第二話 竜は低気圧を運び、騎士は低血圧を嘆く

 2-8 ティナ

「妙だな」
 洞窟に一歩足を踏み入れたジュリアンが、そう言って辺りを見回した。フィラもつられてあちこち見回すが、昨日来たときと変わった様子は特にない。
「妙、ですか? 私は何も感じませんが」
 一足遅れて入ってきたフィアも、不審そうにジュリアンを見上げている。
「ああ、いや。闇の竜がいるにしては光の魔力が強いように感じただけです」
 ジュリアンがなんでもないような口調で言う。しかし、それってつまり竜の魔力が弱まっているってことなんじゃないだろうか。そう考えた途端、締め付けられるような不安を覚えて、フィラは知らず駆け出していた。
「おい」
「フィラさん!?」
 背後で戸惑ったような声が二つ上がり、一瞬遅れて天井付近に光が灯る。それらには構い付けず、フィラはただ一心に洞窟の奥へ進んだ。まさか間に合わなかったなんてことは、まで考えて嫌になって首を横に振る。
 昨日見た場所に竜はいなかった。洞窟の入り口まで届いていた竜のうめき声も聞こえない。助けを呼んでくると約束したのだから、竜もここで待っているはずなのに。
 悪い方へ流れてしまいがちな思考を振り払うように、フィラは洞窟のさらに奥へと走る。そんなことあるはずない。竜の感情には、少なくとも時間に対する焦りはなかった。助けが来るなら一週間後くらいでも大丈夫、くらいな余裕はあったはずだ。だから。
 十数歩行ったところで、急に両側の壁が遠ざかった。フィラを追いかけてきた、おそらく魔法で作り出されたのだろう光の球体が、少し広くなったその場所を照らし出す。二十人くらいは輪になって踊れそうな広さのそこは、天井もここに来るまで通り抜けてきた通路より幾分か高い。
 竜は洞窟の隅でうずくまっていた。光が身体に当たると、彼女はゆっくりと首をもたげる。緩慢な動きだったが、彼女は確かに生きていた。
「良かった……」
 ほっと息を吐いたフィラが竜に歩み寄ろうとしたとき、ふいに真っ白な何かが竜の前足の間から飛び出してきた。
「フィラ!」
 真っ白な何かはフィラに向かって走りながら叫んだ。声変わり前の少年のような声だった。思わず駆け寄ろうとした動作を止めて、フィラはまじまじとその『何か』を見つめる。
 白い子猫。そうとしか考えられない外見。
 ――猫がしゃべった? 私の名前を呼んだ?
 子猫は呆然とするフィラの前まで走ってきて、期待に満ちた瞳でこちらを見上げる。
「今、彼女に教えてもらってたんだ。もうすぐ君がここに来るって」
 白猫が言い終える前に、ジュリアンとフィアが広間へ走り込んできた。
「猫が……しゃべった……?」
 呆けたように呟くフィラの脇をすり抜けて、フィアが竜に駆け寄る。そしてすぐに両手をかざして、何か呪文らしきものを唱え始めた。素早い。
「……って、フィラ? 何言ってるのさ?」
 フィラが呆然としている間に、白猫は眉間にしわを寄せて、子猫の表情筋が許す限りの渋面を作った。
「彼女は記憶喪失なんだそうだ。二年前からの記憶が無いらしい」
 広間の入り口でしばし立ち止まっていたジュリアンが落ち着いた口調でそう言って、やはり落ち着いた足取りで歩き出しフィラを追い越していく。
「彼女は大丈夫だよ」
 ジュリアンの後を追った方が良いだろうかと思案していると、白猫がフィラの思考を読んだように話しかけてきた。
「さっき僕がちょっとだけ魔力を分けておいたし、君の妹は随分治癒魔法が上手いみたいだから。それよりさ」
 白猫は数歩助走を付けて、フィラの腕の中へ飛び上がってくる。
「わ、わっ」
 慌てふためきながら抱き留めると、子猫の青い瞳の中に微かな笑みが灯った。
「ねえフィラ、ホントに記憶喪失なの?」
「うん……ごめん」
 親しげな子猫の口調には懐かしさを感じるけれど、子猫の名前もなぜ子猫が人間の言葉を話せるのかも思い出せない。腕の中に収まった白猫の毛はぽわぽわの産毛で柔らかくて、高い体温がすぐに伝わってくる。
「じゃあ、自己紹介から始めなきゃいけないんだ」
 子猫はしっぽの先をくるりと動かした。
「僕はティナ。光の神だよ。力は同族の中でもかなり弱い方だけど、君のピアノの師匠の守護神をやってた。今はただの君の友達……まあ、それも過去形にしなきゃいけないのかもしれないけど」
 フィラは慌てて首を横に振る。
「ううん、ティナ、聞き覚えあるよ」
「それは嬉しいね」
 子猫は満足げに瞳を細めた。満足そうな子猫の表情ってなんでこんなにかわいいんだろうと思う一方、フィラは胸を内側からちくちくと刺すような罪悪感に眉根を寄せる。
「ねえフィラ、僕のことを思い出してよ。なんか忘れられてるってさ、ムカツクって言うか、寂しいって言うか」
 罪悪感でそろそろ泣きたい気分になってきたところで、フィラはジュリアンが竜の側からこちらへ戻ってきているのに気付いた。
「君がここに住んでるなら、僕も一緒にここに住むよ」
 猫はフィラが視線を上げたことに気づいているのかいないのか、きっぱりとした口調で話し続ける。
「ここに住むつもりなら、その前に少し城へ来てもらう」
 フィラが何か答える前に、ジュリアンが冷淡な声で宣言した。
「なんでだよ」
 ティナはとたんに不機嫌な表情になって振り向き、フィラの腕の中から警戒心をむき出しにしてジュリアンを見上げる。
「話しておかなければならないことがあるからだ」
 ティナが毛を逆立てた。フィラにはティナの後頭部しか見えないが、たぶんますます不穏な表情をしているのだろう。
「僕にはないね。だいたい君、フィラの何なの? まさか、あんたがフィラの記憶を消したんじゃないだろうね?」
「ちょ、ちょっとティナ、なんでそんな」
 いくらなんでも攻撃的すぎる口調に、フィラは思わず口を挟んでしまう。
「俺がフィラと初めて出会ったのはついこの間なんだが」
 ケンカを売られている側のジュリアンは、さほど気にしたふうもなく冷静に答えた。
「フィラ、それ本当?」
 ティナが片方の耳をフィラの方へ向けて尋ねる。
「うん、それは本当」
 フィラはため息混じりに答えた。
「『は』?」
 ティナがこちらを振り仰いで、引っかかった表現だけを復唱する。
「うん。団長、よく嘘つくみたいだけど、それは本当」
 ティナは半眼になってジュリアンに向き直り、フィラが見上げるとジュリアンも半眼でこちらを睨んでいた。険悪な視線にたじろぎながら、フィラも上目遣いで見つめ返す。
「まったく、なんでこんなに警戒されなければならないんだ」
 ジュリアンは両腕を組み、不機嫌そうに呟いた。
「あんたが結界を張ってる張本人だからだよ。今まで僕がフィラを捜し出せなかったのはあんたのせいじゃないか。今まで僕からフィラを隠してた奴を警戒するのは当然のことだろ」
「人聞きの悪いことを言うな。俺はこの街を守る結界を維持していたに過ぎない」
 ティナのとげとげしい物言いに、ジュリアンもうんざりしたような声音を返す。
「この飼い主にしてこのペットありだな」
「僕はペットじゃない。わかってるくせに嫌みな奴だな」
「ああそうだな。悪かった。いいから積もる話は後にして、さっさと城に戻るぞ」
 実は似たもの同士なんじゃないだろうかと思ってしまうような同じトーンのやりとりを、ジュリアンは一方的に打ち切った。
「竜は? 怪我は大丈夫だったんですか?」
 口を挟むタイミングを計っていたフィラが急き込んで尋ねると、ティナが腕の中で「何だよ僕よりそいつの方を信用するのか? さっき大丈夫だって言ったじゃないか」とかなんとかぼやく。
「竜の治療だからもう終わる。魔力の回復にはまだ時間がかかるので、しばらくはユリン研究所跡地で保護する」
 ジュリアンはどこか投げやりな口調でそう言って、竜がうずくまっている方へ顎をしゃくった。
「挨拶したいんだったらしてこい」
「あ、はい。ありがとうございます」
 フィラは軽く頭を下げ、ティナを抱えたまま竜の足下へ走っていく。ティナの強烈な反感にあてられたせいで、自分の中にあるジュリアンへの反感はどこか隅の方に押しやられてしまったようだった。

 フィラが竜に感謝の意を伝えられて恐縮したあと、ジュリアンは竜としばらく話し合っていた。話し合いとは言っても竜は直接感情を伝える例のやり方で話していたし、ジュリアンの方も言葉を口にしたりはしなかったので、何を話しているのかはさっぱりわからない。ただ無言で見つめ合っている様は、はた目から見ると結構変な光景だ。秘密の話をしているのか単に竜と話すときにはそちらの方が便利なのか、竜とのコミュニケーションに不慣れなフィラには判断が付かなかった。
 フィアと並んで会話もなく話が終わるのを待っているのは、どことなく落ち着かない気分だ。ティナはフィラの右肩に乗っている。重心が偏って肩がこりそうな予感がするが、降りて欲しいとも思わなかった。
「お話、終わったみたいですよ」
 ふいにフィアが口を開いた。はっとしてジュリアンの方を見ると、ジュリアンはちょうど竜に向かって、左胸に右手を当てて緩く腰を折る正式な騎士の礼を取ったところだった。
「様になるなあ……」
 思わず正直な感想が口をついて出る。
「僕、あいつキライ」
 右肩の子猫が不満そうに反論とも言えない反論を述べ立てた。
「うーん、私もどっちかっていうと苦手なんだけど」
 苦笑混じりにそう言うと、フィアが驚いたようにこちらへ振り向く。
「そうなんですか? 素敵な方じゃないですか」
「素敵……」
「僕にとってはどっちかってと敵だね」
 フィラは思わず空中の無意味な方向に視線を投げ、ティナは半眼で呟いた。
「フィラ」
 思いがけず近い位置からジュリアンの呼び声がして、フィラははっと視線を引き戻す。いつの間にか真正面に立っていたジュリアンが、握り拳をこちらへ突き出していた。
「な、なんですか?」
「手を出せ」
 困惑しながら言われたとおりに手のひらを差し出すと、何か冷たくてすべすべしたものを載せられる。
「これは?」
 薄く削りだした黒曜石のような、光沢のあるかけらが三枚。
「竜の鱗だ。お守りぐらいにはなる。保護者にでも渡してやれ」
 見上げたジュリアンの表情からは、どんな感情も窺えない。
「へ?」
 間抜けな返答にジュリアンは微かに眉根を寄せたが、何も言わずに踵を返した。
「素敵なおみやげができて、良かったですね」
 フィアがにこやかな声で言う。ティナのしっぽの先が、不満そうに膨れあがる。フィラは手のひらの鱗を見下ろしたまま、どういった感情を抱けばいいのか迷っていた。