第四話 光の名前

 4-6 肖像

 夕食後、ぽつぽつと雑談している内に夜は更け、眠る時間になった。主戦力であるジュリアンとランティスが最初と最後の見張りを担当し、眠りが中断されてしまう夜中の見張りをリサとカイが引き受ける。
 最初の夜番であるジュリアン以外の聖騎士は、座ったまま眠りの魔術をかけて即睡眠に入ってしまった。多少の物音では目覚めないくらい深い眠りに見えるが、見張り役が信号を送れば即座に覚醒状態へ移行する、らしい。寝る前にリサが得意げに話してくれたのだが、専門用語が多くてフィラには今ひとつ理解することが出来なかった。
 フィラは一人だけ毛布を二枚借りて、一枚を身体の下に敷き、もう一枚を折り畳んで枕にして横になっている。それだけ優遇されているのに、眠気はちっともやって来なかった。
 睡眠の必要ないティナは、ジュリアンと一緒に見張りについている。さっきジュリアンと何やら相談してから姿を消してしまったので、もしかしたらどこか巡回しているのかもしれない。
 半分近くまで欠けた月の光がバルコニーから差し込み、明かりを消した広間を薄ぼんやりと照らし出している。見張り番のジュリアンは、床に座ったまま微動だにしない。他の三人も同じような姿勢で眠っているので、一見すると誰が起きているのかわからなかった。
 身動きすると眠れないのがわかってしまいそうで、じっとしたまま目だけを開いていたフィラの方を、ふとジュリアンが見る。
「眠れないのか?」
 静かな声が問いかけてきた。どうやら眠っていないのはとっくにバレていたらしい。
「……はい」
 諦めて小さな声で返事をした。
「まあ、それはそうだろうな。あまり眠れないようなら眠りの魔術をかけてやる。睡眠の質は保証出来ないが」
「ありがとうございます。あの、ちょっとだけお話しても良いですか?」
 横になったまま問いかけると、ジュリアンが頷きを返してくる。仄かな月明かりだけでは表情までは読み取れないけれど、だからこそ少しだけ勇気が湧く。
「リタさんのこと……伺っても良いですか?」
「構わないが、カイやリサの方が詳しいぞ」
 ジュリアンが苦笑した気配がした。
「そうなんですか?」
「ああ。俺は四歳のときに聖騎士団に引き取られているから、実家とは疎遠なんだ」
 柔らかい声音が、塔の上で先代団長のことを話していたときのことを思い出させる。ジュリアンはあの時と同じ表情を浮かべているのだろうか。懐かしむような、悼むような、愛おしむような、何かに焦がれるような表情を。気になったけれど、淡い月光は相変わらずフィラにその表情を読み取ることを許してくれない。
「妹は二つ下だが、一緒に暮らしていたときのことは正直覚えていない。再会したのは俺が十五のときだ。カイやリサはその二年前からリタの護衛についていたから、実質的な付き合いはあの二人の方が長い。再会してからも会う機会は多くなかった。重要人物と会わせるには……俺は危険だったから」
 淡々とした調子に混じった僅かな躊躇いに、胸が痛んだ。家族にもろくに会いに行かせてもらえなかった、と、以前リサが話していた。その頃のことだろうか。
「危険って……どうして、ですか?」
 目を瞬かせる。少しだけ、声が掠れた。怖い、のだと思う。拒絶されても仕方ないくらい踏み込んだことを聞いてしまっているのかもしれない。
「魔力が強すぎるから、だな」
 けれどジュリアンは、あっさりと答えを口にした。そのことにほっとため息が漏れる。
 何が聞いておいた方が良いことで、何が聞いてはいけないことなのか、未だにわからないことが多すぎる。それでもフィラの方にはジュリアンのことを知りたいという気持ちがあるから、うっかり踏み込みすぎてしまいそうで怖かった。
「魔力を暴走させれば周囲にも被害が及ぶ。当時はまだ、制御出来るという保証は誰にも出来なかった」
「今は大丈夫、なんですよね?」
 六年前と今で、ジュリアンはどれほど変わったのだろう。少しずつ与えられる情報に、余計彼のことがわからなくなっているような気がする。何となく、今とはだいぶ雰囲気が違ったのだろうとは思うけれど。
「俺が大丈夫じゃないと言うわけにはいかないだろう」
 はっきりと言い切らない、苦笑の滲む調子に思わずジュリアンの表情を伺った。目が暗闇に慣れたからか、口の端を歪めるような微笑を見分けることが出来る。時折目にする、自らを突き放すような自嘲の笑みだ。心臓がぎゅっと縮こまるような感じがする。その笑い方は嫌だと思う。けれどそんな思いはもちろん口に出すことは出来なくて、フィラは胸の前できつく両手を握りしめた。
「先代の団長が生きていた頃に、聖騎士団団長が保証することが決まった。つまり今は自分で保証するしかないということだ。この魔力を、制御出来るということを」
 ジュリアンがふとこちらを見て微笑する。薄闇の中でこちらを見る瞳の色に、ふいに初めて出会ったときのことを思い出した。生きた人間とは思えないほど冷たい美貌の中で、その瞳だけが強い意志力を宿して生命の存在を主張していた。光の具合が似ているせいかあの時と同じ色に見えるけれど、今はその瞳は驚くほど穏やかにフィラを見つめている。
「怖いか?」
 怖かった。あの時は。
 今は、怖くない。
 怖いのはジュリアン自身ではなく、もっと別のことだ。踏み込みすぎてしまうこと。傷つけてしまうこと。――拒絶されること。
 何が変わったのだろう。いつの間にかジュリアンから威圧するような空気は消えていて、フィラの方も疑心や警戒心をなくしていた。
 いつからこうなっていたのか、今となってはよくわからないけれど。でもそれが間違っているとは思えなかったから、フィラは寝転んだ姿勢のまま首を横に振った。
「私は……その、怖いって言うか……」
 むしろ、危なっかしくて放っておけないなんて生意気なことを考えている。もちろん、放っておけないからって何が出来るわけでもない。リラの力が身の内にあっても、『そういうこと』の役には立たないような気がしている。何も出来ないくせに危なっかしいなんて、言えるわけがなかった。
「……わかりません。実感がないだけかもしれませんけど」
 迷った末に、誤魔化すような答えを出す。どうしようもない答えに、ジュリアンはただ「そうか」とだけ呟いた。その声も瞳も不思議と穏やかで、フィラはなぜか自分の鼓動が早くなっていくのを感じる。
 そこで会話が途切れてしまって、フィラは耳元で響く自分の鼓動を数えることになった。
 長い沈黙の後、ようやく動悸が収まってきたところで、フィラは聞きたいことをまだ聞けていなかったことを思い出す。
「団長から見て、リタさんはどんな方だったんですか?」
 ジュリアンは少し考え込み、やがて力の抜けた笑みを漏らした。
「……よく、罵倒されていたな」
「罵倒……」
 光の巫女と罵倒という単語が結びつかなくて、思わず復唱してしまう。ジュリアンの妹ならさぞ美人だろうと、アースリーゼのように圧倒的な神聖さを持った美少女をイメージしていたのだが、そう言われると何だか違うような気がする。実際の所どうだったのだろう。フィラのことを親友だと言っていた、三つ年上の少女。
「兄妹喧嘩、してたんですか?」
 一体どういう状況で罵倒することになんてなったのか、すごく気になる。なんとなく、理由は想像がつく気もするけれど。
「いや。話しているといつもいつの間にか怒らせてしまうんだ。あの頃俺はあまり人の情が理解出来なかったから、そのせいだったんだろうが」
 あの頃。どういう意味だろう。魔力の制御と関係があるのだろうか。
 聞き返そうか考えている内に、ジュリアンの表情が悪戯っぽいものに変わっていた。
「お前も親友だったなら悪口を聞いていそうだな」
「……そうかもしれませんね」
 聞き返すタイミングを逃した。そう思いながら頷く。
「私とリタさんは、親友、だったんですよね」
「そうらしいな」
 何だか想像がつかない。
「思い出したいな……」
 リタという少女が親友だと言ってくれていたなら、フィラにとってもきっと彼女は大切な人だったはずだ。それなのに何一つ思い出せないなんて、酷く薄情な気がする。
「さっきも言ったが、無理に思い出さない方が良い。記憶を封じたのはリタだ。お前に咎はない」
 まるでフィラの内心を読み取ったような言葉だった。ジュリアンが人の情をあまり理解出来なかった頃があるなんて、どうにも想像がつかない。
「まあ、今なら魔力が乱れても直してやれる。記憶映像、見てみるか?」
 少しだけ、考える。思い出すためじゃなくて、ジュリアンの妹として見れば平気かもしれない。思い出せないとしても、せめて知っておきたかった。自分のことを親友だと言ってくれた女の子のことを。
「お願いします」
 意を決して頷くと、ジュリアンは静かに立ち上がってフィラの前にしゃがみ込んだ。フィラもつられるように身体を起こす。
「リタが十五の時の姿だ」
 言葉と同時に二人の視線の中間くらいに幻影が浮かび上がった。ジュリアンと同じ色の、癖のない金髪を長く伸ばした少女の胸像。手を伸ばせば触れそうなくらいリアルな幻だったけれど、手のひらくらいの大きさでぴくりとも動かないそれはやっぱりただの幻だ。
 どこかジュリアンと似通った面立ちは絵画に描かれた天使のように美しいけれど、浮かべている微笑みはどこか悪戯っぽくて、天使らしい容貌の印象を裏切っていた。ジュリアンの瞳よりも少しだけ色の濃い意志の強そうな青い瞳も、天使というよりやはり人間の少女のものだ。
 ――懐かしい。
 急にこみ上げてきた感傷に、目の奥が熱くなる。視界がぼやけそうになる。
「……大丈夫か?」
 呼びかけられてはっとする。頭痛はないし、ジュリアンの様子を見る限り魔力も乱れてはいないようだ。フィラの動揺を見て、ジュリアンは幻影を消してしまう。それを名残惜しく思いながらも、これ以上見ていたら確かにまた頭痛が始まってしまいそうだとも感じていた。
「大丈夫、です。……すみません。もう、寝た方が良いですよね」
「そうだな。眠れそうか?」
 穏やかな問いかけに頷きそうになって思い直す。たぶん、遠慮するところではない。
「ちょっと難しいかも。魔法、かけてもらっても良いですか?」
「ああ」
 ジュリアンがフィラの額に手を伸ばす。
「横になって目を閉じて、力を抜け」
「はい」
 言われるままに瞳を閉じると、ジュリアンが手をかざした額の辺りに何か暖かい気配を感じた。
「……おやすみ」
 ジュリアンの声が低く静かに言う。
「おやすみなさい」
 意識が闇にとけていくのを感じながら、フィラはどうにかそれだけ呟いた。

 やはり驚くほど素直に、フィラは眠りの魔術を受け入れた。この様子ならば、魔術的な眠りに特有の妙な悪夢を見ることもないだろう。
 いったいいつからフィラはジュリアンのことを信用するようになったのだろう。聖騎士団団長として信頼を受けることに戸惑いはないけれど、フィラに対してはとても信頼に値しないような本性ばかり見せてしまっているという自覚はあったから、純粋に不思議だった。
 フィラが眠りに落ちた拍子に、潤んでいた瞳から零れた涙に手を伸ばす。戦闘用の手甲と滑り止めのついた手袋の指先で、そっとその涙を拭う。指先に沁みたぬくもりを見つめ、小さくため息をついた。
 さっきのフィラの反応からすると、リタと彼女が深い絆で結ばれていたことは恐らく間違いないのだろう。それを確かめるために、苦しませるかもしれないとわかっていてリタの映像を見せた。
 苦い感情を押し殺して、リタが親友だったはずのフィラに――大切に思っていたはずの相手に、光の巫女の力を押しつけなければならなかった理由を考える。
 それはきっと、リラの力をフォルシウス家に渡さないため。ジュリアンの元に届けるためだ。そのために親友を危険に晒すという決断を、リタはしなければならなかったのだろう。何を犠牲にしてでも光の神の力をジュリアンの元に届けようとリタが思う理由は一つだけのはずだ。リラの力を手に入れることで、ジュリアンは四年前に失った道の入り口にようやく立てる。
 ――約束を、果たすことが出来る。
 きつく手を握り、立ち上がった。少なくとも今は、カルマを倒すまでは、それ以外のことを考えている余裕はない。フィラを――光の神の力をカルマの手から守り抜く。全てはそれからだ。