第五話 愛するもの、お前の名は

 5-4 Voi che sapete

 知らない場所を探検するのは結構好きだ。ジュリアンが立ち去った後、フィラはトレーングルームをティナと一緒に探検して回っていた。
 様々な種類のトレーニングマシンが並べられた室内は、人っ子一人いないせいか天井が高すぎるせいか、ひどくがらんとして感じられる。見たこともない形をした機械の群れの間を抜けて、魔術の訓練施設へ続く奥の扉をそうっと押し開けると、そこはロッカーの並んだ部屋だった。隅の壁にはフィラには使い方のわからない器具やトレーニングウェアらしきものが並べられている。中には潜水服にしか見えないものもあるが、何か魔力を制御する装備か何かなのかもしれない。整然と整ったロッカールームの奥には、さらに奥へ続く扉があった。妙に物々しい扉の前に立つと、機械音声が立ち止まるように要求してくる。その言葉に従うと何かがフィラの魔力を走査する気配があって、それが終わると同時にドアが自動でスライドして開いた。
 扉の奥は広大な広間だった。さっきのトレーニングルームも広かったけれど、ここはそれ以上だ。四百メートルトラックが丸ごと入ってしまいそうな広さがある。中央省庁区へ来てからの魔術訓練のおかげで、フィラにも白くがらんとした空間に魔術の気配が満ちているのがわかった。何か訓練のための制御用結界やら記録用の魔術やらが設置されているのだろう。これだけ広い空間を覆ってしまえる強力な結界。聖騎士が本気で攻撃用魔術を使用しても大丈夫なように作ってあるのだろうが、どれくらいすごい技術なのか想像もつかない。手のひら大の結界魔術すら上手く構築できないフィラには、イメージすることも出来ないようなスケールの世界だった。
 それにしても広い。この施設もそうだが、光王庁とはどれだけ巨大な建造物なのだろう。下から見上げたときはそれこそ山のようにしか見えなかったけれど、中に入ってもやはりその広大さは想像を絶するものだった。余りに広いから各区画の移動は平面移動式の浮遊リフトを利用しているわけなのだが、全力疾走と同じくらいの速度で動くそのリフトでも移動距離は毎回かなりのものだ。数回しか乗ったことがないので全貌はさっぱりわからないけれど。
 ――そもそもここは光王庁のどの辺りなんだろう。
 ふと考えて愕然とした。フィラはここが何階なのかさえわかっていない。聖騎士団の本部だけでもかなりの広さがありそうだし、なんだか一人では出口までもたどり着けなさそうな気がする。そのうちジュリアンに地図を見せてもらえないか聞いてみようかとぼんやり考えていたら、ずっと足下をついてきていたティナが「みゃー」と鳴き声を上げた。
「どうしたの?」
「思ってたんだけどさ」
 ティナがそう言いながら姿勢を低くしたので、フィラは慌てて両腕を広げる。ティナはそのタイミングを計ったように身軽にジャンプして、フィラの腕の中に上手く着地した。
「なんかもう既に所帯じみてるよね、君たち」
 さっきのジュリアンとの会話のことかと思い当たったフィラは、少しだけ気まずい気分で視線を逸らす。
「ま、まあ同居してるんだし、そういう会話が増えるのは仕方ないんじゃないかな……」
「そうだけどさ。慣れるの早いっていうか、いつの間に……?」
 不満そうにこちらを見上げてくるティナに視線を戻して、フィラは微かに苦笑した。
「でも、ここに来てからもう二十日も経ってるよ」
 ティナはゆらゆらと動かしていたしっぽをぴたりと止め、視線を天井に向け、また床に落として深くため息をついた。
「……なんかちょっと人間と自分の時間の流れの差を感じたよ」
「そっか……ティナ、長生きなんだよね」
 ヒューマナイズが進んでいるということは、それだけ長生きだということだといつだったか聞いたことを思い出す。
「昔のことは覚えてないけどね」
 ティナはふと姿勢を変えて、フィラの瞳を覗き込んだ。
「あのさ、フィラ。フィラはあいつに恋をしてるの?」
「は、はあ!?」
 唐突に投げつけられた予想もしていなかった疑問に、フィラの思考はフリーズする。
「よくわかんないんだよね。恋って何? 側にいたいと思ったらそれが恋なの? 僕はフィラの側にいたいけど、それって恋じゃないよね?」
「ち、違うと思う……気はする……けど。でも、恋にもいろんな形があるし……」
 何とか答えようとしたけれど混乱は収まってくれず、何の話をしているのかわからなくなってきた。
「それはわかるんだけどさ。恋に落ちたとか、自分でわかるもの?」
「う、うん、どうだろう……」
 フィラだって、自分がいつ恋に落ちたのかなんてわからないのだ。最初の印象は最悪だったから初めて出会ったときから、ではないことは確かだと思うけれど、ではいつのなのかと考えるとよくわからない。
「いつの間にか……こうなってて……こうなってたから、それが恋なのかなあ、とか……?」
「後から考えて恋だったのかって結論づける感じ?」
「た、たぶん……」
 明らかに自信のない調子だったせいか、ティナは余り納得していなさそうな表情だった。
「ふうん。歴史の解釈みたいだね」
「れ、歴史……?」
 全く予想していなかった感想を投げつけられて、フィラの頭の中は再び真っ白になる。
「興味深い話をしているわね」
 思考を再起動する前に何の前触れもなく背後から声をかけられた。思わずぎくりと身を強張らせたフィラに、規則正しい足音が歩み寄る。
「だ、だ、だ、ダストさん!」
「久しぶりね」
 動転しながら振り向くと、声で予想していたとおり、相変わらず迫力のある美女が背後に立っていた。
「私も知りたいわ。恋とはどういうものなのか」
 表情からすると全く悪気はなさそうなのだが、その余りにも純粋な疑問にフィラは心の中で悲鳴を上げる。とてもまともに答えられる気がしない。
「化け物相手でも、恋って出来るものなの?」
 思わず言葉を失うフィラに、ダストは艶然と微笑みかけた。
「知ってるんでしょう? あの男の正体。あの時あなたは見ていたはずだわ」
「あの時……」
 ダストの微笑みは見惚れてしまうほど美しいけれど、どこか虚勢を張っているような気配を感じる。
「あなたの魔力が暴走した時よ」
「……はい」
 一瞬ためらいながらも、はっきりと頷いた。ジュリアンに聞かれたときはぼんやりとしか覚えてないと言ったけれど、本当はあの後、全部思い出していた。
「愛せるものなの? あんな……人間ですらないものを」
 ダストが訊きたいのは、きっとジュリアンのことというよりも自分自身のことだ。だからフィラは、本当に自分が思っていることを答えなければいけないのだと思った。
「わかり……ません」
 ティナを抱く腕が腕が少しだけ強張る。心配そうに見上げてくるティナの視線を感じながら、フィラは必死で言葉を探した。
「最初から最後まであの姿だったら、同じ感情になってたかは、わからない、ですし……」
 だってもしそうだったら、ジュリアンとフィラが関わることもきっとなかっただろう。違う、伝えたいことはこんな言葉じゃない。
「最初から知っていたら、もっと怖かったかって言うと、それももう、わからなくて、ただ私は……今は……」
 言おうとした言葉の恥ずかしさに、全身が熱を持ったみたいになる。夢の中で魔女に尋ねられたときには勢いで飛び出した言葉が、どうしても形にならない。これがダストの疑問に対する答えになるのかどうかも、自信が持てない。
 ダストがじっと続きを待っているのを感じる。迷いながらも他に答えが思い浮かばなくて、フィラはどうにか息を吸い込む。
「今は、ジュリアンの正体が、何であっても構わない、って……思って、ます」
 消え入るような声になってしまったけれど、何とか言い切った。
「そう」
 感情の感じられない声に、フィラは恐る恐る視線を上げる。ダストは腕を組み、眉間に皺を寄せて何か考え込んでいるようだった。
「あ、あの……?」
 怒っているように見えるその表情に、フィラはどうしたら良いかわからなくなる。
「私……」
 ぽつりと呟いた瞬間、ダストの表情からふっと力が抜けた。つくりものめいた笑みも威圧するような鋭さも捨てたダストは、どこか迷子の子どものように幼げに見える。
「ジュリアン・レイが誰かを幸せにできるとは思っていなかったの。あの男が持っている強大な魔力のためではなく、ただ……彼自身の存在によって、誰かが幸せになるなんて」
 半分独り言のように呟いてから、ダストははっと我に返ったようにフィラを見て、慌てたように笑みを浮かべた。
「ま、これから不幸にするのかもしれないけど」
 それからダストは、どこかまぶしそうにその瞳を細める。つくりもののような笑みがやわらいで、この人はこんなふうに笑うのかとフィラは目を瞬かせた。
「でも今、あなたは幸せそうに見える。少なくとも、ユリンから連れ出された時よりはね」
 もっと見ていたかったのに、ダストの笑みからはまた力が抜けて、視線も弱々しく床へと落ちる。とても強い人だと思っていたはずなのに、今のダストはどこか儚くて頼りなげだ。
「妙な感じだわ」
 ダストの言葉が、再びフィラではなくてダスト自身へ向けられたものに変わる。
「ジュリアンの力は、ある目的を果たすために与えられたもの。それ以外のために生きる道なんて、ないのかと思ってた」
 話し続ける唇の端にどこか自嘲めいた微笑が浮かぶのを、フィラは言葉を発することも出来ずにただ呆然と見つめ続けた。
「そうじゃ……ないのね」
 笑っているのに、泣きそうな表情に見える。信じているものを失ってしまった子どもが、必死で希望を探そうとしているような。
「……ダストさん」
 呼びかけてはみたものの、何と言葉を続ければ良いのかはわからなかった。
「ごめんなさい。変なことを言ったわね」
 ダストは余計な思考を振り払うように軽く頭を振ると、またいつもの――どこか人を威圧するような笑みを浮かべてみせる。
「あの男が、ちょっと羨ましく思えただけよ」
 ダストは軽く肩をすくめると、訓練場の中央へ歩き始めた。
「さて、魔術の訓練でもしていく? 暇だから付き合うわよ」
「……暇なの?」
 ティナがフィラの腕の中でうさんくさそうに目を細める。
「ええ、必要な報告は終わったから。後は結果を待つだけ」
 肩越しに振り返ったダストの表情には、もう先ほどのような憂いは見当たらない。むしろどこか楽しげにさえ見えた。
「その結果もだいたい予想がつくけどね」
「ふうん……決定的な証拠だったんだ」
「まあね」
 いったい何の話をしているのかさっぱりわからないが、ティナとダストには何か共通する前提知識があるのだろう。聖騎士団の機密情報に関わるようなことなのだろうか。そうだとしたら、何の話かと尋ねてはいけないのかもしれない。すごく、気になるけれど。
 フィラが困惑しているのを見て、ダストはうっすらと微笑んだ。
「後でジュリアンから聞くと良いわ。愚痴になるかもしれないけど」
 何の話だか聞いてみたいけれど聞いて良いのかわからないというフィラの気持ちは、どうやらバレバレだったらしい。
「むしろ聞いてあげてって言った方が良いのかしら?」
 わざとらしく小首を傾げたダストの笑顔に何か不穏な気配が混ざった気がして、フィラは思わずついていこうとしていた足を止めてしまった。
「……やっぱり羨ましいわね」
 ぼそりと付け加えられた台詞には、やっぱりどこか不穏な気配が潜んでいる気がする。そこで羨ましがられても反応に困る、と思いながら、フィラはダストの後を追いかけた。