第一話 長閑ブルース

 1-7 父とワイン

 ジュリアン自身は水曜日の列車に乗るつもりだったのだが、一日くらい休暇を取れと主張したフェイルが有無を言わさず木曜の列車のチケットを取ってしまったので、今度は最初から泊まりがけの予定で実家へ戻ることになった。
 次に中央省庁区へ戻ってくるのはユリン領主の任を引き継いでからだ。片付けておける仕事を全て片付け、中央省庁区で勤務している聖騎士や聖騎士団付きの僧兵たちにも声をかけていると、夕食が始まる時間ぎりぎりになってしまった。
 玄関ポーチへ迎えに出てきたエリックは、愛想良く食堂へ行くように告げて車を車庫へ入れに行く。邸へ入ったジュリアンは、人気のない廊下をどこか重い足取りで食堂へ向かう。広い邸に住んでいるのは、今はランベールとセレスティーヌとエリック、そして新たに加わったフィラの四人だけだ。昔は住み込みの使用人や警備員もいたような記憶が朧気にあるのだが、今は自律型の家電にほとんどの家事を任せ、人の手が必要なところだけ通いの家政婦とセレスティーヌとフィラが行い、警備も幾重にも張られた結界と魔術の心得があるエリックが担当しているようだ。いざとなればランベールとセレスティーヌも戦闘用の魔術を使う資格は持っているし、フィラにはティナがついている。わざわざ警備員を雇う必要は確かにない。
 それでも、ここまで徹底して人を減らしたのは何故なのか、ジュリアンは少しだけ父親の心情を不思議に思った。
 食堂の前に来たところで、内側から扉が開く。
「あ、団長。お帰りなさい」
 空になったトレイを片手に出てきたフィラが、嬉しそうに声をかけてきた。
「……ああ」
 相変わらずここが自分の帰る場所だとは思えないジュリアンは、また返答に迷う。
「もう準備できますから、座って待っててください。あ、席は奥から二番目です」
 フィラは僅かなためらいは気にしていない様子でてきぱきと案内し、隣の厨房へ入っていった。言われた通り食堂に入ったジュリアンは、先に席に着いていたセレスティーヌに一礼して着席する。食卓の上には、もう既に料理が並んでいた。フィラが凝り性だと言っていたとおり、本格的で手の込んだフランス料理が並んでいる。メインディッシュはまだ来ていないが、そのほかの前菜は大皿に盛られて並べられているし、メインディッシュが並べられるのだろう場所も真ん中に大きく空けられているから、順序は気にせず好きにとって食べろということなのだろう。
「明日はお休みだってフェイルから聞いたのだけど」
 セレスティーヌに躊躇いがちに声をかけられて、顔を上げた。
「せっかくだからゆっくりしていってね。ユリンに戻ったら、またたくさん魔術を使わなくてはいけないんでしょう?」
「はい。ありがとうございます」
 礼を言ったところで、フィラが五人分のスープの皿が載った二つのトレイを両手に持って入ってくる。
「器用に運ぶものだな」
 メインディッシュの皿を持って後から入ってきたランベールが感心したように呟いた。
「踊る小豚亭で鍛えられたんです」
 楽しそうに答えながら、フィラは全員の席の前に皿を置いていく。それを見ながら、ジュリアンは妙な光景だと考えていた。
 厳格で冷徹な指導者である父が、こんな風に穏やかな日常を過ごしているなんて想像したこともなかった。光王庁で経済を動かし、水面下でフォルシウス家との政争を繰り広げている男が、フィラと気の抜けた会話をしながら手料理を運んでくる。不思議な気分だった。自分には縁がないと思っていた平穏な日常が、手を伸ばせば届いてしまいそうな距離で展開されている。
 少し遅れてエリックが入ってくる頃には、食事の準備はすっかり整っていた。

 ランベールの手料理は、見た目だけではなく味も確かに本格的なフランス料理だった。内容もフルコース並だったのだが、シェフであるランベールが一緒に食べるので、全て大皿でテーブルに並べた上で、好きなものから取って食べるというカジュアルな食事会になった。フィラとセレスティーヌが交互に繰り出す料理名や作り方への質問に、ランベールが淡々と答えるという形で会話は進行し、時折フィラが感想を求めて投げかけてくる質問に答えるうちにジュリアンもいつの間にか会話に参加させられていた。一通り料理に関する説明が終わると、話題はまたフィラの勉強や魔力制御の進行状況になってしまったが、フィラはにこやかに聞き役に徹していた。
 魔力制御の訓練は上手く行っているようだったが、それでもリラの力は強固に封印されたままらしい。食事の後半は、今後の訓練方針についてセレスティーヌやランベールと真剣に討議している内に終わってしまった。
 食後、デザートまで食べてゆっくりした後、ランベールが席を立ったのを合図にジュリアン以外の四人はさっさと食器を片付け始めた。ジュリアンもつられるようにそれを手伝う。フィラとセレスティーヌが食洗機に食器を放り込んでいる間に食卓を拭いていると、いつの間にか姿を消していたランベールがワインの壜を片手にやって来た。
「明日は休みだろう。飲まないか」
 明日ユリンへ戻る予定だったのを変更し、ジュリアンが休みになるように取りはからったのはフェイルだが、それにランベールが一枚噛んでいることには気付いていた。最初からそうしたかったのかと得心がいく。
「構いません」
 わざわざ手を回してまでしたい話があったのだろう。断る理由はなかった。
 父の後について二階の書斎に入る。小振りのソファとローテーブルが置かれていたので、そこに父と差し向かいで腰掛けた。ランベールがコルクの栓を開けると、微かに芳醇な香りが漂う。無言で勧められたグラスを受け取り、やはり無言のままグラスを合わせて飲み始めた。
 それからしばらく、どちらも口を開かない時間が続く。質の良いワインの味と香りを楽しみながらも、ランベールが何を話したがっているのか考えていた。
「お前は……」
 二杯目を数口飲んだところで、ランベールはようやく重い口を開く。
「私とセレスティーヌを恨んでいるか」
 感情を押し殺したような低い問いかけに、はっと顔を上げた。
「そんなことは……!」
 俯きながらグラスをテーブルに置き、震えそうな拳を握りしめる。ランベールがそんなことを聞いてくるとは、予想していなかった。動揺している自分に気付いて、無理矢理感情を抑えつける。
「理由がありません。恨まれるべきはむしろ、私の方だと……」
「何故そう思う」
 問いを重ねる父の声は、いつも通りの冷徹なものだったけれど、どこか憂いを秘めているように感じられた。
「聖騎士団はリタを……守ることが出来ませんでした」
「……お前は聖騎士団団長である以前に私たちの息子で、リタの兄だ」
 ゆっくりと告げられた言葉に、目を見開く。
「悲しみを分かち合うことはあれど、恨むなど」
 ワイングラスの中をじっと見つめながら、ランベールはきつく眉根を寄せた。痛みを堪えるようなその表情を、ジュリアンは呆然と見つめる。
(分かち合う……?)
 そんなことは考えたこともなかった。誰かと感情を分かち合うなどと。
「だから気にせず、ここに来ると良い」
 これが父の言いたかったことなのだろうか。真剣な表情を疑う余地などなかったが、まだ素直にそうするとは言い難い躊躇いが胸の内にある。
「私は……」
「お前が抱えている宿命は、私もセレスもわかっているつもりだ」
 ジュリアンの言葉の先を読んで、ランベールは少し強い調子で遮った。
「だが、そのときが来るまでは……せめてセレスには、それを忘れさせてやって欲しい」
「しかし、それでは……母上を苦しめるだけです」
「それは無駄な気遣いだ」
 ランベールの言葉に迷いはない。
「どこにいようと、何をしていようと、お前は私たちの息子だ。息子を思う気持ちは離れていようと変わらない。ならば、何も出来なかったと悔やむより、せめて最後まで出来ることをしてやりたいと願うものだろう」
 ランベールは言い終えると、ワイングラスの中身をぐっと飲み干した。
「お前にそんな役割を押しつけたくはなかった」
 酔いが回ってきているのかもしれない。ワインをグラスに注ぐランベールの手は、少しだけ震えていた。
 ――いや、揺れているのは、その感情だ。
 光王庁では感情を表に出すところなど見せたことがなかったのに、父もこの家ではそれを表に出すのか。
 そう思った一瞬に脳裏を過ぎったのは、怒ったようなフィラの眼差しだった。わかっているくせにわからないふりをするのかと、責められているような気がする。
(ああ、そうか)
 ふっと、実感が胸の内に降り積もった。ランベールが感情を表に出すのは、ジュリアンが彼の息子だからだ。
「……そう言っていただけるだけで充分です」
 本心を見せてくれたのだと思う。その実感が、心の奥を隠していた膜を溶かしていく。自分もそれを見せて良いのだと、思うことが出来る。ワインを一口飲んで、ジュリアンは微笑した。
「役割は果たします。俺はそのために生まれてきたのだから」
「そんなことを言うな」
 そう言ってまたグラスを空にした父につられるように、ジュリアンもまたワインを口にする。普段ならば不愉快でたまらないコントロールが失われていくような感覚が、今は心地良かった。
「少なくとも私とセレスは、お前に幸せになってもらいたいと思って生んだんだ」
 ランベールは話しながらジュリアンのグラスにもワインを注ぐ。ペースが速すぎる、とは、思ってはいた。しかし何か痛みを堪えるように呑み続ける父を前に、その盃を断るのは気が引けた。
「どうしてお前だったのかと、私は今でも考える」
 遠い過去を悔いるように、ランベールは瞳を閉じる。
「理由などないとわかってはいるのだ。それでも、考えずにはいられない。私がレイ家の人間でなければ、セレスにあんな魔力がなければ、私たちが結婚せずにいれば、と」
「父上」
 己の人生を切り刻むような言葉を、思わず遮っていた。
「本当に、すまなかった」
 力なくうなだれるランベールが、今まで高く遠い場所にいるように見えていた男が、初めて一人の――同じ一人の人間に過ぎないのだと思える。じわりと胸の奥が熱くなった。それは決して不快なものではなく、どこか穏やかな高揚感を伴っている。
「そんなことを言わないでください」
 自然と笑みが深まっていた。さっきのランベールの台詞をそのまま返す。
「俺は……自分が不幸だとは思っていません」
 本心だった。むしろ恵まれているのだろう。未熟な己を支えてくれる部下がいることも、リラの力を受け継いだ少女と出会えたことも、今こうして父に本心を話して貰えていることも。
「そうか……そう、か……」
 顔を覆ったランベールの目に、一瞬何かが光った。ジュリアンは目を瞠る。父親が泣いているところなど、見ることになるとは想像もしていなかった。
「すまんな。どうも……年のせいか、最近涙もろくていかん」
 涙を隠すように、ランベールはまた盃をあおる。
「お前も飲め」
 促されるままに空になったグラスを差し出すと、たっぷりとワインを注がれた。
「……いただきます」
 これ以上飲むべきではないという理性の判断より、ランベールと思いを共有したいという自分の欲をジュリアンは優先した。ランティスと一緒の時でさえ、こんな無茶な飲み方をしたことはない。それでも今だけは、全ての責任としがらみを忘れて、渡された想いを噛みしめていたかった。