵対してきた自分が、戦争が終わったからといって頼って良いものか……」
 クレイグの苦悩は、実際にはWRU出身ではないジュリアンには共有することの出来ない感情だ。
「リラ司教国の制度は、我々を助けるためだけに整備されたものではないでしょう」
 だからジュリアンは、割り切った意見を述べることしか出来ない。
「国内の治安の維持、失業率の低下、食糧問題……国外への移住を斡旋するのは、そういった事情も絡んでいると思います」
 その言葉に、クレイグは小さく苦笑した。
「そうだな。今後の生活のことを考えると、私も割り切るべきなのかもしれない」
「もしも何か知りたいことがあれば、俺に連絡してください。できる限り協力します」
 入国手続きを待つ間に手続きして手に入れていた携帯端末のアドレスをメモして渡すと、クレイグはまた呆れたように笑った。
「いやはや、本当に準備万端だ。君と知り合えて幸運だった。頼りにさせてもらうよ」
 連絡先を教えても彼の方から連絡してくる可能性は低く、こちらから連絡を取る手段はない。わかっていて教えたのは、誰一人知る者のいない土地で、故郷を同じくする者に対する感傷だったのだろう。そう自覚しながら、ジュリアンはクレイグと別れた。

 新天地での生活は、もちろん一筋縄ではいかなかった。安宿に宿泊しながら高等魔術学校の入学資格をもらった後、大使館で手続きしてようやく奨学金を得て、住む場所を探すのはそれからだった。入学証明書がなければ、ジュリアンはただの流れ者だ。ほとんど身分の保障はない。言葉はどうにかなったけれど、長期間にわたる断絶でかけ離れてしまった法や教育制度の違いを乗り越える方が大変だった。
 それでも到着して一ヶ月が経つ頃には、どうにか無事高等魔術学校への入学を認められ、人の良さそうな老夫婦が大家を務めるぼろアパートの屋根裏に部屋を借りることも出来、やっと生活は落ち着いてきた。
 高等魔術学校では、ジュリアンは天魔――こちらの大陸では怪物《モンストル》と呼ばれるのが一般的だった――の行動学を研究している教授の一人に気に入られ、もうわかっていることは学ばなくて良いと言い渡されてあっという間に実質的な助手にされてしまった。給与は出るし、最先端の研究成果に日夜触れられるのだから不満はない。
 不満があるとすれば、自分で作る食事だ。自炊は初めてというわけではないけれど、以前には感じなかった味気なさに毎晩気分が沈むのだけはなんとかしたかった。自分はこんなに料理が下手だっただろうか。上手でない自覚はあったが、少なくとも普通に食べられるものは作れていたと思っていたのだが。不思議に思って外食を取ってみたこともあるが、こちらの食事にまだ慣れていないからか選び方が下手なせいか、やはりあまり美味しくは感じられなかった。
 用はないが一緒に酒でも呑まないかと誘いをかけてきたクレイグは、その話を聞いて「一人の食事なんてそんなもんだ。そのうち慣れる」と笑い飛ばした。
 そういうものだろうか。フィラが来る予定の日の三日前になっても、最低限の家具とアップライトピアノだけを置いた部屋で食べる自分で作った食事は味気ないままだった。中央省庁区よりも冬の冷え込みはひどいけれど、部屋の中は心地良く暖まっている。それでもどこか寒々しい心地もする。
「ティナ」
 やる気なく作ったシチューをつついていたジュリアンは、ため息混じりに相棒の名を呼んだ。
「何?」
 白猫の姿が、シチュー皿の後ろに音もなく現れる。
「食事、美味しくないよな」
「……僕に聞かないでよ」
 呆れた表情で答えるティナに、それもそうだと苦笑した。
「別に下手だとは思わないけどね。本当に下手な奴って、絶対に味見しないし全部強火で調理するし」
「……焦げないか?」
「焦げるよ。だから下手なんじゃないか」
 ティナはうんざりした表情で首を横に振る。
「もしかしてエステル・フロベールの……?」
「そうだよ」
 他に誰がいるんだとでも言いたげだった。
「フィラが作り置きしてたのをあたためるときでも焦がしてた」
「それは……すごいな」
 普通、自動調理にしておけば料理を焦がすなどあり得ないはずなのだが。
「だから本当に下手なんだって……」
 さっきと同じ台詞を繰り返したティナは、ふと顔を上げて部屋の入り口の方を見やった。
「僕ちょっと散歩行ってくる」
 唐突な宣言と共に、その姿と気配が掻き消える。理由はすぐにわかった。人の気配がこちらへ上がってくる。しかし、こんな時間にジュリアンをわざわざ訪ねてくる人間に心当たりはない。
 誰だろうかと考えているうちに気配は扉の前に立って、数秒の沈黙の後に躊躇いがちなノックの音が響いた。不思議と胸が騒ぐような感覚に背中を押されて、ほとんど警戒することもなく扉を開ける。その向こうに立っていた、半ば予想していた姿に、ジュリアンはそれでも目を見開く。
「フィラ……」
 到着の予定は三日後だったはずだ。なぜ、と問いかけるのも忘れて呆けたように見つめるジュリアンに、フィラは照れくさそうに微笑んだ。
「一便早い直行便に乗れたから、来ちゃいました」
 ボストンバッグ一つを肩にかけて、この季節には薄すぎるコートに身を包んだフィラは、寒さに頬を赤く染めてそう言う。
「……そうか。どうぞ」
 寒そうな少女を招き入れると、フィラは「お邪魔します」と小声で言いながら入ってきた。
「おかえり」
 その台詞をわざと聞かなかったことにしてそう言うと、フィラは「あ」と慌ててジュリアンを見上げた。
「……ただいま、です」
 やっぱりどこか恥ずかしそうなその視線に微笑しながら、ジュリアンはフィラの肩に腕を回して抱きしめる。ボストンバッグを床に落としてすがりついてきたフィラの冷えたコートが、あっという間にジュリアンの体温で暖まっていく。
「会いたかった」
 素直な感情を吐露すると、フィラが小さく「私もです」と答えた。そして二人同時にほっと息をついて、一瞬の間を置いて同時に笑い出す。寒々しい感覚はもうどこかへ消えてしまっていた。
「それにしても」
 身体を離したジュリアンが口を開くと、フィラは妙に嬉しそうに微笑みながら小首を傾げる。
「連絡先は教えていただろう。言ってくれれば迎えに行ったのに」
 住所と一緒に手紙で送った記憶がある。それがフィラの元まで辿り着いていなかったとしたら、フィラがここに来ることも不可能だったはずだ。
「それがですね……」
 フィラは気まずそうに、けれどやっぱりどこか嬉しそうに視線を逸らす。
「飛行機、一つ早い便に乗れることが決まったのが出発の二時間前で、もう手紙を出しても私の方が先に届くような感じで……」
 フィラが話している間に、ジュリアンは床に落とされたままだったボストンバッグを拾い上げ、フィラを奥へと導く。フィラがバッグを取り返そうとするのを手で制して、代わりに話の先を促す。
「空港に着いてから連絡しようかと思ったんですけど、こっちの電話のかけ方がわからなくて」
「空港からはどうやって?」
「住所はわかっていたので、ここに行きたいっていろんな人に聞きながら……」
 危なっかしいな、と微かに眉根を寄せているうちに、部屋に入ったフィラは辺りを見回して目を輝かせた。視線の向かう先はアップライトピアノだ。フィラから(半分無理矢理)聞き出しておいたとおりの条件を、個人工房の主に伝えて設置してもらったピアノだった。気むずかしいピアノ工房の親爺に話を聞いてもらうまで、一週間以上通い詰めなくてはならなかったけれど、フィラの表情を見る限りその甲斐はあったようだ。無茶な強行軍を咎める気持ちも、その表情を見ているだけでどこかへ溶けていってしまう。
「あ、すみません」
 ピアノに見入っていたフィラは、はっと我に返ってジュリアンへ振り向いた。軽く頷きながらバッグをソファに下ろし、「夕食は?」ととりあえず実務的な質問をしておく。
「まだなんです。途中で買ってこようと思ってたんですけど」
 この時間なら店はもう閉まっているだろう。
「残り物で良ければあたためるが」
「嬉しいです。ありがとうございます!」
 今日のフィラはいつも以上に表情豊かだ。心の底から嬉しいのだと、その表情を見ているだけで伝わってくる。
「味は期待するなよ。準備しておくから、先に着替えてくると良い。部屋は右奥の扉だ」
「了解です」
 フィラはおどけて敬礼してから、バッグを持って弾むような足取りで寝室へ入っていった。ジュリアンはその間に作り置きしておくつもりだったシチューをあたため直す。
 どこか欠けていた日常が、あるべき形を取り戻したような鮮やかな心地がしていた。二人で食べる食事は、一人の時よりも美味しいのだろうか。なんとなく既に結論は出ているような気がしながら、ジュリアンはフィラが寝室から戻ってくるのを待った。