第五話 愛するもの、お前の名は

 5-6 午後の紅茶とアップルパイ

 それからしばらく、ジュリアンは本当に多忙だった。早朝に呼び出されて出て行ったり、夕食に戻ってきてもまたすぐに出て行って戻るのは深夜だったり、そもそも帰ってこられなかったり、ちゃんと身体を休める暇があるのかと心配になるほどだった。それでもティナの話によれば光王庁中の機密情報を扱っている部署が現在二四時間体制で動いているらしいので、まだ帰ってこられるだけマシなのかもしれない。
 フィラの方でも廊下を歩いていたらモニカに「死ぬー!」と叫びながら抱きつかれたり、ゾンビのような足取りで「甘いもの……甘いもの……合成じゃなければ肉でもいい……」と呟きながら給湯室に消えていくエセルを見かけたり、会釈もそこそこに鬼のような形相で廊下を駆け抜けていくフェイルとすれ違ったりしたので、他のところも同じような状況なのだろうと予想はしていた。邪魔にならないように出来るだけひっそりと行動していたので雰囲気から察しただけだが、聖騎士団本部に詰めている他の僧兵たちの動きも忙しない。
 セレスティーヌの話によるとランベールももう丸一週間帰ってきていないそうだ。ジェラルド以外にもフォルシウス側の人材が数十人単位で処分されたので、まともな引き継ぎなど望むべくもなく、仕事の振り分けだけで汲々としているらしい。
 恐ろしいのは、それが全くニュースになっていないことだった。ジェラルド・フォルシウスが病に倒れて公職を辞したことは報道されているものの、その後任はフォルシウス家から出たことになっており、停戦交渉に関しては進捗状況すら情報が出ていない。
 光王庁の上層部とそうでない者、光王庁の外の者……それぞれ情報が分断されているのを感じる。ずっと「知らない」側にいたフィラとしては、知らせるわけにいかない理由がわかっていても複雑な気分だった。
 それでも日々の勉強や訓練に明け暮れたり、フェイルに頼まれるままに事務室に夕食や軽食を差し入れたりしているうちにあっという間に時は過ぎ、二週間経った頃にはエセルとモニカの目の下の隈も薄くなってきていた。

「ああ、本当に美味しい、これ」
 光王庁の他の部屋と同じく真っ白だが、職員の私物らしい小物や棚に並べられた食器類のおかげで少しくつろいだ雰囲気のある休憩室で、モニカがしみじみとため息をついた。
「染み渡りますね……」
 エセルとモニカのリクエストで差し入れにアップルパイを持ってきたフィラは、そのまま捕まって休憩室でお茶会に付き合わされているところだ。昨日までは差し入れを持っていっても事務室でモニターを睨み付けながら片手で食べるような有様だったので、仕事を休んでお茶を飲んだりお菓子を食べたりする時間ができたのは、いろいろと片付いた証拠なのだろう。
「ああ、フィラさんでしたらこちらにいらしてますよ」
 廊下から給湯室へ行っていたはずのフェイルの声が聞こえる。自分の名前に反応したフィラが入り口の方を振り向くと、疲れ切った表情のジュリアンが顔を出したところだった。今朝送り出したときよりもずいぶん消耗しているように見える。ジェラルドの失脚の余波でいろいろな事務仕事が増大していることはわかっていたのだが、そういう疲労というよりは何かにうんざりしているようだった。
「……奴が来る」
 全く何も取り繕っていない口調と表情に、エセルとモニカと事務室に入ってこようとしたフェイルがそれぞれぎょっとしてジュリアンを凝視する。
「えっと、どなたですか?」
 エセルとモニカから何か質問があるにしてもジュリアンが立ち去った後だろうと判断したフィラは、とりあえず会話を前に進めることにした。
「フランシスだ。夕食を食べに押しかけると予告があった」
「ああ……なるほど」
 ジュリアンがうんざりしている理由が腑に落ちて、フィラは思わず脱力する。もっと厄介なことが起こったのかと思ったが、フランシスが訪ねてくるならお礼を言いそびれているフィラにとっては渡りに船だ。ジュリアンもたぶん、言うほど嫌がってはいないだろう。
「何時頃になりますかね?」
「……七時過ぎくらいだろうな」
 夕食にするのを躊躇われるほど遅くなることも覚悟していたので、ごく常識的な時間帯にほっとする。
「わかりました。じゃあ、夕食多めに作っておきますね」
「すまない。……逃げても良いぞ」
「い、いえ、大丈夫です」
 むしろお礼は言っておきたいから、会えるなら会いたい、とは思うのだ。確かに何を言われるのか予想がつかなくて怖くはあるけれど。
「フランシスが来るより前には戻る。……それ、少しもらっても良いか」
 ふと背後に流れたジュリアンの視線を辿って、「それ」がアップルパイのことだと気付いたフィラは慌てて頷く。
「あ、はい、もちろんです」
 気がつけばいつの間にかフェイルもテーブルについて食べ始めていた。上司そっちのけで糖分摂取に走っている辺り、フェイルもかなり疲れているのかもしれない。
「ありがとう」
 空いていた皿に一切れ載せている間にジュリアンが入り口近くの席に座ったので、フィラはフォークと一緒に手渡して自分も斜め向かいに座る。相変わらず優雅な仕草で食べ始めたジュリアンは、モニカとエセルとフェイルが一心に食べているふりをしつつ凝視しているのを礼儀正しく無視していた。ものすごく何か言いたいのを我慢している空気の中で、全員が黙々と食べ続け、時折紅茶を口にする。
「美味しかった」
 結局誰も口を開かないまま、取り分けられたアップルパイは消滅した。
「じゃあ、さっきの件、よろしく頼む」
「はい、了解です。あ、お皿はそのままで良いですよ。あとでまとめて洗っておきます」
 返事を聞きながら、ジュリアンはふと眉根を寄せる。
「……何だか仕事みたいだな」
「えっ」
 今の回答はどこかまずかっただろうかとすごい勢いで考えるフィラに、ジュリアンは深々とため息をついた。
「もう少し、まともな頼み方を調べてくる」
「そ、そっち!? いやっ、大丈夫ですよ!?」
 慌てふためいて答える視界の隅で、エセルの唇がものすごく微妙な感じに歪んで震えているのが見えて、フィラはさらに動揺する。
「俺が嫌なんだよ。十四歳までのつけを払っている気分だな」
 本当に嫌そうに言い放ったジュリアンは、フェイルですら唖然としているのには頓着せずに立ち上がった。どういう意味だろうかとフィラが考えている間にジュリアンは椅子を直し、「邪魔して悪かった」と三人に告げて去って行く。ジュリアンが部屋を出て行くまで、全員がその一挙手一投足を見守った。
 ジュリアンの姿が消えて扉が閉まった後も、口を開くタイミングを計っているような沈黙がしばらく続く。
「えっと……」
「誰!?」
 誰も口を開かないのでフィラがおずおずと口火を切ったところで、勢いよくモニカが立ち上がった。
「私の知ってる団長と違う! ……いや、片鱗はあったけど!」
「ていうか、団長、あれが素?」
 半分呆然とした表情で、エセルもフィラに問いかける。
「えっと、でも見たことありますよね?」
 確かに仕事中はあんな話し方はしない、というのはわかるけれど、今まで何度か個人的な話をしているところは見られていた、気がする。
「いや、そうなんだけどさ。第一声で『奴が来る』って」
「フィラさんの前では印象変わるねって話はしてたけど、さすがにそういうこと言うとは思ってなかったよね」
 口々に言い合うモニカとエセルを見比べながら、フィラはフィラでどこか新鮮な気分を味わっていた。仕事をしていないところを見慣れてしまったフィラには、部下であるモニカやエセルたちから見た印象はなかなか知ることが出来ないジュリアンの一面だ。
「やーでも安心した。ああいう普通の感情表現もするんだね〜。あいつキラーイみたいな?」
「あれくらいが年相応じゃない?」
「だよねえ。まだ二十一歳だし。若いな……」
 すっかり井戸端会議モードに突入した二人に、まだ十六歳のフィラは口を挟めない。代わりに割って入ったのはフェイルだった。
「私から見ればあなた方二人の方が精神的にはよほど子どもでございますよ」
「すいません調子に乗りました!」
 即座に謝るモニカに、フェイルはどこか人の悪そうな笑みを浮かべてみせる。
「口の堅さと仕事の速さと正確さは評価しておりますがね」
「あ、ありがとうございまーす……」
 エセルの声と表情は何故か恐怖に引きつっているようだった。
「え、えっと、ところでなんでフェイルさんまでびっくりしてたんですか?」
 気を取り直したモニカが、必死の形相でその場の空気を変えようとフェイルに問いかける。フェイルは笑顔を引っ込め、考え込むように視線を落とした。
「私も団長が――あのように些細な感情を表に出しているところはほとんど見たことがございませんでしたので」
 つと顔を上げたフェイルは、真っ直ぐにフィラを見る。不意に増した緊張感に、フィラは思わず背筋を伸ばした。
「団長の魔力が暴走した場合どうなるかは、以前フィラさんもご覧になったとおりです。あのような暴走を防ぐため、団長がかつて感情抑制のためのチップを脳内に埋め込まれていたことはご存知ですか」
 フェイルが全身で放つ雰囲気から、本気で答えなければならない質問だとわかった。
「はい。フランシスさんから聞いています」
「左様でございますか……団長からは?」
 ハラハラと成り行きを見守っているモニカとエセルの視線を感じながら、フィラは考え込む。
「いえ、まだその話は……」
 フランシスからはっきり聞いた後に、わざわざ確認するようなっことはしていなかった。それまでジュリアンの過去についての話を聞くたびに感じていた違和感の理由がわかって、それで納得してしまったせいだ。
「聞いてみようとは思わなかったのですか?」
「い、いえ。あの、忘れてたわけではないんですけど、意識してなくて……」
 人の情を理解しない、とジュリアンのことを評していたのは魔女だった。ジュリアンもそれを事実として受け入れている様子だったのが気になっていたけれど、気になったのは「人の情を理解しない」という評価がフィラの認識と一致しなかったからだ。フィラにとってジュリアンが感情を抑制されていたという情報は、全く実情を表していないその評価がどこから来たのかを示すものに過ぎなかった。
「あの、その感情抑制のためのチップって、感情を消し去ってしまうものではなかったんですよね?」
 先代団長のイメージはフィラの中にはぼんやりとしかないけれど、そういうことをしそうな人だったとはどうしても思えない。
「その通りでございます。周囲の思惑はどうあれ、少なくとも先代団長はいずれはそれを外すつもりでつけるという決断をされたのだと私は考えております」
 フェイルはそこまで話してから考え込むようにまた視線を落とす。
「そうですね……先ほどのご様子からすると、団長も意識していないようでしたから、お話ししても構わないのでしょう。機密事項とは言え、ここにいる二人も知っていることですからね」
 思わずまた姿勢を正したフィラに、フェイルは微かに苦笑した。
「お気軽にお聞きください。ただの思い出話でございますよ」
 気がつけばエセルとモニカも神妙な表情で話を聞く体勢になっている。フェイルは一同を見回すと、静かに話し始めた。
「当時の団長は、確かに子どもらしい感情表現とは無縁でした。しかし感情がなかったわけではございません。表情こそあまり動きませんでしたが、好き嫌いや喜怒哀楽など、お側で世話をしていればわかることもございました」
 そんなふうに言われれば、何となく想像はつく気がする。今だって表情豊かな方ではないけれど喜怒哀楽はちゃんとわかるから、きっとそれを薄めたような感じだったのだろう。
「十四歳で制御装置を外すことになったのは、結局閾値を超える――つまり暴走に繋がるような感情反応が一度も観測されなかったからです。それを根拠に、魔力を暴走させることの重大性を理解していない子どもの頃ならともかく、今ならば感情にまかせて魔力を暴走させることなどあり得ないと先代団長は判断されました」
「一度も……?」
 だとしたら、感情抑制装置に意味はなかったことになる。
「一度もです。団長が魔力を暴走させることの重大性を理解し、制御できるだけの自制心を幼い頃からお持ちだったことの証明です。一概に……人間の発育上それが良いとばかりも言い切れませんが」
 誇りと尊敬と後悔と罪悪感がない交ぜになったような、複雑な表情でフェイルは言った。
「先代団長も、自分で自分を律せるのは結構なことだが余りに自分を抑制しすぎるのもどうかと思う、人間一度は思春期も経験しておくべきだ、というようなことを仰っておりましたしね」
 自分とは真逆の性格だとジュリアンが評していた人。一度だけ嗅いだ、微かなタバコの匂い。急にこみ上げてきた感傷に、フィラは小さく息を詰める。
「なるほど。それであれだけ反対が多くても押し切ったんですね。会議録見て不思議だったんですよ」
 エセルがしみじみとため息をついて、フェイルはそれに応えるようにようやく微かな笑みを浮かべた。
「ええ、団長と近しい者ほど不安はなかったのですが、光王庁の上層部には未だに必要以上に警戒している方もおりましてね。人格を踏みにじるような発言を投げつけられることもあるのです。全く、情けない話ですが。でも今は」
 フェイルはふと言葉を切って、やり過ぎなくらい感慨深そうに三人を順に見つめた。
「団長の周りには、良き理解者が集まっていると思います。聖騎士団が壊滅した直後には考えられなかったことです。お二人にもフィラさんにも、感謝しておりますよ」
 ゆっくりと、かみしめるような口調だった。何だか妙に良い雰囲気になったところで、エセルとモニカが目を見合わせる。それから二人は同時にフェイルに向き直り、拳を握って訴え始めた。
「残業続きで弱ってるときにこの仕打ち……!」
「フェイルさんわざとですか!? わざとですね!? わざと泣かせにかかってますね!?」
 一瞬にして壊れた空気にフィラが困惑している間に、フェイルまで「おや、バレてしまいましたか」なんてことをにこやかに言い始めている。おかげで真面目な話だったのかからかわれただけなのかよくわからなくなってしまった。わかるのは、フェイルも紛れもなくジュリアンを育てた人間の一人なのだということだけだ。こういう妙な冗談の突っ込み方はランベールにはないものだから、きっとフェイルの仕込みに違いない。
 フェイルに対する見方を若干修正しつつ、フィラは三人がかしましく言い合う様を眺めていた。
「さて、そろそろ仕事に戻らなくてはなりませんね。休憩予定時間をずいぶんとオーバーしてしまいました」
「あっ、本当だ! 残業伸びちゃう!」
 切りの良いところでフェイルが両手を打ち合わせて、にわかにエセルとモニカも慌て出す。
「あの、お皿は私が片付けておきます。この後は戻って夕食の準備をするだけですから」
 余りの急加速ぶりに思わず口を出すと、モニカは勢いよく両手を合わせてフィラを拝んだ。
「申し訳ない、よろしく頼む!」
「ありがとうございます。フランシス様が来るということでいろいろと大変だとは思いますが、どうか坊ちゃまをよろしくお願いいたします」
 その隣で深々と頭を下げるフェイルにどう答えたものかと目を瞬かせていると、エセルがものすごく同情に満ちた瞳で肩を叩いてくる。
「まあフランシス様だから……がんば」
「仕方ないよね、フランシスさん他に友だちいなさそうだし」
 相変わらず、この面々の中でのフランシスの評価は酷いものだった。