第六話 町を出る日

 6-8 出立

 フランシスに魔力の検査を受け、やはりリラの魔力は感じられないと診断を受けた翌日には、もう視察団帰投の日だった。まったく現実感がないままリサの部屋に置いていた少ない荷物をまとめていると、早朝の会議に出ていたリサが戻ってくる。
「お客が来てるんだけど、ちょっと外出られる?」
「お客……?」
 このタイミングで訪ねてくる客に心当たりがなくて首を傾げると、リサもどこかわけがわからなさそうな表情で小首を傾げた。
「うん。謎の占い師ウィンドさんが」
「ウィンドさん……」
「知ってるんだよね?」
「あ、はい」
 半月ほど前に顔を合わせて以来のウィンドがどうやってフィラの居場所を探り当てたのか、ユリンの住民が避難している間どうしていたのか、まったく想像がつかない。
「いやー、しかし謎だよね。あの人絶対ユリンに住民登録されてないのに。どうやって入り込んだんだか」
「リサさんは……知ってるんですか?」
 気安い調子が気になった。リサならば初対面の相手にでもそれくらい打ち解けた態度を取りそうだけれど、なんとなく今の台詞は知り合いに向けたもののような気がする。
「うん。ちょっと前にね……カイ君やリタとお隣の国に潜入してたとき知り合ったんだけど。まさかユリンに来てるとは思わなかったよ。来てたんなら顔出してくれれば良いのに、水くさいよね」
 命を預け合った仲なのにとぶつくさ言うリサとウィンドの関係も、何だか想像を絶する感じだ。
「ウィンドさんは……リタさんのこと、知ってたんですね」
「うん。まあ、しばらくは行動を共にしてたわけだし」
「ウィンドさんがリタさんから私のことを聞いてたなんてことは……」
「うーん……どうだろ。カイ君にもあれだけ遠回しにしか言ってないんだったら、ウィンドに話すってことはたぶんないと思うけど……いや、どうかな。謎の占い師なんて得体が知れないけどその方が話しやすいとかあったりすんのかな」
 あちこちに視線を彷徨わせながら微妙な唸り声を上げるリサに、フィラは結論を得るのを諦めた。
「で、行く?」
 考えるのを放棄したリサが、改めて問いかけてくる。
「はい、いろいろと……聞いてみたいこともあるので」
「おっけ、ジュリアンも聞きたいことがあるって言って先に行ってるから。裏口の木戸んとこ行ってくれる? 私はちょっとカイ君に呼び出し食らっててさ。すぐティナちゃん来るから」
「わかりました」
「荷物はそれだけ?」
 フィラが抱えているトートバッグに視線をやって、リサは小首を傾げた。
「はい、これで準備完了です」
「そっか。じゃあ、また後でね」
「はい」
 頷いて廊下に出ると、本当にすぐにティナが向こうの角から駆けてきた。

 焼け落ちた裏口の木戸は修復されていたが、その向こうの草原はまだ焼け野原のままだった。黒ずんだ大地の上でジュリアンと話していた長い髪の占い師がゆっくりとこちらへ振り向く。
「こんにちは、フィラ。あなたに会いたいと願っていました」
 近付いてきたフィラに、ウィンドは慈愛に満ちた微笑みを浮かべてそう言った。
「今日は私が願ったのです。あなたと会って、話がしたいと」
「ウィンドさん、私……」
 何か聞こうとして、何を聞けば良いのかわからないことに気付く。迷っている間に、ウィンドにちらりと視線を向けられたジュリアンが一つ頷いて話が聞こえない位置まで遠ざかった。
「ごめんなさい、フィラ。魔法は解けてしまった。そして貴方は選ばなければならなくなった。まだ、すべてを知るには時間が足りなかったのに」
 ウィンドの微笑みに愁いの影が差す。
「何を、選んだことになるんでしょうか」
「その力を、引き受けることを。自らの意志でそれを使うということは、そういうことなのです」
 迷うように視線を落としながら、それでもウィンドの微笑みが消えることはない。
「私はそれを願っていたけれど、今は少し悲しい。もっとあなたに時間を与えたかった。あなたがそれを、愛するようになるまで」
「ウィンドさんは、私のこと、リタさんから聞いていたんですか?」
「ええ、少しだけ。でもそれは、彼女と旅をしていた頃よりも後のことでした」
 顔を上げたウィンドは、何かを懐かしむように目を細めた。
「お別れを、言わなくてはなりません」
「お別れ?」
 唐突な言葉に目を瞬かせる。
「そう。時は動き始めている。空はざわめきだしている。私たちの多くは同じ願いを持っているけれど、違う願いを持つものもいるのです。私は私を止めなければならない。私の願いを叶えるために」
 また占い師らしい謎めいた台詞を口にしたウィンドは、フィラの瞳をじっと覗き込みながら真剣な表情になった。
「もしも……どうしても知りたいことがあるのなら、風泣き山のランを訪ねてください。しばらくの間、貴方にそうする自由はないと思うけれど……もしも自由になって、道に迷ったならば」
「風泣き山の……ラン?」
 ラン、と名乗った少女のことは覚えている。水の神器を竜に届けようとしたとき、フィラを助けてくれた……たぶん人間ではない誰か。
「ええ。彼女は、私です。彼女の願いも、私と同じ。もしもあなたが願うなら、彼女もあなたの力になりたいと願うでしょう」
 正直なところ、正確な意味はわからなかったけれど、ウィンドならそういうこともあるのかもしれない、と受け入れられてしまう。彼女の言う『私』は、きっと普通の人間が言う『私』とは意味が違うのだろう。
「あの、また、会えますか?」
 詳しく聞くのはやめにして、それだけを尋ねた。
「あなたがそう願うなら。私たちの願いが重なる、その時に」
 いつか聞いたような言葉を、ウィンドは繰り返す。
「忘れないで、フィラ。あなたはその力を手放すことも出来るのです。願わないことは罪ではない。あなたが願わなければ、私たちはあなたを傷つけずにすむのでしょう。願わずに生きる道もあなたにはある。願わないことを願うことも、大切なこと。それで守れるものがあるのならなおさら、願わないことを選ぶ必要が、あなたにはあるのかもしれない」
 静かな声が、焼き払われた大地を撫でる風のように優しく耳に届く。
「けれど……それでもあなたが願うなら、私たちと同じ願いを持ってくれるのなら、また会うこともあるでしょう。私たちの願いが重なるその時に」
 ウィンドはいとおしそうにフィラを見つめ、微笑みを浮かべて一歩後退った。
「さようなら、フィラ。あなたの行く道に、良い風が吹きますように」
 緩やかな風が吹き付ける。その風が黒い大地を鮮やかな色に染め上げた気がして目を瞬いた瞬間、ウィンドの姿は消えていた。焼け焦げた大地もやはり元のままだ。
「ウィンドさんは……私に願ってほしいと思ってるんだよね?」
 半ば呆然とウィンドが消えた場所を見つめながら、そう小さく呟いた。
「みたいだね。でも、それで君が自分の考えを変える必要はないと思うよ。フィラはフィラのしたいようにするべきだ」
 肩の上でずっと黙っていたティナが、こぼれ落ちた疑問に答えてくれる。
「うん。ウィンドさんが言ってたのも、そういう意味だよね、きっと」
 ぎゅっと胸の前で両手を握りしめた。一度確かに感じられたはずのリラの魔力は、今はどこにも見当たらない。
「私のしたいように……」
 自分の願い。
 改めて考えると、よくわからない。未来を照らしてくれるはずの過去という光は、未だフィラの元に戻ってきてはくれない。たった二年間だけの記憶で判断できることはそれほど多くない。ただ一つ、それでも思うのは――
「フィラ」
 ウィンドの姿が消えたのを見て、ジュリアンがこちらに近付いてきた。
「話は終わったのか?」
 静かな声に促されるように顔を上げて振り向く。
「はい。何だか……よくわからない感じでしたけど」
「彼女はいつもそうだろう」
 ウィンドが消えた辺りを眺めながら呟くジュリアンも、ウィンドと会うのは初めてではないようだった。
「団長は……聞けたんですか? 聞きたいこと」
「いや、はぐらかされた」
 その割に、落胆してはいないようだ。いつも、と言ったとおり、ウィンドのよくわからない話し方には慣れているのかもしれない。
「昼前には出発するが、準備は」
「もう出来てます。いつでも大丈夫です」
「そうか。ジェフ・ダレルが挨拶をしたいと言っていた。食堂に顔を出してやってくれ。朝食もそこで一緒に取ると良い。出発の時間になったらリサを呼びに行かせる」
「はい」
 頷いて背中を向けたジュリアンを見送りながら、考える。
 ――ただ一つ、願うことがあるとしたら、それはジュリアンのことを知りたいということだ。
 振り向いて、ユリンの上に広がるにせものの青空を眺める。
 いつか本物になるための魔法だと、ウィンドは言っていた。ユリンのにせものの青空では叶わない、空を飛ぶというバルトロの夢を、必ず取り戻せるとジュリアンは言った。
 そして、戦いの中でわざとフィラに聞かせるように魔女が言っていたことも、きっと嘘ではない。
 だとしたら。
 ――ジュリアンは、この世界に青空を取り戻そうとしているのだろうか。
 そしてそれが、ウィンドやランや――リタの願いなのだろうか。
(そんなこと、出来るのかな……)
 どんな手段で、どんな犠牲を払えばその願いを叶えることが出来るのか、フィラには想像もつかないし、そもそもこの予想が正しいのかどうかもわからない。
 だから知りたい。ジュリアンの本当の目的。そのために彼が何をしようとしていて、何のためにリラの力が必要なのか。
 自分に、その手助けが出来るのか。
 ティナを肩に乗せたまま、にせものの太陽に向かって右手をかざした。手のひらに降り注ぐ光が、暖かな熱を伝えてくる。
 ちゃんと知りたい。知らなくてはならない。どうしてリタがこの力を自分に預けてくれたのか。どうして自分がそれを引き受けたのか。その理由がジュリアンの目的と重なるのなら、きっと出来ることはあるはずだ。
「まずは……」
 降り注ぐ光をつかみ取るように手を握る。
「魔力の制御、出来るようにならなくちゃね」
 たぶんそれが、記憶を取り戻す一番の近道だ。
「そうだね。そうしてもらわないと僕も気が休まらないし」
 言葉に出した決意に、ティナが肩の上から賛同してくれた。そこに込められた気持ちには、たぶんティナは気付いていないけれど、それでもやるべきことが見えてきた気がして元気が湧いてくる。
「よしっ、じゃあ、食堂へ行こう!」
「にゃー」
 湧き出た元気に任せて空に拳を突き上げたフィラに、ティナも機嫌の良い鳴き声で答えた。

 食堂では、ジェフだけではなくエセルとモニカとアメリも待ち構えていた。どうやらフィラと一緒に食事をするために、視察団と食事の時間をずらして待っていてくれたらしい。
「朝食だからお別れパーティーって言うにはちょっと質素だけど」
 と言いながら、ジェフがいつもより少し豪華な朝食を六人掛けのテーブルに並べる。
「お別れっつっても、私とモニカはまた会う機会あると思いますけどね」
「いつになるかはわかんないけど、団長が中央に戻るんだったら、うちらもついてくことになるだろうから」
 ジェフを手伝いながらエセルとモニカが主張した。
「あたしはこのままユリンに入るから、あんたのことは忘れることになるんだろうが、また機会があったらピアノ、聴かせておくれよ」
 ジェフに手渡されたミルクの壜を開封しながら言うのはアメリだ。さんざん怖がられていた割に、アメリはいつの間にかジェフと打ち解け、ジェフを通してエセルやモニカとも普通に会話を交わすようになっていた。話のきっかけはどうやらフィラのことだったらしいのだが、ここ数日食堂で食べていなかったフィラには詳しい経緯はわからない。
「中央に行ってもちゃんと練習するんだよ。せっかくいいもの持ってるんだからね」
「はい、先生。ありがとうございます」
 何度かのレッスンでアメリの乱暴な言葉遣いや大きな声にも慣れていたフィラは、その中に確かな気遣いを感じて微笑を浮かべる。
「さ、食べますか〜!」
 準備が終わったのを確認したモニカがそう宣言して、ユリンで最後の朝食が始まった。

「そう言えば朗報があったんだ」
 焼きたてのパンをちぎりながら、モニカがにこやかな笑顔をフィラに向ける。
「ギリギリだったんだけど、ティナちゃんの守護神申請通ったから、一緒に中央省庁区に行けるよ」
「そうなんですか? 良かった……」
 ほっと息をつくフィラの隣の席で、丸くなっていたティナもほっとため息をつくのが見えた。
「それと、さっきも言ったけど、私とモニカ、団長が中央に戻るときには一緒に戻るんで」
「そしたらまた会うことになると思うんだ。そのときはよろしくね、フィラさん」
 機密情報に触れる立場にいる二人は、光の巫女とも接触する機会がある、ということなのだろう。
「はい、お二人が来てくれるなら、心強いです!」
 知らない土地と環境でやっていく自信はなかなか持てないけれど、ここ数日何かと世話を焼いてくれた二人がいてくれるなら、本当に心強い。そう思ったら思わず言葉に力が籠もってしまった。
「やー、そんなに頼りにして貰えるなら、ねえ?」
「できるだけ早めに中央復帰できるように気合い入れないとね」
 二人は照れたように顔を見合わせて笑う。
「それにしても、フィラちゃんいなくなると寂しくなるわ〜。短い間だったけど、すっごく助かってたのよ。もうずっと助手やってほしかったくらい」
「そんな、大げさですよ」
 フィラがジェフを手伝えたのなど、本当に数日の間だけだ。大きく身をくねらせるジェフに、フィラは思わず恐縮して両手を振った。
「大げさじゃないわよ〜! もう、相手が団長じゃなかったらライバルに名乗り出てるところよ」
 光王の許可を得られたことで、フィラがジュリアンと婚約したことは公然の情報となったらしい。光の巫女であることはもちろん知らされていないから、ジェフはたぶん本気で恋愛結婚だと思っているのだろう。それを信じられることがフィラには信じられないけれど、ジェフはまるで当然のことのように受け入れている。
「っていうのはさすがに冗談だけど、でも、助かったのは本当。また会えると良いわね」
「そうですね。私も……また、会いに来たいです」
 再びユリンを訪れる日が来るのなら。そんな気持ちが、少しだけ声をかすれさせた。
「いつでも歓迎するわよ〜。アタシ当分はここで働くつもりだから」
「楽しみにしてます」
 一瞬混じった感傷に、ジェフは気付かないふりをしてくれた。それに感謝しながら、フィラも笑って食事を続ける。
 そんな風にして、最後の食事は楽しい談笑のうちに進んだ。

 食べ終わってひとしきりおしゃべりを楽しんだ後、皆で片付けをしていると、フィラのトートバッグを片手に持ったリサがやって来た。
「やっほーフィラちゃん、そろそろ出発だけど、だいじょぶ?」
「はい、大丈夫です」
 頷いたフィラの回りに、ジェフたちが集まってくる。
「じゃあね。元気でやるんだよ」
 口火を切ったのはアメリだった。
「また会おうね」
「しばらくは偉い人に囲まれて大変だと思うけど、きっとまたすぐ会えるから」
 フィラの手を取るモニカの後ろで、エセルも頷いている。
「団長のご実家なら心配ないと思うけど、ちゃんと食事取るのよ」
 感激屋なのか半分涙ぐんでいるジェフの言葉で、エディスとエルマーとの別れを思い出してしまって、少しだけ目の奥が熱くなった。
「中央省庁区なんてろくでもないところだが、大丈夫、あんたならやっていけるさ。なんせあたしのレッスンについて来られたんだからね」
 スパルタだったという自覚があったらしいアメリに、こみ上げかけていた感傷が笑いに変わってしまう。
「はい、行ってきます!」
 手を振って見送ってくれる皆に笑顔で手を振り返しながら、フィラは食堂を後にした。
 そのままリサについて車庫へ行き、修理が終わったばかりの黒い公用車の前に連れて行かれる。
 車には既にジュリアンとランティスが乗っていた。リサはフィラのトートバッグをトランクに放り込み、助手席に乗り込む。フィラはジュリアンと並んで後部座席に座ることになった。
「出発の時刻だ」
 ちらりと腕時計に目をやったジュリアンの低い呟きと共に、車庫の扉が開かれる。視察団を乗せた数台の同じ色形の公用車に続いて、ランティスが運転する車も城の外に滑り出た。
 高く昇った太陽に照らされた風景が、ゆっくりと窓の外を流れていく。焼け焦げた大地が青々と茂った草原に変わり、ユリンの街並みがおもちゃのように小さく遠ざかっていくのを、フィラはじっと見つめていた。遙か東へと続く黄色いレンガの道を、列になった車は粛々と走っていく。
「結界の外に出るぞ」
 かつてユリンが城砦だった頃の城壁の名残も背後に遠くなった頃、ランティスが少しだけ緊張した声でそう言った。
「フィーネさんの能力をいきなり試す羽目にならないことを祈る!」
 まったく信仰心の込められていなさそうな雰囲気のリサが、胸の前で聖印を切る仕草をする。
 その直後に、何かの膜を抜けるような感覚が全身を走った。一瞬で窓の外の風景が一変する。
 そこに広がっているのは、もう緑と陽光のあふれる色鮮やかな美しい世界ではなかった。虹色の幾何学模様が幾重にも折り重なってできた分厚い灰色の雲と、ねじ曲がったどす黒い植物が所々に繁茂する荒野だけが、地平線の彼方まで続いている。
 この世の物とは思えないその風景を、フィラは息を詰めて見つめた。冷たくなっていく指先に、膝の上に乗ったティナがそっと身体をすり寄せてくる。その感触に少しだけ緊張がほぐれたけれど、それでもこれがこの世界の本当の姿だと受け入れられるまでには、まだもう少し時間がかかりそうだった。