第六話 町を出る日

 6-3 ココアとピアノと月の光

 なぜ、逃げなくてはいけないのだろう。得体の知れない不安に苛まれながら、昨日と同じブルーグレーの車に乗り込んだ。無言のまま、車は外へと走り出す。
「あの」
 城から出たところで、我慢できずに声をかけてしまった。
「悪かった」
「え……?」
 いきなり謝罪から入られてしまって、どう反応したら良いのかわからなくなる。
「リサの記憶は戻る。心配はいらない」
「初めてじゃないんですね、さっきの……」
「ああ」
 隣をちらりと伺うと、ジュリアンは大丈夫だと言った割に難しい表情をしていた。
「何で逃げるのかは……」
「後で話す。別に深刻な話じゃないけどな」
 いつもよりやや投げやりな調子で言ったジュリアンの表情は、もう普段通りの冷静さを取り戻している。
「どこか行きたい場所はあるか?」
 ジュリアンは真っ直ぐ前を見ながら軽く問いかけてきた。たぶん、あえて軽く言ったのだろう。深刻な話じゃないというのが嘘か本当かはわからないが、この場は深刻にはならない方が良さそうだ。
「行きたい場所……?」
 決定権を委ねられてしまったフィラは困惑する。どこでもいい、と言ったのはどうやら本当だったらしい。
「日付が変わるまでどこかで時間を潰したいんだが……その格好では、寒そうだな」
 ジュリアンにちらりと視線を送られて、フィラもつられるように自分の服装を見下ろす。城内を歩き回る必要があったので寝間着ではないが、確かにこの時間に外出できるような厚着ではなかった。
「いや、大丈夫ですよ」
「悪かった。団服の予備くらい持ってくるべきだった」
 一瞬の躊躇を読み取ったのか、ジュリアンの声が沈む。
「いえ、えーと、行きたい場所、でしたよね」
 二回も謝られてしまって何だか逆に申し訳ない気持ちになってきたので、フィラはあえて話題を元に戻した。ぱっと思いついたのは昨日と同じ大地の果てだったが、星を見るだけで二時間以上時間を潰せるとは思えなかったし、どう考えてもあそこは寒い。
「あ、踊る小豚亭……は、マズイですかね」
 思わず口に出してしまったが、誰もいないのに勝手に入ってはいけない、ような気がする。
「いや、構わない。お前がいれば不法侵入にはならないだろう」
「そう……なんですか?」
「あそこがお前の家なんだろ」
 ジュリアンは言いながら市街地の方へハンドルを切った。普段は馬車しか走っていない石畳の道が、こうして見るとちゃんと自動車も走れるようになっていることにフィラは感心する。
「そういえば、ティナは? さっきから姿を見かけませんけど」
 レーファレスの補助のために一日中討伐に付き合っていたティナは、先ほどの団長執務室にもいなかった。暇になったらフィラのところに来るかと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
「一人になりたいから散歩に行くと言っていたな。呼べば来そうだが。呼ぶか?」
「いえ……ティナが、一人になりたいなら」
 邪魔をするのは気が引けた。もともとティナは自分がそうしたいときにしか寄ってこない。そういうところは外見通り猫っぽいんだなと思う。
「お前は大丈夫なのか?」
「え?」
「全然一人になれてないだろう」
 思わず見上げた横顔はいつも通りの冷静さを保っていたけれど、声と言葉は優しい。胸の奥がふんわりと暖かくなるような心地がして、フィラは微笑んだ。
「大丈夫です。必要なことだってわかってますし、それに今は……あんまり、一人になりたくもなくて」
「そう、か」
 ジュリアンの声がまた沈む。
「いやいやいや、なんで団長が落ち込むんですか」
「別に落ち込んでない」
 妙に拗ねたような口調に思わず笑ってしまったら、ジュリアンはものすごく不本意そうに黙り込んだ。

 普段ならこんな細い道まで車を入れることは出来ないが、今は町が無人なので不問にすることにして、ジュリアンは踊る小豚亭の前で停車した。
 車から降りたフィラは、目に焼き付けるようにじっくりと踊る小豚亭の外観を眺めている。黒い木柱と白漆喰の対比が美しい、ハーフ・ティンバー構造のドイツ風の小さな酒場だ。メルヘンの世界から抜け出してきたような建物には、ジョッキ片手に陽気に踊る小豚の看板が下がっている。
「入りましょうか」
 ふとこちらを見たフィラが、微笑んで酒場の扉を押し開ける。不用心なことに、鍵はかかっていなかった。しかし、フィラがごく自然にそれを受け入れていることから、この辺りではそれが普通なのだと理解できる。治安を守る者としては少々複雑な気分だ。
 フィラに続いて中に入り、暗い店内に魔力光を灯した。この店にはそぐわない気がして、普通に灯せば真っ白な魔力光に赤みを混ぜ、光量を落とす。柔らかな光に、飴色の店内が照らし出された。手作りらしい椅子とテーブル、店の一番奥に設置された赤煉瓦の立派な暖炉、マントルピースの上の精巧なボトルシップ、木目調の古いアップライトピアノ。以前何度か訪れたときと、酒場の風景は変わらない。
 ほんの数日しか離れていなかったはずなのに、フィラは懐かしそうに店内を見回した。
「あ、団長、どうぞ座ってください」
 一通り見回した後で、入り口を背に立っていたジュリアンと目が合ったフィラは、慌てて椅子を勧める。
「何か飲みますか? 紅茶かコーヒーかココアだったらお出しできますけど」
 帰ってきた、という実感が湧いたのか、フィラはすっかりもてなすモードに入ったようだ。
「そうだな……この時間だから、カフェインが入っていないものを」
「じゃあ、ココアですね。甘いの大丈夫ですか?」
 カウンターの内側に周りながら、フィラは穏やかな調子で問いかけてくる。
「ああ」
「わかりました」
 フィラは頷いて、慣れた調子で働き始めた。ジュリアンは壁際のテーブルに陣取って、カウンターの中でくるくると動き回るフィラを眺める。厨房からミルクの缶を取ってきたフィラは、コップに一口分注いで鮮度を見てから片手鍋に入れた。それから砂糖を少量入れて火にかけ、ココアの缶から粉を取り出してほぐし始める。
 その一連の動きを、ジュリアンはテーブルに肘をついてただぼんやりと眺めていた。
 鍋や食器が触れ合う微かな音。暖かく甘い、ミルクとココアの匂い。淡いオレンジ色の光に照らされながら鍋をかき混ぜるフィラの表情も柔らかい。
 ここにあるのは、フィラが今まで紡いできた日常だ。奪われ、引き離されてしまった、日常の残照。
 ここにあるものは――本来あるべきだったものは、すべてが暖かく柔らかい。
 自分が、ひどく場違いに感じられた。
 そんなことを考えているうちに、湯気の立ったマグカップを両手に持ったフィラが目の前に立っていた。
「どうぞ」
 ぬくもりを感じさせる、不思議と大人びた笑みと共に差し出されたココアを受け取る。
「ありがとう」
 礼を言って口に含んだココアは、作り手を思わせる素朴で素直な味だった。身体が芯から温まっていく心地がする。
「美味いな」
 素直に感想を述べると、フィラは嬉しそうに微笑んだ。けれどジュリアンの前に座った彼女自身はなかなか口を付けようとせず、懸命にカップの中へ息を吹きかけている。
「お前、猫舌だったのか?」
 問いかけると、フィラはぴたりと動きを止め、ついで少し恨めしそうに上目遣いでジュリアンを見上げた。
「……はい」
 あからさまに指摘されたくなかったと言いたげなその表情に、ジュリアンは思わず笑みを浮かべる。さっきまで大人びた表情を浮かべていたのに、今のその顔は何だか幼かった。
「笑わないでくださいよ……」
 こっちだってさっき変なところで笑われたのだからお互い様だと思ったが、口には出さない。フィラは少しだけ不満そうに眉根を寄せていたが、すぐにまたココアを冷ます作業に集中し始めた。彼女が傍らにいるのを不思議と心地良く感じながら、ココアの甘さを味わう。
 場違いだとわかっていても心地良いのは、ジュリアンがここにいることをフィラがごく自然に受け入れてくれているからだ。後で話すと言ったことは覚えていたが、この穏やかな空気を破りたくなくて、ジュリアンは沈黙を貫いた。ぬるくなり始めたココアをゆっくりと飲んでいるフィラも、何も言わない。
 ぼんやりと店内を眺めていたジュリアンは、ふと視線を感じて顔を上げた。
「何だ?」
 フィラの黒目がちの瞳が、じっとこちらを見つめている。
「いや、何か……不思議だな、と思って」
「俺がここにいることが、か?」
「そうなんですけど……そうじゃなくて」
 フィラはコップ越しに言葉を探すようにジュリアンの瞳を覗き込んだ。そうやって見つめられると、何だか落ち着かない気分になる。
「それに違和感がないことが、かな」
 半ば独り言のように、フィラは小首を傾げながら小さく呟いた。
「そうか?」
「はい」
 フィラは頷きながらマグカップの中に視線を落とす。また沈黙が戻ってきそうになって、ジュリアンは一瞬瞳を閉じた。覚悟を決める。
「リサの話だが」
 フィラがきちんと話を聞くと示すように背筋を伸ばした。
「わかっていると思うが、さっきのあれは竜化症の症状だ」
 フィラは神妙な表情で頷く。簡単に戻ってきた緊張感がうっとうしくて、往生際悪くココアを口にした。それでももちろん、緊張感は去って行ってはくれない。
「普段は脳内に埋め込んだ記憶チップでバックアップしてあるから大丈夫なんだが、記憶チップから上書きする間隔を誤るとあんな風になる。今回は一時間くらい復旧できない記憶があったかもしれない」
 フィラの表情が微かに翳った。
「何か、大事な話をしてたのか?」
「いえ、知らない聖騎士の方たちの話を聞いてただけなので……大丈夫、だと思います」
 フィラは落ち着かなげにマグカップをテーブルに置く。
「それで、カイさんから逃げないといけない、っていうのは」
「ああ……」
 最後の一口を飲み、空になったマグカップをフィラに倣うようにテーブルに置いた。
「リサがカイに捕まったからだ」
「えーと」
 こちらを見上げるフィラの顔には、わけがわからないとはっきり書いてある。
「リサの竜化症が予想よりも進んでいると気付いたら、カイはリサに聖騎士はやめろと言うだろう。魔術を使い続ける限り、竜化症の進行は抑えられないからな」
 行き着く先は存在の消滅だ。誰にも、どうすることもできない。
「だが、リサは聞かない」
 ジュリアンが知るだけでも、もう何度も繰り返されているやりとりだ。知らないところではもっとだろう。
「あのままあそこにいたら、カイが頼みに来る」
「リサさんを説得してくれ、って?」
「ああ」
 深くため息をついた。これ以上続けさせたくないとは、ジュリアンも思っている。しかし。
「俺が説得しても無駄だ」
 鈍い頭痛を覚えて眉間を押さえる。フィラの心配そうな視線を感じる。
「カイが言って聞かないことは、俺が言っても聞かない。カイも、それはわかっているはずなんだ」
 フィラがおずおずと手を伸ばして、眉間を押さえる手の上から労るように頭に触れた。前髪を揺らす風のような、朧気な感覚だったけれど、そこから鈍い痛みが吸い取られていくような心地がして、ジュリアンは瞳を閉じる。
「今日話しても水掛け論にしかならないが、明日になれば、カイの頭も冷える。だから……」
 だから、逃げた。カイに責められるのは構わない。確かに責は自分にある。だが、言ってしまった後で必ず後悔するカイを知っていた。
「……言い訳にしかならないな。巻き込んで悪かった」
「いいえ」
 目を閉じたまま自嘲の笑みを浮かべたジュリアンに返ってきたのは、思いがけない否定の言葉だった。
「理解、できました。カイさんにも、きっとその方が良かったと思います。それに」
 フィラの手が離れていくのを感じて目を開く。
「私も……今日、ここに連れてきてもらえて良かったと思ってますから」
 微笑む彼女の表情がやけに眩しく見えて、それを誤魔化すように視線を逸らした。
「なら、良い。ほかに聞きたいことは?」
「今は……特には」
 フィラは少し考え込むように小首を傾げてから、首を横に振る。
「まだ、時間があるな」
「そうですね……ピアノでも弾きましょうか? 何かリクエストがあれば」
 フィラの視線を辿るように、古いアップライトピアノを見た。古ぼけてはいるが、よく手入れされているらしい艶のある木目調のピアノ。
「そうだな……余り詳しくないんだが、ドビュッシーの曲が聴きたい」
 ふと、以前聞いた『沈める寺』を思い出してその作曲家の名を出した。
「わかりました。じゃあ、『Clair de Lune』を」
 フィラは柔らかなフランス語で曲名を言いながら立ち上がり、ピアノの前に座る。
 月の光。
 聞いたことがある曲名だ。確か、リタが気に入っていた曲の一つだった。その話をしたとき、リタが本物の月を見たいと言っていたことを思い出す。比較的簡単な曲だから練習しているけれど、どうしても本物を知らないとイメージが湧いてこないから、と。
 礼拝堂のピアノとは違う音が静かに響き始める。
 澄み切った水のような硬質な礼拝堂のピアノの音と比べて、こちらのピアノは少しひび割れてくぐもったような、柔らかい音がした。質から言えば明らかに礼拝堂のピアノの方が上だったけれど、こちらも悪くないとジュリアンは思う。
 礼拝堂のピアノを弾いているときのフィラは戦友に対しているように遠慮がないが、こちらのピアノは柔らかくいとおしむように、労るように弾いている。テンポも少し緩めている、ような気がする。
 月の光、と言うからには、きっと夜の曲なのだろう。けれどジュリアンが思い出せる本物の月は、青空に浮かぶ真昼の月だ。
 優しく打ち寄せる波のような音に身を浸しながら、思い出していた。忘れたいのに忘れられない、白い月の姿を。
 ――リタには、見えたのだろうか。あの月が。
 そうであれば良い。
 そうであって欲しいと願う。
 最後の瞬間に彼女が見たものが、本物の空であってくれればと。