第三話 不確定要素の雨

 3-1 神域に降る雨

「大丈夫か?」
 上下の感覚すらわからなくなるような激しい『揺れ』が収まって、ジュリアンの穏やかな声が降ってきた。背中を支えてくれる手が優しくて、そんな場合ではないとわかっているのに胸が苦しくなる。
 フィラは一つ息を吐いて、ゆっくりと目を開けた。
「……酔いました」
 体を離しながら端的に報告する。まだ感覚のどこかが浮遊しているようで、視界もぐらぐらと揺れていた。
「無理もない。訓練を受けていない人間にはつらい揺れだったはずだ。思ったより規模が大きかったな」
 揺れる視界を何度かの瞬きで正常に戻して、周囲を見回す。
「あれ……?」
 奇妙な光景が広がっていた。
 礼拝堂の風景はいつもと変わらない。揺さぶられたのは感覚だけらしく、信者用のベンチも全て整然と並んだままだ。さっきまで浮かび上がっていたモニターは見当たらないけれど、それはもともと簡単に現れたり消えたりするものだとフィラの記憶の底の知識が語っている。
 けれど、明らかにいつもと違うところもあった。
「この光……?」
 緑色の燐光が空間を満たしていた。光は所々濃くなっていて、蛍が浮遊しているようにも見える。耳元を光の塊が通り過ぎて、ワイングラスを擦ったような、不思議な音が聞こえた。
「神域と交錯したことで、魔力の分布がお前にも見えるようになっているんだ」
 きょろきょろと周囲を見回すフィラの肩を抱いたまま、ジュリアンが冷静な声音で告げる。
「この空間は現在外部とは切り離されている。通信は遮断されているし、通常の手段では城内から脱出することも出来ない。魔術も少々特殊な手順を踏まなければ安定して作動させることは難しい」
「えっと……存在を認識し続けていろっていうのはまだ有効なんでしょうか?」
 淡々と語られる言葉もそうだが、何より肩に置かれたままの手が気になって尋ねた。
「そうだな。落ち着いたから五感は普通に働くはずだが、それでも相手の存在を疑った瞬間に相手が目の前から消えるということはあり得る」
「ちょ、ちょっとしたホラーじゃないですかそれ……!」
「ああ、それを題材にしたサスペンス映画があった気がするが……お世辞にも良い趣味だとは言えないな。それに消滅《ロスト》しなくてもはぐれる可能性は高い。中にいる間は手でも繋いでおいた方が良いだろう」
 ジュリアンの方は平然としたものだ。
「酔いは治まったか?」
「あ、はい。なんとか」
 覗き込まれた顔の距離が近すぎて、慌てて何度も頷く。もうめまいはなくなっていた。胃の奥がまだぐるぐると気持ちの悪い感覚に支配されているが、それもやがて治まるだろう。
「そうか。じゃあ、移動するぞ」
 ごく自然に手を引かれて立ち上がる。
「どこへ、ですか?」
 手袋越しの体温に心拍数が上がるのを感じながら、どうにか平静を装って尋ねた。状況が状況だから仕方ないのはわかるけれど、さっきから距離が近すぎて心臓に悪い。
「この騒動の中心部だ。原因を調査するためには、そこへ行かなくてはならない」
 ――この騒動。
 礼拝堂の出口へ向かうジュリアンに手を引かれながら、尋ねたら答えてくれるだろうかと考え込む。以前なら確実に無理だっただろうが、魔女に追われて城へ来たことで、ジュリアンの中で何かが変わったらしいことは感じている。今なら話してもらえるのかもしれない。
 ジュリアンがゆっくりと礼拝堂の扉を押し開く。途端、水を含んだ空気と雨の音が入り込んできた。
「雨……?」
 ジュリアンが呟いて目を細める。中庭から見える空は重く暗い灰色に覆われ、そこから降り注ぐ雨はやはり緑色の燐光を纏っていた。空はほとんど夜のように暗かったが、空間を満たす光があるために辺りの様子は見分けることが出来る。
「今日、雨が降る予定はなかったですよね?」
 城門前広場に張り出されているのと同じ天気予報を、今朝食堂でも見かけた。今なら、それが「予報」ではなかったのだろうと想像できる。「予報」ではなく、「予定」。確定しているはずの未来。
「ああ。この雨は……」
 言い淀んで、ジュリアンはフィラの手を引いた。
「先に進もう」
 蛍のような緑色の燐光が漂う回廊を、ジュリアンは迷いのない足取りで進んでいく。生物の気配はどこにも感じられなかった。いつもなら鳴き交わしている鳥たちの声も、虫の羽音も聞こえない。ただ単調な雨の音と淡い緑光だけが世界を覆い尽くしている。
「何か聞きたいことがあるんじゃないのか?」
 雨の音にまぎれてしまいそうな低い声で、ジュリアンが呟いた。
「そりゃ……いっぱいありますけど。でも、何から聞いたら良いのか……」
 昨日から詰め込まれた情報量はフィラの許容範囲を超えている。考える間もなく次から次へとあり得ない事態に直面しすぎて、もう感覚が麻痺してしまいそうだ。
「ダストが話したんだろう。外のことを」
 息を呑んでしまったのが、きっと繋いだ手から伝わった。
「……はい」
 諦めて頷く。ジュリアンから話題に出してきたということは、きっと確信があるということだ。ダストだって、話してはいけないことだと言いながら口止めはしなかった。だとしたら、頷いてもきっとダストに迷惑はかからない。
「ユリンは外界から隔絶された町で、外の世界とは空の色さえも違う、って」
 本当の空は、きっと魔女が見せた灰色の空だ。でもそれが何を意味しているのかはわからない。ユリンの外に広がっている世界が、ただ空の色がここと違うだけだとも思えない。何故空は雲に覆われることになったのか、ユリンの外はこことどう違うのか、神域とは何か、今起こっていることは何なのか、魔女は何故フィラを狙うのか。
 わからないことばかりで、何から聞いたら良いのかも見当がつかなかった。
「外で一般的に知られていることくらいなら、もう話しても良いとは思っている。ただ……」
 口ごもる横顔を見上げて、ジュリアンも迷っているのかとふと思う。
「いや、どちらでも同じなのか……」
 握られた手に、少し力が入ったのを感じる。ジュリアンの表情は不機嫌と言うにはどこか悲しげで、そんなはずはないのに泣き出しそうに見える。
「お前がここに『いた』ことにするには、この現象は都合が良い」
 そんな表情のままでわけのわからないことを言ったジュリアンは、立ち止まってじっとフィラを見下ろした。
「な、何ですか……?」
 緑色の光を浴びてなお青いその瞳が、迷うように揺れる。その瞳に引き込まれそうで逆に逃げ出したくなるけれど、今は手を振りほどくわけにもいかない。
 魅入られたように瞳を見つめたまま逃げ腰になっているフィラは、きっと怖がっているように見えたのだろう。すぐにジュリアンは目を逸らしてため息をついた。
「状況が変わった。もうあそこには帰してやれない」
「あそこって……踊る小豚亭に……?」
 呆然と問い返す。ジュリアンが頷いても、不思議と責める気にはなれなかった。ただ、酷く心許ない気持ちがして、フィラは立ちすくむ。
「これ以上お前をユリンに匿い続けるわけにはいかない」
 ユリンが竜化症の治療施設なら、竜化症ではないフィラは確かにここにいてはいけないのかもしれない。
「ここに……いられないとしたら、私はどこへ行くことになるんでしょうか」
 嫌になるくらい震えた声の問いかけに、ジュリアンは答えなかった。黙ったまま歩き出すジュリアンに導かれながら、フィラは泣きたい気持ちを必死で抑える。
 この町の外にフィラが帰る場所はない。保護してやることも出来ない。
 以前ジュリアンはそう言った。でもたぶん、あの時から状況は変わっている。コントロール下に置いておく、とはどういう意味なのだろう。沈黙がその答えなのだろうか。
「約束は守る」
「え……?」
 唐突に投げつけられた言葉に、フィラは目を瞬かせた。
「ベイカー夫妻を呼ぶという話だ。この騒動が終わったら、出来るだけ早く会えるように手配する。恐らくそれが、最後になるだろうが」
 覚悟をしておけ、という意味だ。記憶のないフィラにとって、たった一つの居場所である踊る小豚亭を、ユリンを離れるための。
「……わかり、ました」
 逆らうことは、きっと出来ない。たぶんこれは、ジュリアンにとっても苦渋の選択だ。淡々と語る彼の表情にさっき垣間見えた迷いはもうないけれど、フィラはほとんどそう確信していた。
(惚れた弱みかもしれないけど……)
 それでもフィラは、ユリンの人々と引き離されて一人になっても、ジュリアンのことを恨んだりはしない気がする。礼拝堂や塔の上で、縋り付いてきた彼の弱さを知ってしまったからには。
 一つ、深呼吸をする。嘆くよりも今は、聞きたいことを聞いておくべきだ。せっかく向こうから聞いて良いと言ってきたのだから。
「それで……」
 せっかく思い切って声をかけたのに、泣きそうになっていたせいか妙に掠れた声になってしまった。慌てて咳払いして、気遣わしげにこちらを見下ろしたジュリアンに誤魔化すような笑みを浮かべてみせる。
「えっと、どうして空は、雲に覆われることになったんですか?」
 今度は妙に明るい声が出てしまった。戸惑ったような呆れたようなたじろいだような複雑な表情がジュリアンの顔に浮かんで、またすぐに消える。
「……魔術史の話を始めるべきポイントはいくつかある」
 表情を消して前に向き直ったジュリアンは、やはり落ち着いた口調で話し始めた。
「直近から挙げれば、約百五十年前の風霊戦争。約二百年前……西暦二〇〇〇年の三度目のサーズウィアとグロス・ディア大陸出現。約二千年前の二度目のサーズウィア。約三千年前の最初のサーズウィア。約百三十八億年前の宇宙誕生。どこから話す?」
「最後いきなり飛びましたね……」
「最後のは冗談だ」
 真顔で言い切られて思わず硬直した。このタイミングで冗談を言う意味がわからない。一発グーパンチくらい叩き込んでも良いのではないかと思う。どこからなら理解できるか、結構真剣に考えていたのに。
「地球上に魔術というものが存在し始めたのは三千年前からだ。それ以前のことはほとんどわかっていない」
 フィラが攻撃的なことを考えているとは気付いていないのか意にも介していないのか、ジュリアンは涼しい顔で続けた。
「じゃ、じゃあ……三千年前からで」
 ものすごいこの野郎感と葛藤しながら、フィラはどうにか言葉を絞り出す。できるだけ根本的なところから知りたいけれど、いきなり冗談を挟んでくる辺り、ジュリアンがどこまで本気で話してくれるつもりなのか予測できなかった。
「三千年ほど前、宇宙から降ってきた大陸が太平洋のど真ん中に着水した。それが全ての始まりだったと言われている」
「大陸? 隕石じゃなくて、ですか?」
「ああ。オーストラリアより小さくてグリーンランドより大きい程度だから、大陸と認めない説も多いが」
「そういう問題ではなく」
 そもそも大陸が降ってくるという表現が非現実的すぎる。
「荒唐無稽な話だが、少なくともそのグロス・ディア大陸に住んでいた者たちはそう主張したし、地球上には存在しないはずの鉱物など、二十一世紀の科学ではそれを真実とでも認めなければ証明できないような不可思議な事物がその大陸には多数存在していた。それは事実だ」
「二十一世紀……?」
 聞けばうっすらと思い出せる。二百年前……西暦二〇〇一年から始まる百年間だ。
「あれ? でも、グロス・ディア大陸の出現は西暦二〇〇〇年って言いませんでした?」
「言ったな。とりあえず順番に話そう。その大陸が降ってくるまで、地球上には魔術も魔力を知覚できる生物も存在しなかった。神界が現界から遠かったからだ。だが、その大陸を地球に運んできた原初の神ミラルカは、周囲の環境に影響を与えることなく大陸を地球に着水させるために魔術を使う必要があったと、グロス・ディアの歴史書は伝えている。そのために、彼女はサーズウィアを呼んだのだと」
「サーズウィアって……?」
 繰り返し出てくるその言葉は、どうやら魔術の歴史では重要なターニングポイントを示しているらしい。
「今起こっている現象のもっと大規模なものだ。現界と神界の距離が劇的かつ大規模に変動し、その影響は次にサーズウィアが来るまで持続する。そのときのサーズウィアは地球全体を覆うほどのものだったようだ。地球上の現界と神界は相互干渉可能なレベルまで接近し、その結果魔術が使用可能となった。しかし、当時の地球はまだ紀元前だ。充分な交通網も発達していなかったし、グロス・ディアはどういうわけか大陸の外の人間との接触を避けていた節がある。太平洋のど真ん中に着水したグロス・ディア大陸の魔導技術は他国に伝えられることなく千年が経った」
「二千年前……二度目のサーズウィア、ですね」
「そうだ。そのときは現界と神界は遠ざかる方向に発動した。それによって地球上から魔術は消え、もしかしたら偶発的に発動した原始的な魔術だったかもしれない奇跡の数々はただの伝説やおとぎ話として各国に残るのみとなった。そのときのサーズウィアの影響で、グロス・ディアも現界から消えた。もともと神域に近い性質を持っていたせいだろう。現界と神界に別れたとき、グロス・ディアは神界に属することになったんだ」
 それが西暦二〇〇〇年の「出現」に繋がるのかと、フィラはようやく納得する。
「その後の千八百年の間、人類は魔術の存在など知ることもなく歴史を紡ぎ、科学技術を発展させた。三度目のサーズウィアが訪れた西暦二〇〇〇年には、人類の科学技術はグロス・ディアの魔導技術を凌ぐほどになっていたはずだ。地球の周囲には人工衛星が飛び交い、遠い宇宙の星へ向けて探査船が飛ばされていた。……科学で説明できないことなどないと信じられていた」
 なんとなく思い出せる。それまで積み上げてきた科学の知識は、魔術が世界にもたらされても放棄されることはなかったのだろう。魔術ではない科学の存在は、確かにフィラの記憶の中に残っていた。
「だが、三度目のサーズウィアは来た」
 ジュリアンが立ち止まる。いつの間にか、二人は以前隠し扉の謎を解いた石の鍵盤の前に来ていた。ジュリアンは鍵盤の前に跪き、慣れた手つきであの時フィラが教えたとおりに鍵盤に魔力を流していく。
「二度目のサーズウィア同様、誰が呼んだのかはわかっていない。西暦二〇〇〇年十二月二十五日。人類はあり得ない事態に直面した。全人類が巨大な地震を体験し、しかし物理的な被害は一件も出なかった。そして誰も見たことのない大陸が突然太平洋のど真ん中に現れ、計算されていた地球の表面積すら変わってしまったんだ」
 ジュリアンの手の平から緑色の光が流れ出して、鍵盤を走る細い幾何学模様を虹色に光らせるのを、フィラは不思議な気持ちで見つめていた。そうする間にも、説明は続く。
「三度目のサーズウィアは現界と神界を接近させるものだった。それによって魔術は再び使用可能となり、今度こそグロス・ディア大陸の存在も世界中に知られることになった。様々な思惑が交錯しただろうが、少なくとも五年以内に、表向きにはグロス・ディアは当時の地球のルールに則って各国と国交を樹立した。神界にあった間、グロス・ディアの時は止まっていたらしいが、動き始めた彼らの文明レベルは……科学技術ではなく魔導技術を礎にしている以上単純比較は出来ないが、当時の先進国と比べてそれほど問題がある状況ではなかったようだ」
 立ち上がったジュリアンの前で、石の壁が重い音を立てて開いていく。
「グロス・ディア文化との出会いは、即ち魔導技術との出会いを意味した。その存在を認められない科学者も多かっただろうが、最終的に目の前にあるものを無視できるはずもない。結局人類は数年も待たずに魔術の存在を受け入れた。そして、科学技術と魔導技術は融合し、飛躍的な進化を遂げた」
 手を引かれるままに隠し扉をくぐりながら、フィラは思いを馳せていた。行く手には、剥き出しの石の壁と階段が、見通せないほど深い地底へと伸びている。
「五十年後には、世界中で魔術はなくてはならないものになっていた。生活していく上でも、人と人が争い合う上でも」
 石の階段を慎重に降りていきながら、ジュリアンの話は続く。
 科学も魔術も、どちらも人の世界を壊してしまえるほどの力を与えてくれるものだったはずだ。
「二十世紀にあった第二次世界大戦が最後の魔術なしの世界大戦だとしたら、百五十年前の風霊戦争は人類が魔術を得て初めての世界大戦だった」
 きっと人は、使い方を間違えた。
「その戦争で人類は、空を失ったんだ」
 無茶苦茶な話ばかりだったはずなのに、ジュリアンのその言葉は不思議なほどすとんとフィラの心に入ってきた。