第七話 誰が雨を降らすのだろう

 7-2 フィア・ルカの基礎魔術講座 その一

 踊る小豚亭に帰って昼食を食べるときも、フィラは半分上の空だった。できるだけ会話に参加するようにはしていたのだが、レックスに心配されてしまったから、きっと上手く隠せてはいなかったのだろう。
「いったい何話してたのさ」
 夜、眠る前に屋根裏に上がってきたティナも、拗ねたような調子でそう尋ねた。そんな調子なのは照れくさいからで、実際は心配してくれているのだとわかるから、フィラはなんだか申し訳ない気分になる。
「なんだろう……世間話、だったよ。雨のこととか」
「四日後の天気のこととか?」
「うん」
 昼食の時、ピクニックの延期日は四日後にしようと提案したのを、ティナも聞いていたのだ。
「団長の天気予報って当たると思う?」
「まずなんでそんな話になったのかを聞きたいね。フィラがお天気を聞いたの?」
「ううん。向こうから言い出した」
「じゃ、当たるんじゃない?」
 ティナは自分用の寝藁の上で丸くなりながら、投げやりに答える。
「あいつ、よっぽど自信がないとそういう余計なことは言い出さない気がする」
「余計なこと……確かに」
 フィラもティナと並んで寝藁に寝転がりながら、小さく笑った。

 翌日はジュリアンの予言通り、今にも降りそうな曇り空が広がっていた。午後からは小雨も降り始めて、客足は鈍りがちだ。
「今日は暇だね」
 ピアノの練習に行くフィラを見送りに出たエディスは、そう呟きながら空を見上げた。
「ゆっくり練習しておいで。向こうで夕食にして来たって良いからね」
「でも」
 慌てて反論しようとするフィラに、エディスは軽く肩をすくめてみせる。
「今日はお得意様たちみんな、セレナちゃんの誕生日パーティーに出かけちまうんだよ。うちの亭主はあんまり興味なさそうだから、今日は二人でゆっくりしようかと思ってね」
 セレナちゃんと言えば、踊る小豚亭と同じ通りに面するアロマショップを営んでいる、エディスと同い年の四十二歳の美女だ。若い頃からこの辺りの男たちのアイドルだったらしく、今でも中年の男性たちの間では不動の人気を誇っている。面倒見の良いさばさばとした気っ風の良い女性で、たまに踊る小豚亭に顔を出したときには、ハスキーボイスで得意の歌を披露してくれることもある。とても四十代には見えない神秘的な美人だが、いつもにこにこしていて不思議と話しやすい人だから、人気があるのも納得できた。彼女が誕生パーティーを開くとなれば、お調子者でお祭り好き揃いの踊る小豚亭常連組は大挙して押し寄せるに違いない。
「わかりました。それじゃ、今日はのんびり練習してくることにします」
 フィラは笑って頷いて、踊る小豚亭を出発した。

 城の礼拝堂ではフィアが待っていた。聖騎士団の団服を着たフィアはピアノの前に座り、人差し指一本で『スカボロー・フェア』のメロディを奏でていた。
「フィア?」
 礼拝堂に入ったフィラが祭壇の前まで来て声をかけると、フィアはぴたりと手を止め、ばつが悪そうに立ち上がった。
「来てたんですね、フィラ。ごめんなさい、気付きませんでした」
「ううん。気にしないで。ピアノ、弾くんだね」
「え、いえ」
 フィアはフィラにピアノの椅子を譲りながら狼狽した声を上げる。
「弾けないんです。楽譜の読み方も鍵盤の並びも覚えてはいるのですが、一音ずつ考えないと弾けませんし、指も動きませんし」
「でも、楽譜見ないで弾いてたよね?」
「見てる、ようなものですよ」
 空っぽの譜面台に映り込んだフィアの顔が苦笑いを浮かべた。
「一度見たものは忘れませんから。ちらりと見ただけの本のページを『読む』ことだってできるんです。便利でしょう?」
 言葉とは裏腹に、その能力を疎んじているような話し方だった。フィラは譜面台から顔を上げて、鏡像ではない本物のフィアを、思わずじっと見つめてしまう。
「ところで、最近調子はいかがですか? 何だか元気がないように見えるのですが」
 その視線を軽く受け流して、フィアはあっさりと話題を変えた。
「そうかな。そんなことないと思うんだけど……あ」
 フィラは落としかけた視線を上げて、勢いよくフィアを仰ぎ見る。
「どうしました?」
「私、フィアに聞きたいことがあったんだ」
 鍵盤の蓋を閉じて左腕を置き、ピアノの脇に立ったフィアを真っ直ぐに見上げて、フィラは言った。
「何でしょう?」
 落ち着いたフィアの声を聞きながら、どう尋ねたものか考える。疑問に思ったきっかけとか、前置きは必要なのだろうか。立ち聞きするつもりはなかったんだけど、とか。実はフランシスさんに会う機会があって、とか。
「フィラ?」
「あ、あのね」
 長すぎる沈黙にフィアが首を傾げて、フィラは慌てて口を開く。
「竜化症って、何?」
 結局、とんでもなく簡潔な質問になってしまった。
「竜化症、ですか」
 フィアは浮かべていた微笑みを引っ込め、厳しい表情で繰り返す。
「お話できない、と、お答えしなくてはなりません」
 慎重な口調で発せられた答えは、明確な否定の言葉だった。
「それは、どうして?」
 けれどまだ話すことはあると言いたげな気配を察して、フィラも慎重に質問を重ねる。
「ユリン内部の方に対して、それについて話すことは禁止されているのです。ですが」
 フィアは一旦言葉を切り、真っ直ぐフィラの瞳を覗きこんだ。
「あなたがそれを聞きたいのであれば、私にはお話しする覚悟があります」
「か、覚悟って……」
 ずいぶん大げさな単語が出てきてしまった。
「聞きますか?」
 鼻白むフィラに、フィアはコケティッシュな微笑を浮かべてみせる。
「か、考える時間が欲しい、ような……」
 フィラは視線を逸らし、意味もなく鍵盤の蓋を開けたり閉めたりした。
「わかりました。聞きたくなったら、いつでもそう仰って下さい」
 笑いを含んだ声で、フィアは鷹揚に頷く。
「では、別の角度から少しお話ししましょうか」
 さっきまでとは打って変わった軽い調子に、フィラは改めて隣に立つ双子の妹を見上げた。
「竜化症にも少し関係しているのですが、フィラは魔術への興味はありますか?」
「魔術? でも私、魔力全然ないから使えないんだよね?」
「全然ない、ということはありません。生命維持に……というより、存在そのものを維持するために必要なだけの魔力は、もちろんフィラにも宿っています。他のあらゆるもの、森羅万象と同じように」
 テキストを読み上げるような落ち着き払った調子で、フィアは続ける。
「すべてのものには魔力が宿っているのです。なぜなら魔力とは、世界律の流れそのものだから」
「せ、先生」
「はい、何ですか?」
 本当に先生のような口調と微笑を向けられて、フィラは思わず照れ笑いを浮かべた。
「世界律って何でしょう?」
「魔力力学的側面から見た、世界のありようそのものです」
 さっぱりわからない、と顔に書いてあったのだろう。フィアもかすかに苦笑を浮かべる。
「説明が難しいのですが……そうですね。世界を律するあらゆる法則であり、その法則が滞りなく運行されていくためのエネルギーであると言っても良いかもしれません。世界律があるからこそ物体は上から下へ落ち、時間は過去から未来へと進み、生き物たちはその鼓動を刻んでいく。昔の人は音楽をそれと同等のものだと考えていたようです。フィラはピアニストですから、もしかしたら聞いたことがあるかもしれませんね。ムジカ・ムンダーナ。宇宙の音楽。人ではなく神……この場合は世界を創造した存在を指すのですが、その造物主の手による、真の音楽です。本来の音楽とは、人が奏でる音ではなく宇宙の秩序そのものであり、人が奏でる音楽はそれを模倣したものだと考えられていた。その真なる音楽の概念に相当するものが、我々が世界律と呼んでいるものです」
 すらすらと流れていく説明を、フィラは唖然としながら聞いていた。フィアは少し言葉を切り、また苦笑を浮かべる。
「おわかりいただけたことと思いますが、大変曖昧で観念的な形而上学的な概念ですので、ひとまずは『そういうものだ』という程度に考えていただいて構いません」
 そういうものがどういうものかがそもそもよくわからないのだが、フィラはとにかく曖昧に頷いた。もう一度説明してもらうより先に進んでもらう方がたぶん得策だ。
「世界の法則はあらゆるものの上に存在します。我々人間もその法則に則って存在しているわけですから、当然世界律は私たちの中にも存在していることになります。その私たち一人ひとりに割り当てられた世界律こそが、魔力なのです」
 フィアは言葉を切り、少し考え込んでからまた続ける。
「ムジカ・ムンダーナのことに話を戻せば、同様の秩序が人間の心身をも司っているとされ、これはムジカ・フマーナ、すなわち『人間の音楽』と名付けられていました。この音楽の調律が狂うと、病気になったり気が触れたりすると考えられていたようです。これは個人の魔力に相当する概念だと考えられています」
 息を詰めて説明に聞き入っていたフィラは、フィアがふっと息をついたのに合わせて肩の力を抜いた。
「すみません。つい説明が長くなってしまいました。要点をまとめましょう。世界律とはこの世界のすべてのありようを律する秩序であり、またその法則が正常に運行されていくためのエネルギーです。それは人間や小石や動物など、あらゆるものの上に宿っています。個々に宿った世界律こそがそのものの持つ魔力。ご理解いただけましたか?」
「な、なんとなく……」
 むしろこれ以上聞いていてもなんとなく以上は理解できなさそうだ。フィラは心の中だけで白旗を揚げる。
「というわけで、フィラにも魔力はあります。魔術を使うには確かに心許ない魔力量ではありますが、相性の良い分野であれば、ある程度の効果を上げることも不可能ではないはずです」
 フィアは腕時計にちらりと視線を落とし、ため息をついた。
「残念。もう時間です」
 顔を上げた彼女は、ふとその表情に緊張を滲ませる。
「私、しばらくユリンに居続けることになったのですが、またここへ会いに来ても構いませんか?」
「もちろん。会えるなら出来るだけ、私も会いたいし」
 笑って頷くと、フィアもほっとしたように笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。では、また今度」
「うん。またね」
 一礼して立ち去るフィアに片手を振ってから、今日練習する予定の楽譜を譜面台に並べる。緊張したフィアの表情はいつもより少しだけあどけなくて、本当に同い年なんだな、と実感できた。そんな表情を見せてもらえたことがすごく嬉しい。今日は良い気分で練習できそうだった。