第四話 この空はまだ落ちない

 4-4 闇にきらめくお前の光

 やっと訪れた眠りの中で、フィラは夢を見ていた。薄闇の冷たい洞窟の中を、凍えながら裸足で歩いている。足下を流れる水と冷え切った鍾乳石が体温を奪っていくのを感じながら、それでもゆっくりと重たい足を進めていた。遠くで風が鳴っている。まるで泣き叫ぶように。
 誰かを探しているのだと、意識のどこかが告げる。誰か――答えをくれる誰か。
 夢の中のはずなのに、ここがきっと風泣き山の洞穴だと確信している。どうしても知りたいことがあるのなら、風泣き山のランを訪ねろとウィンドが言ったから。だからフィラは願った。ここへ来たい、と。そこに本当に答えがあるかどうかなんてわからなくても、縋らずにいられなかった。
 冷たい。寒くて寒くてたまらない。その先に求めるものがあるのかどうかもわからないのに、震えながら歩き続ける。諦めたくない。ただその気持ちだけで足を動かしている。
 すっかり感覚のなくなってしまった足を引きずって歩き続ける内に、狭い洞窟からどこか広い空間へ出ていた。神界と交錯したときのように、周囲を緑色の燐光が満たしている。高い天井から垂れ下がる鍾乳石と奥の方から棚田のように段を作ってこちらへ広がってくるリムストーンプールがその光に照らされて、まるでこの世のものではないような不思議な光景を作り上げていた。奇妙な塔を逆さまに吊したような鍾乳石に、その下を流れる水の揺らぎがゆらゆらと模様を描いている。ひときわ大きい二本の石柱の間には、少女が一人膝を抱えて浮かんでいた。
「ラン……さん」
 そっと呼びかけた声に、少女がゆっくりと顔を上げる。フィラに視線を向けながら、その表情が痛みを堪えるように微かに歪んだ。
「封印、解けたんだね」
 少しだけ悲しそうに目を伏せて、ランはそう呟く。
「聞きたいことが……あるんです」
 リムストーンプールの段々が途切れる直前まで進み出ながら、震える声を絞り出した。
「私に、わかることなら」
 ランの視線が真っ直ぐフィラに向けられる。一つ深呼吸をして、喉を詰まらせる緊張を呑み込んだ。
「どうしたら……ジュリアンを助けることが出来るんですか?」
 その質問をたぶんランは予想していたのだろう。一つ瞬いた彼女の表情に感情の揺らぎは見当たらない。
「サーズウィアを呼ばなければ、あの子は竜化症に殺される。でもサーズウィアを呼べば、あの子はきっと消滅《ロスト》する」
 淡々と告げられた言葉はフィラの予感を確信に変えるもので、そこから生まれる重さが全身の力を奪っていくようだった。膝の力が抜けて崩れ落ちそうになるのを必死で押しとどめる。諦めたくない。それだけを思ってここまで来た。
「サーズウィアを呼んで、それでも消滅《ロスト》しないために出来ることは、可能な限り、竜化症の進行を遅らせること」
 あらゆる感情を押し殺して淡々と話し続けるランを、その瞳の奥に奇跡みたいに望む答えが見つからないかとじっと見つめる。
「それから、彼が願うこと」
「願う……?」
 一筋の希望をたぐり寄せるように尋ねた。ランの無表情がまた少しだけ苦しそうに歪む。
「そう。生き延びること。未来が欲しいと、願うこと。でもどうしたらそう思えるようになるのか、私にはわからない。私は、願わなかったから。今でも、願えずにいるから」
 悲しい言葉。何か言わなくてはと思うのに、ろくな台詞が思い浮かばない。それでも無理矢理口を開く。
「いつかしたいこと、とか……何も……?」
 ランの薄茶色の瞳が、不思議そうに瞬いてフィラを見つめた。
「……一つだけ、あったかもしれない。最後に私と旅をしてくれた人と……一緒に、帰りたかった。同じ時を過ごして、同じものを見ていたかった。その願いは叶えてはいけない願いだったけど、その気持ちだけでも、伝えれば良かった」
 そうだね、と独り言のように呟いて、ランは静かに微笑む。
「それに先に気付いていたら、もしかしたら願えたのかもしれない」
 それからランはふっと笑みを消して、真剣な表情でフィラを見据えた。
「もしもあの子が願うなら、一緒にいてあげてほしい。光の力、あの子が使うより、あなたが使う方が、少しだけ、生き延びられる可能性は高い」
 言い終えて少しだけ目を伏せたランの表情に翳った何かに、ふと肌が粟立つ。
「でももし、あの子が望まないのなら……」
 途中から覆い被さるように入れ替わった声を、フィラは予感していたのかもしれない。本能が逃げ出したいと訴えて、理性も逃げるべきだと告げるのに、感情だけがその場にフィラを引き留めた。睨み付けるようにじっと見つめるフィラの前で、ランの表情が酷薄な笑みに歪み、その衣装が霧に覆われるように黒く塗りつぶされていく。
「……そう。すべては無駄なこと。たとえ一緒に行ったとしても、お前も一緒に消えてしまうだけ」
 嘲るように、愛おしむように、魔女に姿を変えたランはフィラを見下ろして微笑んだ。
「それでも生きて欲しいと願うのですか?」
 獲物をいたぶるような愉悦に満ちた眼差しを、フィラは戦いを挑むように見つめ返す。恐怖は確かにそこにあるのに、負けたくないと、諦めたくないと胸の奥から湧き上がる感情がそれを凌駕していた。けれど怒りにも似たその感情を、魔女は慈愛に満ちた笑顔で受け流す。
「あの子は生き延びたいなんて願っていないのに?」
 狂った聖母のような残酷な慈愛をはねのけるように、フィラは全身に力を込めた。嫌だ。負けたくない。譲れない。諦めたくない。自分でも信じられないほど強い衝動が恐怖も絶望も塗りつぶしていく。
「お前の我が儘で、あの子にお前の命まで背負わせるのですか?」
 わかっている。それでも願わずにいられない。
 身体の奥から何かがせり上がってくるような感覚に、喉の奥が熱くなった。
「お前はもう知っているのでしょう。あの子はもう人であることをやめてしまった存在。たとえ世界を救う英雄になったとしても、彼は結局何者にもなれはしないのです」
「そんなこと……どうでもいい」
 抑えきれずに溢れ出した言葉が、感情の最後の障壁を押し流した。
「あの人が誰だって構わない。私の気持ちは変わらない」
 涙が頬を伝う。その熱を感じる。声が震える。それでも、どうしても。
「ジュリアンの願いがいなくなってしまうことなら、私はその願いだけは叶えて欲しくない」
 フィラの言葉を受け止めながら、魔女の姿がふっと揺らいだ。涙に歪んだ視界の中で、黒い霧が空気に溶けていくように不思議なほど鮮やかにその姿が変わっていく。
「我が儘だったとしても、それだけは嫌です」
 泣きながらそれでも視線を逸らさないフィラに微笑んだまま、黒衣の魔女の姿は銀色の髪の占い師に変わっていた。
「ならば、それを伝えてあげてください」
 ウィンドの微笑みは魔女と同じなのに、そこに込められた慈愛のいろは違う。どこかほっとしたように笑いながら、ウィンドは静かに両腕を差し伸べた。フィラをどこかへ送り出すように。
「愛するもの。それがあなたの願いなら」
 叶えたい。
 伝えても届かないかもしれない。それでも諦めたくない。
 ぎゅっと目を閉じて、ジュリアンのことを想った。
 ――帰らなきゃ。
 夢が終わる。出来ることはまだある。まだ、諦めていない。諦められない。
 伝える言葉なんて思いつかない。どうしたら届くのかなんてわからない。
 それでもただ欲しかった。
 ジュリアンと共に生きる、未来が。