第四話 踊る小豚亭豪遊記

 4-3 声

 食事の後、ジュリアンは今度新人の歓迎パーティーで酒場を使わせてもらいたいと言ってエディスと打ち合わせを始め、ジュリアンが食事の美味しさに大変感動したとかなんとか話している間にフィラはカイから誘いを受けた。
「新人というのは、あなたの妹さんのフィア・ルカのことなんです。本日、正式に聖騎士団入団が決まりまして。パーティーは三日後なのですが、よろしければフィラさんも参加しませんか? 今度の主役は妹さんなのですから」
 良いのだろうかとフィラが投げかけた視線に対するジュリアンの返答は、「カイが良いと言うのなら問題があるわけない」という趣旨の、どうにも適当な雰囲気のものだったが、それでもまあ責任者の許可であることに変わりはない。
 そんなわけで、フィラは三日後に踊る小豚亭二階で開催される聖騎士団の新人歓迎パーティーに出席することが決まったのだった。

 フィアの歓迎パーティー当日は朝から蒸し暑かった。今年は例年と比べて夏の到来が遅かったらしいが、一気に本格的な暑さがやって来たようだった。
 フィラはピアノの練習を早朝の一回だけにして、午後は酒場の手伝いをすることにした。夜の一番混む時間帯はパーティーに出席で手伝えないから、その分働いておきたかったのだ。
「暑いねえ」
 酒場の前の石畳に打ち水をしていたフィラは、店内から出てきたエディスの声に顔を上げた。
「こんなに暑いのは珍しいよ。今日は風もないしね」
 エディスは額に滲んだ汗をぬぐいながら、西の空に傾き始めた太陽を見上げる。一通り水を撒き終えたフィラも、つられて空を見上げて目を細めた。
「日も傾いてきたし、そろそろ涼しくなるだろうけど……」
 エディスは独り言のようにそう言って、店の入り口に続く石段からフィラを見下ろす。
「もうちょっと涼しくなってからでいいから、ヴィラールさんのところに行って花を買ってきてくれるかい? せっかく二階を貸し切るんだから、少しは飾り付けしておきたくてね」
「すぐ行ってきます」
 水を入れていた木桶を持ち上げながらフィラは笑って答えた。
「涼しくなってきたら、お客さん、増えちゃいますもんね」

 強い西日を避け、日陰を選んで道を歩く。日光さえ避けてしまえば、打ち水のされた石畳の道は結構涼しくて汗もほとんど出ない。
 ソニアの家族が三人で営むヴィラールの花屋は、踊る小豚亭から三本ほど離れた通りにあった。途中の路地裏では、日差しを避けに来た猫たちが数匹丸くなっている。誰もいないのをいいことに、フィラはティナの三倍くらいありそうな白猫に向かって「にゃー」と話しかけ、機嫌良く花屋へと歩き続けた。

 素朴な東屋風の店舗を構えた花屋の軒先には、売り物の花がたっぷりと並んでいた。花屋の主人の美意識に従って並べられた花は、どれも通りに向かって誇らしげに咲いている。軒先から三つ、店の中の天井から三つ下がっているアレンジメントを施された花かごは、ヴィラール一家が毎朝一人二つずつ腕を振るって作っているものだ。店開きの前に三人は話し合ってその日一番のできばえだと思うものを選び、それを店に入る人の視界に必ず入ってくる位置に飾っている。素朴な風合いのご主人の花かご、繊細な作りの女将の花かご、豪華な色彩のソニアの花かご、と、花屋によく通っているフィラは三人が作ったものの見分けが付くようになっていた。今日一番を勝ち取ったのはソニアだったらしい。色とりどりのひらひらした花びらがこぼれんばかりに生けられた花かごに微笑みかけて、フィラはそのまま花屋の軒先をくぐった。
 注文を受けた花屋の主人が張り切って花を選んでいる間、フィラはソニアと少し雑談をする。
「いいなあ〜」
 歓迎パーティーに出席することになった一部始終を聞いたソニアは、身もだえしながらそう言った。
「なんか最近、よく聖騎士さんたちと関わってるよね、フィラ」
「そうだよね……」
 フィラはため息混じりに頷く。
「ちょっとちょっと、なんでため息なの? いいじゃない。私はうらやましいけどな」
「単なる偶然、なんだけどね」
 呟きながら、フィラは思い返してみた。
 一度目は偶然。ジュリアンと出会った。これは転移能力のせい。
 二度目も偶然。闇の竜を見たことを証言した。これも転移能力のせい。
 三度目はランティスがピアノに興味があったから。これは偶然と言って良いのか微妙な線。
 それ以降は全部、聖騎士の人々と話す機会が増えたせいで関わりも増えただけだから、必然と言っても良さそうだ。
「今度は、妹が聖騎士団に入ることになったから」
「えっ!? 妹? いたの?」
 大げさにのけぞるソニアにフィラははっとした。そう言えばソニアには話していなかった。何しろ、フィラ自身つい最近まで知らなかった――もしくは忘れていた――ことなのだ。
「うん。双子の妹なんだけど、物心付く前に生き別れになっちゃって……最近、フィアが……あ、妹の名前フィアなのね、彼女が聖騎士候補としてこの町に来たときに、そっくりだねって話になって。それで妹だったんだってわかったの」
 どこまで話していいのかよく分からず、フィラは自分に口止めしたジュリアンを内心恨めしく思った。
「それじゃ、フィラの身元もわかったの?」
「それはまだ」
 フィラはゆっくりと首を横に振る。
「生き別れになった後のこと、フィアもよく知らないって」
「そっか。残念だね」
 ソニアは本当に残念そうに眉をハの字にして、フィラの肩を抱き寄せた。
「ま、でも、それでも手がかりにはなるし。きっと領主様がなんとかしてくれるわよ」
「……うん」
 何とかなったときはユリンの町を離れるときかもしれない。ソニアやレックスや、エディスやエルマーとも別れて。ふとそれを恐ろしく感じながら、フィラは微笑んだ。
「そうかあ」
 体を離したソニアは、声と雰囲気をがらりと変えて、嬉しそうににんまりと笑う。
「妹さん、フィラそっくりなんだ。それはぜひ見に行かないと。叙任式、明日なんだよね?」
「そうそう。叙任式は公開するから、明日は町の人みんな礼拝堂に入れてもらえるんだって」
 二人は楽しげに笑い合い、レックスも誘って一緒に行こうと約束を交わした。ちょうどそこへ花屋の主人がかご一杯の花を持って来たので、フィラはお礼を言いながら代金を渡し、かごを受け取って花屋を出た。

 街並みは黄昏の薄闇に包まれていた。ようやく吹き始めた風が、街路を穏やかに吹き抜けていく。
 さっき猫に話しかけた路地裏には、もう猫たちはいなかった。路地に足を踏み入れた途端、急に気温が下がった気がして、フィラは小さく身震いする。太陽に雲がかかったのか、路地にふっと陰が落ちる。
 目を上げたフィラは、路地の終わりにかかった石造りのアーチの下に集まった闇が蠢いたような気がして、思わずぎょっとして立ち止まった。
 誰かがそこにいる。こっちを見ているような気がする。
「誰?」
 問いかけに答えるように、誰かが闇の中から一歩踏み出す。黒い霧のような衣装を身に纏った女性は、確かにこの間城で見かけた人だった。この間よりも距離がだいぶ近いから、以前は見分けられなかった顔立ちまではっきりとわかる。色素の薄い真っ直ぐの長い髪。年齢の見当はつかない。ちらちらと揺れる木漏れ日のように、一瞬ごとに印象が変化する。老女のようにも、少女のようにも見える。それでもその印象の一定しない顔立ちは、確かに先日会った占い師のウィンドに似ているように思えた。表情の方は、常に穏やかな微笑をたたえていたウィンドとは全くの対局にあったけれど。
 女性は感情のうかがえない、底知れない暗い瞳でフィラを見た。その視線に、ぞくりと全身が総毛立つ。身を焼き焦がすような冷たさを感じた。今まで向けられた試しがないような激しい感情――恐らくは憎悪だ。
 それがすぐに危機感に結びつかなかったのは、フィラがそういった感情を向けられることに慣れていなかったせいともう一つ、憎悪の対象が自分自身だと思えなかったせいだった。
 彼女は何か、フィラを通して別のものを見ているような気がする。フィラとは関わりの薄い、遠い何かを。
 無表情だった女性の顔に、哀れむような慈しむような、それでいて酷薄な笑みが灯る。
「以前にも、一度会いましたね」
 遠くで唸る風のように、かすれた低い声だった。その声に混じるノイズが何か別のことを言っているような気がして、フィラは耳を澄ました。
 ――……危ないよ――
 風が完全に凪いでいなければ聞き取れなかっただろう、耳鳴りのようにかすかな声。声色までは聞き取れない、誰のものかわかりようのない小さな声だった。
 その声が途切れると同時に、視界が歪んだ。

「……誰、だったんだろ?」
 不安げに漏らした声が、暗い路地裏に響く。今まではいつ転移したのかわからないくらい自然に移動することが多かったのに、今のは違った。はっきりとわかった。以前ジュリアンが言っていた、直接精神に呼びかけられているような感覚。確かに聞こえた。
(団長に報告、した方が良いよね)
 ぼんやりと周囲を見回しながら、フィラは考える。
 ――それにしても、一体ここはどこなんだろう。
 見覚えのない路地裏は狭く、高い壁に囲まれていて、きっと昼間でも明るくはならないだろう。泥と埃が分厚く積もった石畳はすり減って角が丸くなっている。ごみごみとした様子とすえたような匂い。もう何年も掃除されていないのだろう。ユリンの町にこんな場所があるなんて、フィラは知らなかった。この汚れようからすると、治安もそれほど期待できなさそうだ。
 ――とにかく、この地区から抜け出さないと。
 フィラは花かごを抱え直し、気を引き締めて歩き始めた。