第七話 懐かしき愛の歌

 7-1 Summer Song

 しばらく平穏な日々が続いていた。ジュリアンは相変わらず忙しそうだったが、三食戻ってきて食べ、夜は読書や研究に時間を割くだけの余裕があるようなので、一時期よりは落ち着いてきたのだろう。
 フィラの方はといえば、家庭教師の授業と魔術の訓練に加えて、レイヴン・クロウからの拳銃の訓練と聖騎士の訓練施設に付随していたシミュレータを使った車の運転の講習を受け始めたので、以前よりもだいぶ多忙になっていた。それでもやはりジュリアンよりは忙しくないので、相変わらず家事の方はやらせてもらっている。
 二週間ほどであとは試験を受けるのみになって、夕食の後でソファで復習していたら隣にジュリアンが座った。
「悪いな、急がせて」
 車の免許を取らないかと持ちかけてきたのはジュリアンだ。この二週間で、サーズウィアを呼びに行く計画をかなり具体的に話し合ってきた。光王庁を脱出した後、各地を旅する賞金稼ぎとしてグロス・ディアへの転移ゲートがあるロサンゼルス・トランスポーテーションを目指す。足はできる限り車を使いたいから、運転技術はいざというときのためにフィラも習得しておいた方が良いというのが、二人で話し合った結論だった。
「いえ、結構楽しいですし。でもこの交通ルール、中央省庁区でしか通用しないんですね……」
 居住区を守る結界を出てしまえば、もうそこには法律の通用しない世界が広がっている。一応免許を取るのに必要だから覚えているが、旅の間にこの知識を活用する機会はなさそうだった。
「ああ。その辺りの取り締まりは光王親衛隊の管轄だが、中央省庁区の外には光王親衛隊の力は及ばないからな」
 ジュリアンはふっとため息をつく。
「きりの良いところまで行ったら声をかけてくれ。話しておきたいことがある」
「あ、はい。わかりました」
 頷いたものの、話が気になって集中できそうになかったので、フィラはちょうど読んでいたページが終わったところで教本を閉じた。
「えっと、お話って?」
 隣で積層モニターを見ながら何か作業をしていたジュリアンが顔を上げる。この時間のジュリアンはいつも眼鏡だ。レンズの向こうから穏やかな瞳がフィラを見つめて、ふっと愛おしそうに微笑んだ。
「な、何ですか?」
 不意打ちの甘い空気には未だに慣れることが出来ない。何となくこれでも手加減されている気はするのだが、だからと言ってまともな反応が返せるわけもない。
「いや。来月の話なんだが」
 ジュリアンはあっさり甘い雰囲気を引っ込めて、眼鏡を外してローテーブルの上に置いた。
「僧兵たちのための慰問コンサートが開かれる」
「慰問コンサート、ですか?」
 レンズ越しではなくなったジュリアンの瞳を見つめ返しながら、フィラは首を傾げる。
「ああ。レイ家の主催なんだが、出演する予定だった歌い手が出られなくなって、急遽母が歌うことになった」
「お母様が……それは楽しみですね」
 もうずいぶん人前では歌っていないと言っていたが、一緒に住んでいた頃に聞いたセレスティーヌの歌声はどこにも力が入っていない透き通るような声で、聴いていてとても心地が良かった。
「……聴かせてやりたいのは山々なんだが」
 ジュリアンが複雑そうに眉根を寄せて呟く。
「あ、そうか。私が人前に出られないんでしたね」
「それもあるが、これは陽動のようなものだ」
 陽動、という言葉にフィラは姿勢を正した。
「普段はないことだが、歌い手の格の問題もあって、慰問コンサートには光王と、光の巫女としてアースリーゼも臨席することになった。そのため、光王親衛隊の主力はコンサートの警備に割かれ、その間光王庁全体の警備は一部聖騎士団に任されることになる」
 つまり、チャンスだということだ。
 サーズウィアを呼びに行くためには、ジュリアンは持ち出しが禁じられている神器を光王庁から奪って逃げなくてはならない。聖騎士が管理しているのはレーファレスが宿っている雷の神器、フィーネの器であった水の神器、フィラの中にある光の神器、そして聖騎士団がユリンに飛ばされる前に極秘裏に手に入れていた炎の神器だ。もう一つ、リラ教会で管理している地の神器は、聖騎士団に力の強い神器が集まることを警戒してか、今はほとんど聖騎士が接触できない形で光王親衛隊に守護が任されていた。サーズウィアの成功率を考えて、地の神器の力も手に入れられないかと、ジュリアンは光王親衛隊を出し抜く機会を窺っていたのだが、絶好のチャンスが訪れたことになるのだろう。
 とはいえ、地の神器を奪った上で光の巫女であるフィラも連れ出すのは、かなり難しい仕事だ。ジュリアンの狙いが明らかになった時点で、光王親衛隊は神器と巫女を守るために動くだろう。
「地の神器を奪うと同時に、お前にも脱出してもらう必要がある」
 緊張で喉がからからになるのを感じながら、フィラはどうにか「脱出経路は?」という質問をひねり出した。
「リサに用意させている」
 ジュリアンは穏やかに微笑して、緊張しきったフィラの髪を撫でる。安心させようとしてくれているのだとわかって、ほっとしながら少し情けない気分になった。そのままゆっくりと引き寄せられて、包み込まれるように抱きしめられる。
「お前にしてもらいたいことは――」
 耳元で囁かれる、落ち着いた言葉。体温を通さない団服の少しだけ冷たい感触、背中を撫でる手のひらの優しさ。当たり前にそれが与えられる生活に、慣れてしまっていたのだと思う。だからそこを抜け出して、前に進まなければならないのが怖い。
 ぎゅっと団服の袖を握りしめて、大丈夫だと自分に言い聞かせた。ずっと今のままではいられないということはわかりきっている。この幸せな日々を本物にしたいのなら、動き出すしかないのだ。
「――以上だ。何か質問は?」
 説明を終えた後のわざとおどけたような調子の言葉に、フィラはわかりました、と声にならない声で答えた。この作戦でフィラが果たす役割はちゃんとタイミング良く光王庁を抜け出すことだけだ。他のことは全て任せてしまうことになるけれど、それはもうジュリアンを信じるしかない。ジュリアンがフィラのことを信じて、連れて行くと決めてくれたように。
 少しだけ身体を離して、ジュリアンの目を見上げた。その瞳の中に不安の影は見えない。
 ユリンで見たよく晴れた冬の空を思わせるその瞳に、ふと引き込まれるような心地になる。誘われるように、フィラは初めて自分の方から目を閉じた。目を閉じる寸前に見えたジュリアンの瞳の奥には、フィラと同じ温度の感情が宿っているようだった。

 具体的な日付が出てきたことで、いろいろな訓練にもますます身が入るようになった。運転免許は一発で取ることが出来たので、あとは魔術と拳銃の訓練だ。エステルとの生活がほぼ旅ばかりだったから旅暮らしには慣れているが、さすがに天魔がうろつくような場所は避けていたので、どんな自衛手段が必要になるのかは学ばなければならない。拳銃はさほど役には立たないとわかっているから、基本的にはフィラが出来るのは戦闘に巻き込まれないようにすることと、いざというときには全力で逃げることだ。そのために一番役立ちそうなのは、やはり転移の魔術だった。ただ、これはどんなに訓練を重ねてもなかなか発動の精度が上がらない。ジュリアンが発動よりも転移先の指定の精度を上げられるように、魔術式で指定する方法ととっさにそれが出来るようになるイメージ訓練の方法を教えてくれたので、それを魔力制御の訓練の合間にするようにしているくらいだ。
 フィラに魔術の訓練をつけてくれているセレスティーヌは、慰問コンサートの打ち合わせで時折家を留守にするようになった。そのために時間がずれることも多いが、できるだけ指導の時間は確保してくれている。通信端末越しにはサーズウィアの話題は出せないが、セレスティーヌはこれが陽動のためだと知っているようだった。
「ジュリアンのためにも、良いステージにしたいと思っているのよ」
 ほんの少しだけ憂いの滲む笑顔で、セレスティーヌはそう言った。
「休憩用のエリアなら、スピーカーから流してもらえることになっているから、あの子の耳にも届くと思うの。フィラにも出来れば聴いてもらえればと思うんだけど」
「ランティスさんがなんとかしてくれるそうなので、ここからでも聴けると思います」
 ジュリアンが呆れ返っているのも気にせず、妙に張り切っていろいろとセッティングの下調べをして行ったランティスのことを思い出してフィラは微笑む。
「そう。あの子、良い子よね。昨日打ち合わせの時に聖騎士団代表で来てたんだけど、帰り際に少し話をしたの」
 ランティスが子ども扱い? と一瞬疑問に思いかけたが、よく考えてみたらランティスとセレスティーヌは親子ほど年が離れているのだった。
「ジュリアンのことも少し話してくれたのよ。この間カイ君やアラン君と一緒に飲みに行ったんですってね。酔っ払ってなかった?」
「ちょっとだけ」
 内緒話をするように声を潜めて、フィラはセレスティーヌと笑い合う。
「翌日も仕事だったから、控えめにしたみたいですけどね。でも、楽しかったみたいです」
「良い友だちに恵まれているのね」
 セレスティーヌは嬉しそうに目を細めて頷いた。
「そうだわ、フィラ。まだほとんど冬服しか持ってなかったでしょう? そろそろ夏服が必要になってくる頃じゃないかと思って選んじゃったの。明日辺り送っても良いかしら?」
「え、ええっ!? でも……」
 今フィラが持っている服は、確かに全部レイ家にお世話になっているときにセレスティーヌが選んでくれたものだ。その後は特に買い足したりはしていないが、必要になったら自分で購入するつもりだった。
「ごめんなさい。相談してから買うつもりだったんだけど、選んでたら楽しくなっちゃって」
 照れたように可愛らしく笑うセレスティーヌにそれは駄目ですなんて言えるわけがない。ただ、確かに何も訊かずに先に買ってしまうのは、いつものセレスティーヌらしくない気がする。
「フィラにすごく似合いそうなコーディネートがあったの。そうだわ、慰問コンサートの後、良かったら一緒にお食事に行きましょう。その時ぜひ着てきてくれないかしら」
 そこまで聞いて、腑に落ちた。セレスティーヌはコンサートの日の計画を知っている。一緒に夕食になんて、行けるわけがないということも、当然理解しているはずだ。それなのにこの台詞が出てくるということは――
「……わかりました」
 元女優のセレスティーヌほど自然な演技は出来なかったけれど、フィラはどうにか笑顔で頷いた。
「一ヶ月ぶりくらいになりますよね。楽しみです」

 そして翌日届いた夏服は、いつものセレスティーヌらしい可愛いけれど上品なデザインだった。上着と組み合わせれば春でも着られるものが多い。セレスティーヌおすすめのコーディネートもちゃんと手紙付きでバレッタから靴まで一式揃えてあって、出かけるときに着たくなるような気合いの入った感じだった。落ち着いた色合いで少しだけ大人っぽい雰囲気だから、きっとフィアにも似合うだろう。
 ――そう。これはフィラとフィアが入れ替わるために用意されたものだ。
 フィアが今どこで何をしているのか、フィラは知らない。万が一のことを考えて、詳細は光王庁脱出後に、フィア本人ではなくジュリアンから教えてもらえることになっていた。フィアはフィラの身代わりとして光王庁へ戻り、追跡する光王親衛隊や聖騎士を攪乱する役目を果たすことになっているから、たぶん会えたとしてもゆっくり話している暇はない。
 そんな予定を思い出しながら、届いた服をクローゼットにしまっていく。ここから持ち出せるものは何もない。この服も、脱出した後どこかで足がつかないように処分することになるのだろう。そう考えると少しだけ感傷的な気分になるけれど、フィラは小さく微笑んでその気持ちを追い払った。
 着の身着のままで中央省庁区に連れて来られたのが半年前。その前も身一つでユリンに来たのだし、それ以前だってほとんど荷物も持たずに各地を放浪する生活を送っていた。大丈夫。どこにだって行ける。
 ジュリアンと、一緒なら。