第六話　Dance on the balcony. Dance with the half moon.

　6-4　遠くて近すぎる距離

「つーかさ、ダストはジュリアンと踊ったりしないの？」
　食事にありつきたいリサは、なんとかダストを追い払おうと反撃に転じる。途端、ダストの表情が心底嫌そうに歪んだ。
「アースリーゼ様と同じこと、聞かないでくれる？　今日の私の任務は警備と護衛。自分の立場はわきまえているし、はき違えるつもりもないわ」
　冷たく言い放ったダストに、リサは呆れてため息をつく。
「それリーちゃんに言ったんなら、お前こそ立場わきまえろって意味になるじゃん。キョーレツに嫌みっていうか、すごい勢いで喧嘩売ってんね」
「アースリーゼ様のことは今は関係ないでしょう。ごまかそうとしても無駄」
　ダストはまたいつも通りの冷静な表情に戻って、リサの攻撃を受け流した。目論見を見破られたリサは空中に視線を泳がせ、引きつった笑みを浮かべる。
「いっやー、ごまかそうとなんてしてないってー。ごまかすんならむしろ……あ。フィラちゃんだ」
　言い訳の途中で急に言葉を切り、呟いたリサの視線を辿って、ダストもバルコニーへ出て行くフィラの背中を見つけた。
「どこへ行くつもりなのかしら？」
「さっきまで友達と一緒にいたのになー。どうしたんだろ？」
　友人たちと紛れていた方が目立たないのに、と、聖騎士の二人は勝手なことを考える。
「……リサ、あなた、あの子のこと、どう考えてるの？」
　カーテンの影へ消えていったフィラの背を見送りながら、ダストがぼそりと尋ねかけた。リサはダストの無表情な横顔にちらりと視線をやり、軽く肩をすくめる。
「利用価値があるなら利用しちゃう、かな？　そう言う意味じゃ実はかなり期待してる」
　ダストは疲労感の滲むため息をつき、カーテンからリサへ視線を戻した。
「……ときどき、あなたの方が私よりよっぽど冷酷なんじゃないかと思うことがあるわ」
　リサはけたけたと笑い転げながら、お預けになっていた料理の皿を持ち上げる。
「当たり前じゃん。今さら何言ってるんだかね」
「まったく、あなたと来たら。もういいわ。好きになさい」
　ダストは諦めきった口調で言い捨て、リサの側を離れていった。
「しょうがないじゃん」
　ダストに見捨てられたような形になったリサはふと瞳を伏せ、力のないため息を漏らす。
「終わりに出来なかったら、ずっと中途半端なままなんだから。あの人は」

　同じ頃、バルコニーに出ようとしたフィラは、直前で腕を掴まれて立ち止まっていた。
「ちょっと待て嬢ちゃん」
　ぎくりと肩を震わせて振り向くと、ランティスが真剣な表情で立っていた。
「そっちは今マズイんだよ」
　目を見開くフィラを引っ張って、ランティスは別方向のバルコニーへ向かう。さっきフィラが出て行こうとしていた開放的なバルコニーとは対照的な、中庭に面した薄暗いバルコニーだ。正門に向かって花々で飾られているもう一方と違い、こちらには篝火も焚かれてはおらず、木々の陰と覆い茂った蔦に隠されて、周囲から隔絶した雰囲気を纏っている。密会にはちょうど良さそうだが、ロマンチックな空気などあるはずもない今は少々不気味だ。
「まずいって、何がですか？」
　フィラは静かにランティスの手から自分の腕を取り戻しつつ首を傾げた。
「ちょうど視察団のお偉方があっちに、って、げ」
　言いながら磨りガラス越しに広間を覗きこんだランティスは、焦りを隠そうともせずフィラを中庭へ降りる階段に押しやる。
「ジュリアンとフランシスだ。悪ぃ、ちょっと隠れててくれ」
　小声の指示に従って、フィラは手近な茂みの影に身を潜ませた。そこで様子を窺いながら、フランシスって誰だろうと考える。
「……今後の監査の予定は？」
　広間から出てきた足音は二人分だった。ジュリアンの声に続いて、広間から投げかけられる光が、中庭に新たな人影を二つ浮かび上がらせる。
「特にありませんよ。聖騎士団団長の有能さと潔癖さは教団内でも評価が高い」
　優しげだが、優しさ以外の感情を全く感じさせない男性の声がジュリアンに答えた。耳に心地よく馴染む声だが、聞いていると柔らかな霧に視界を遮られているような、妙に不安な気分になる調子だ。
「ユリン内での情報統制はお任せします。こちらでも情報の出入りについてはいくらか関知できますが、それだけだから」
　耳を澄ましていたフィラは、ふと足首に小動物がすり寄るのを感じて視線を落とす。
（ティナ）
　フィラは声は出さず、唇の動きだけで足下の子猫に呼びかけた。ティナは助走もなくふわりと飛び上がって、フィラの肩に着地する。
　――向こうからは見えないよ。
　直接、思考に言葉が浮かび上がった。ティナはどうやら、以前竜がしていたのと同じ話し方をしているらしい。
　――ちょっとくらい覗いてみても大丈夫。
　ティナに促されるまま、フィラは顔を上げてバルコニーの上を覗き見る。こちらに背を向けて立つジュリアンと、ジュリアンに向かい合っている青年の姿が、広間からの薄明かりに照らされてよく見えた。
　ジュリアンと話しているのは、さっきも見かけた銀髪の光王親衛隊の青年だ。暖かみのある優しさを湛えた美貌の持ち主で、浮かべた微笑も優しげなのだが、ジュリアンに向ける視線の鋭さがそのすべての印象を裏切っている。
「そういえば、先程会場でダスト・アズラエルを見かけたんだけど」
　薄闇に色を失ってなお氷のように冷徹な光を宿した瞳が、ジュリアンを見据えて尋ねる。
「聖騎士団の現本部とも言えるここに戻ってきているということは、URS-049は見失った？」
　ユーアールエス、ゼロフォーナイン。フィラには聞き覚えのない単語だ。
「報告書は既に提出したはずですが」
　探るような銀髪の青年の視線に臆することなく、ジュリアンは平坦な声で冷静な答えを返す。
「まだ見てないな。後で部下を急かしておきます」
　青年は考え込むように中空を見上げ、またすぐにジュリアンへ向き直った。
「何はともあれ、彼女の狙いが神器であることは間違いありません。神器の一つを保有する者として、君も気を付けて」
　彼女、ということは、女の人なのだろうか。それとも機械か何かをそう呼んでいるだけなのか。フィラはそろそろと左の肩口に右手を伸ばした。左肩に打たれた『071』の数字。人間にナンバリングを施すのが一般的なことならば、URS-049という何者かも人間なのかもしれない。名前じゃなく、型番で呼ばれる誰か。
「ご忠告、感謝いたします」
　ジュリアンの声に、フィラは考え事を中断した。慇懃な返答からは、ジュリアンが相手をどう思っているのか、真意は推し量れない。
「わかってるとは思うけど、自ら囮になって討ち取ろうなんて考えないようにね」
「はい」
　胸に手を当てて略式の礼をするジュリアンに、青年は優しく微笑みかけ、踵を返す。最後までその瞳の奥には、冷徹な光が宿ったままだった。ジュリアンは青年が広間に入り、扉を閉めるまで礼を取った姿勢のまま動かない。
　やがて扉が完全に閉まりきると、ジュリアンはゆっくりと息を吐きながら背筋を伸ばし、そのままバルコニーの手すりに寄り掛かった。黙って成り行きを見守っていたランティスが、苛々とした息をついてジュリアンに近付いていく。
「よく言うぜ」
　ジュリアンに並んで広間の方を見ながら、ランティスは吐き捨てるように呟いた。
「ランティス、聞こえるぞ」
　たしなめるジュリアンの声は、フィラがぎりぎり聞き取れる程度に低く抑えられている。
「カルマを使って俺らを始末しようとしてるのは奴らの方だろ？」
　疲れ切った様子で手すりに体重を預けるジュリアンに、ランティスは苛々と詰め寄った。
「それをさも他人事みたいに」
「ランティス」
　なおも言い募ろうとしたランティスは、先程よりも強い調子でたしなめられて舌打ちをする。
「ったよ」
「私はしばらくここで休んでいく。その間、城内の警備を頼む」
「ああ、任せろ」
　ランティスは不機嫌そうな態度を引っ込めて頷き、広間へと戻っていった。残ったジュリアンは疲労感の滲むため息をつきながら、だるそうに前髪を掻き上げる。
「フィラ」
　何の前振りもなく呼びかけられて、フィラはぎくりと全身をこわばらせた。
「いるんだろ」
　ジュリアンはフィラのいる方へ振り向き、軽い口調で断定する。
「いますけど……」
　別にジュリアンから隠れていたわけではないのだが、なんとなく立ち聞きしてしまったような気まずい気分で、フィラは隠れていた茂みの影から光の中へ足を踏み出した。
「もう上がってきて良いぞ」
　前へ向き直りながらの台詞には、許可よりも命令のニュアンスが強く滲んでいる。フィラがバルコニーへ登る階段へ足を踏み出すと、ジュリアンと顔を合わせたくなかったのか、ティナは中庭の茂みに消えていってしまった。フィラは一瞬、どことなく心細い気分でそれを見送り、気後れしながらバルコニーへ上る。ジュリアンは手すりに寄り掛かったまま、曇りガラスの向こうで踊る人々の影をぼんやりと見つめていた。さっきの光の巫女との一幕が、まるで別世界の住人のように見えたせいで、いつも通りに話しかける勇気が湧いてこない。
　が、ジュリアンが何も言わない以上、フィラまで黙ってしまっては不自然なことこの上ない。フィラはなけなしの勇気を総動員して、ようやく口を開いた。
「あの、さっきの方って……」
　小声がようやく届く程度の距離を置いて、フィラは立ち止まる。
「フランシス・フォルシウスだ。光王親衛隊隊長にしてフォルシウス家の次期当主。今回の主賓の一人でもある」
　淡々と答えたジュリアンは、ふと何かに気付いたようにフィラへ振り向いた。
「一応一般常識として教えておくが、フォルシウス家とレイ家は犬猿の仲だ。今も対立は続いているが、現光の巫女がフォルシウスに連なる家系出身のため、レイ家は分が悪い」
「レイ家って、もしかして団長のご実家ですか？」
　ジュリアンの声を聞いている内になんとなくいつもの調子を取り戻したフィラは、今度はためらうことなく疑問を口にする。
「ああ。伝統的に、フォルシウス家は光王親衛隊と縁が深く、レイ家は聖騎士団と縁が深い。それだけが理由ではないが、俺が次期聖騎士団団長として先代に指名されたのにはそういった事情もある」
「縁が深いってことは……光王親衛隊と聖騎士団も？」
「伝統的に犬猿の仲だな」
「それじゃ……フランシスさんと団長って因縁の対決なんじゃ」
　最後まで探るような鋭さを宿したままだった、銀髪の青年の瞳を細部まで思い出そうとして、フィラは目を伏せた。
「まあ、そうだな」
　ジュリアンは苦笑混じりの調子で肯定し、手すりから体を離す。
「周りに思われているほど、仲が悪いわけではないんだが」
「あの、一つ質問しても？」
　真っ直ぐ見上げて尋ねると、ジュリアンは体ごとフィラに向き直って頷いた。
「光の巫女様がフォルシウス家出身だと、どうして聖騎士団の分が悪くなるんでしょうか？」
「光の巫女は光神リラの化身として崇められる対象だ。その後ろ盾ともなれば、当然リラ教会内での発言力は強くなる。光の巫女様がフォルシウス家出身だと聖騎士団の立場が悪くなる、というのはそのためだ。先代の光の巫女はレイ家の出身で聖騎士団寄りだったんだが、その巫女の崩御と聖騎士団の壊滅が重なって、我々はフォルシウス家に後れを取ってしまった。結果、光の巫女の座はフォルシウス家に奪われ、聖騎士団の権威も大きく減退した」
　耳で聞くだけではなかなかすんなりとは理解し難い説明だったが、それでも今日は随分饒舌だ。頭の隅で珍しいなと感心しながら、フィラはジュリアンの言葉に耳を傾ける。
「聖騎士団再興のために現在の光の巫女に取り入るという手もなくはない。だが、近付きすぎるのは彼女にとっても我々にとっても危険だ。フォルシウス家にとって危険だと判断されれば、恐らく彼女は簡単に切り捨てられてしまうだろう。彼女もそれはわかっているはずだ」
　ジュリアンを見下ろしていた巫女の、複雑だが強い感情に支配された瞳を思い出して、フィラははっと息を呑んだ。
「そっか……だから、さっき……」
「さっき、何だ？」
　ジュリアンが不審そうな顔をする。
「え、あ。さっき……えーと」
　まさか光の巫女があなたに恋をしているように見えましたなんて言えるはずもなく、フィラは視線をさまよわせる。どうにかごまかせないだろうかと知恵を絞るが、頭の中は巫女の瞳と一緒にうっかり思い出してしまったさっきの絵になりすぎる光景でいっぱいで、有効な言い訳は一切れも思い浮かんでは来ない。
「えっと、さっき巫女様にしていたような、あれって、中央省庁区では普通の挨拶なんでしょうか？」
　苦し紛れに、フィラは頭の中の光景から疑問を捻り出した。
「あれ？」
「手、の甲に……の、挨拶、です」
　たちまちこんな質問するんじゃなかったと後悔の嵐に襲われながら、フィラはしどろもどろに説明する。
「まあ、時と場合にも依るが」
　答えたジュリアンはフィラを見下ろし、ふと意地の悪い微笑を浮かべた。
「興味があるのか？」
　ジュリアンと目が合った瞬間、強烈に嫌な予感が、頭のてっぺんからつま先まで稲妻のように駆け抜けた。
「ない、ない、ないです！」
　フィラは引きつったごまかし笑いを浮かべ、両手を振りながら数歩後ずさる。ジュリアンは面白そうにそれを眺めていたが、不意に笑顔を消して大股でフィラに歩み寄った。思わず身を引こうとするフィラの右手を取って、貴人を相手にそうするように恭しくその足下に跪く。フィラは右手を差し出した姿勢のまま、がちがちに固まっていた。
　儀礼用手袋の布地が意外と柔らかい。このアングルから見下ろすと伏せられた睫毛が羨ましいくらい長い。広間から漏れ聞こえてくるウィンナ・ワルツはヨハン・シュトラウス二世だろう。まだ弾いたことはないけれど、この先も一生弾く気になれないんじゃなかろうか。それにしても何でジュリアンはこうも真剣な表情をしているのか。
　どうでもいい情報はきっちり飛び込んでくるのに、この状況を上手く処理するための判断力には繋がってくれない。そして呆然としてしまった以上に、何故か振りほどくのが惜しい、なんて思ってしまって、フィラはジュリアンが自分の指に口づけを落とすのをただぼんやりと見ていることしかできなかった。音楽も木々を渡る風のざわめきも遙か彼方へ遠ざかり、あらゆる神経がジュリアンだけに集中しているのに、それすらも夢の中の出来事のように非現実的だ。
　一瞬が数分間に思えるくらい密度の濃い沈黙の後で、ジュリアンがゆっくりと顔を離す。上目遣いの視線が、フィラの反応を窺うように瞳を覗きこんでくる。その唇の端には、ものすごく人の悪そうな笑み。
　何のつもりなんだ、と思った次の瞬間、この状況に付随するあらゆる感情が一斉にフィラへ襲いかかってきた。
　限界だった。パニックに陥った。
　頭の中が真っ白に爆発し、体中の血の気が一斉に顔面へ集まった。顔から火が出せるものなら今すぐ出せると思った。
「な、な、な」
　声にならない。二、三度口を開けたり閉じたりした後、フィラはすっかり忘れていた呼吸のやり方をどうにか思い出し、思い切り息を吸い込んだ。
「何すんなら！？」
　震えてかすれた声は、思ったほど大きくはならなかった。葉擦れの音と音楽に紛れて、広間にいる一番近い人にも届きはしなかっただろう。フィラは声での抵抗を諦め、身を引いてジュリアンの手を振りほどこうとするが、それほど強く掴まれているわけでもないのに何故かびくともしない。
「ただの挨拶、だろ？」
　柔らかく、しかししっかりとフィラの右手を捕らえたままジュリアンが人の悪い笑みを深める。
「それより、『一曲踊っていただけますか？』」
「な、なんですかその棒読み、っていうか、何故？　何考えてるんですか！？」
　目立つなと厳命されているという以上に今のこの状況が恥ずかしすぎて、フィラは大声を出せない。振りほどこうと腕を振るが、本気で拒絶すればジュリアンとの関係も完璧に切れてしまいそうで、結局ちゃんと振りほどけない。そんな風にどこかを許容してしまっている空気を感じ取ったのか、ジュリアンも手を放してはくれなかった。
「返事はそうじゃないだろ？」
　勝負は既についているような気がするものの、すぐに屈服するのも悔しくて、フィラは最後の抵抗を試みた。無言の引っ張り合いが数秒続く。それでもジュリアンが引く気を見せないので、ついにフィラは観念し、諦めのため息をついて肩の力を抜いた。
「お相手頂けますか？　マドモワゼル」
　ジュリアンがものすごく満足そうな笑顔と共に勝利を宣言する。
「……『喜んで』」
　フィラの呆れた視線をあっさり受け流して、ジュリアンはバルコニーの中央へフィラをエスコートした。わざとらしいくらい優雅なお辞儀をするジュリアンに倣って、フィラもさっき広間で見覚えてきたばかりの淑女の礼を返す。
　広間から漏れ出る明かりと中空に輝く半月の光を頼りに、二人は手を取り、踊り始めた。広間では楽団が、優雅なウィンナ・ワルツを奏で続けている。