第四話 イルキスの樹

 4-2 樹の民

 近づくにつれて、大樹の周囲に森が見え始めた。森の木々も決して樹高が低いわけではなさそうなのに、イルキスの樹が大きすぎてまるで下生えの芝生のように見える。少しマシになったとはいえ、まだ荒れた道をゆっくりと走りながら、ジュリアンはフィラが聞きたがるのに答えて説明を続けてくれた。
 風霊戦争時代にユリンの近くにもあった小さなイルキスの樹が、当時神々の攻撃の標的となっていたユリンの近くではそこに住む人々を守りきれないと知って『種』を与えたこと。その種を携えた人々がユリンのはるか東へ向かい、その種を植えた場所を中心として今の中央省庁区の前身となる集落ができたこと。その小さな樹の魔力を人々が利用し尽くして枯れ落ちようとしていたとき、現れたリラが祝福を与えてイルキスに命を取り戻し、さらにいくつかの種を実らせて各地に植樹させたこと。その樹の多くは魔力を使い尽くして枯れ落ちてしまったけれど、その間に人々は天魔や荒神に対抗する結界技術と聖騎士団のような組織力を手に入れたこと。
「あそこにある樹は、結界の維持以外のことに樹の魔力を利用することを禁じてきたために、枯れ落ちずに残っているのだろう」
 風霊戦争で世界を滅ぼした力――魔術や科学を使って復興を遂げた、中央省庁区やリラ教会の支配地とは違って、ここに住む人々はかつての『楽園』のような生活を自ら選んで営んでいる。電気も水道もなく、車も使わず、イルキスの樹の恵みだけを頼りに自給自足で生きている人々。商人すら滅多に訪れない孤立した地域。
 それでも外部の人間を拒絶しているわけではないらしい。外貨が完全に不要というわけでもないので、お金を払って車を預け、レプカを代わりに借りることは可能だとジュリアンは説明した。
「あそこを過ぎたら……」
 もう、そこは人の住む土地ではない。わかっていたことだけれど、改めて考えると背筋が寒くなった。
「次の目的地はロサンゼルス・トランスポーテーションだ。そこまでは徒歩だと七日ほどか」
 まだ先は長いな、と、ジュリアンは小さく苦笑する。
「一人だったらと思うとぞっとする。お前が一緒に来てくれて助かった」
 不意打ちで告げられて、フィラはぎょっと目を見開きながらジュリアンを見た。
「本気で言っているんだが」
 それを疑われたと思ったのか、ジュリアンは気まずそうに眉根を寄せる。
「あ、いや、別に疑っているわけでは。あの、ありがとうございます……」
 またか、と言いたげなティナのため息をBGMに、フィラは赤面しながらうつむいた。一応出来る限りのことはしているつもりだったけれど、どうしても足手まといになっているのではという疑念が晴れなかったので、そう言ってもらえると気持ちが浮き立つようだった。

 空が薄暗くなり始めた頃、ようやく二人は森の入り口についた。森に入ってしまうと、イルキスの樹は他の木々の陰に隠れて見えなくなってしまう。人口の光は天魔を呼び寄せるので、今までは昼間しか移動していなかったのだけれど、鬱蒼とした森では昼夜にかかわらずヘッドライトをつけなければならない。昨夜のことを思い出すとまた不安が押し寄せてくるけれど、この森はイルキスの加護を受けているから天魔の気配はないというジュリアンの言葉が救いだった。
 馬車の轍が作った細い獣道をゆっくりと進み、やがて外部から来る商人用だろう小さな駐車場に出る。ほとんど使われた形跡はないが、きちんと草刈りなどの手入れはされているようだ。そこに車を止めて、バックパックに残りの食料と水、最低限の衣料を詰め込んで背負った。そしてその先へ続くさらに細い道を歩いていく。道の先は木々に遮られて見えなかったけれど、どこかユリンの周囲の森に似た空気を感じて、フィラは少しだけ気分が高揚するのを感じた。
 それから十五分ほど歩いたところで、ふとさざめくような人の声が聞こえてきた。
「誰かいる……みたいですね」
「ああ。それもかなりの人数だな」
「何かあったんでしょうか」
 ジュリアンが立ち止まって、周囲の気配と魔力分布を探る。
「特に異変は感じられないが……」
 訝しげな表情で道の先を見つめるジュリアンの肩で、ティナも落ち着かなげに身じろぎした。
「敵意があるわけでもなさそうだ。何か集会でもしているのか……とにかく行ってみるか」
 踏み固められた道をゆっくりと進んでいくと、やがて徐々に視界が明るくなってくる。どうやら木立の向こうで明かりが灯っているようだった。夕闇は森の中にもどんどん忍び込んできているのに、まるでそれを追い払おうとでもいうように明かりはどんどん強くなっていく。近づいてきているだけでなく、明かりの数そのものが増えているみたいだ。
 やがて密集していた木々がまばらになり、道の先が見えてきた。道の先の広場に集まっているのは、老若男女、様々な年齢と姿の人々だ。子どもも大人も大きなスズランのような形のランタンを手に、好奇と期待のまなざしでこちらを見つめている。彼らの後ろに聳える木質の壁はイルキスの樹の根だろう。あまりに巨大なので、一本の根すら一眸の内に収めることができない。
「本当にいらっしゃったわ」
「巫女様の言ったとおりだ」
 訛りの強いざわめきから、どうにかそれだけは聞き取れた。歓声こそ上がらないけれど、見つめる視線や向けられる笑顔から、なぜかものすごく歓迎されている気配を感じる。半ばたじろぎながら二人が広場の中央へ歩を進めると、わっと周りを取り囲まれた。
「ようこそいらっしゃいました!」
「お待ちしておりました!」
 口々に投げかけられるのは、やはり心からの歓迎の言葉だ。ジュリアンに聞いていた話から、拒絶されないまでも歓迎はされないのではないかと思っていたので、あまりの歓待ぶりに戸惑ってしまう。縋るようにジュリアンを見上げると、どうやら彼にとってもこの状況は想定外だったらしく困惑した表情を浮かべていた。
 どうしたら良いかわからずに立ち止まっていると、皆に遠慮するよう命じながら屈強な体躯の男が進み出てきて頭を下げる。どうやら彼が代表者らしい。
「巫女様からお迎えするようにと命がございまして、一同お二人をお待ちしておりました」
 古風な訛のある言葉で、男は慇懃にそう告げた。
「巫女……イルキスに宿る神と話せる者か」
 半分独り言のように確認したジュリアンに、男は頭を下げたまま「左様でございます」と答える。
「我らに神の祝福を取り戻してくれる方がおいでになると、皆たいそう喜んでおります。我らに用意できるものなどささやかではございますが、今宵はゆっくりと休んでいかれますよう」
 表情の見えない男をじっと見つめていたジュリアンは、話を聞き終えると少しだけ警戒した視線で周囲を見回した。しかし、二人を見つめる人々の視線にあるのは純粋な好奇心と何か――奇跡を期待するような、奇妙な高揚感だけだ。
「まずは巫女様のところへご案内いたします」
 一人だけ妙に冷静な男に導かれて、ジュリアンとフィラは広場の後ろに聳える根に刻まれた階段を上り始める。
 長い階段を上っていく間も、好奇心旺盛な子どもたちが様子をうかがうようにあちこちの枝や木の葉の陰から顔を出す。狭い通路でも幾人かの子どもと行き違った後、背後からくすくすと忍び笑いが聞こえてきたりした。
「踏みそうで怖いな」
 足下を走り抜けていった子どもに、ジュリアンがぼそりと呟く。
「子ども、苦手なんですか?」
 フィラが横顔を振り仰ぐと、ジュリアンは難しい表情で首を横に振った。
「苦手というか……あまり見たことがない」
「見たことがないって……そんなレベル!?」
 先を案内する男はささやきあう二人を振り向きもせず、ただ淡々と進んでいく。
「……だいたい想像つくだろ」
「確かに子どもと接する機会なさそうな経歴ですけど……」
 三歳で聖騎士団に引き取られた後は、大人に囲まれて育ったのだろうという予想は出来るけれど、それにしたって見たことがないというのは相当偏った人間関係だ。
「同年代の子どもだってカイやリサと訓練を始めるまで話した記憶がないくらいだしな」
「そ、そうなんですか……」
 感情をたかぶらせることがないように、もしも魔力が暴走したときに周囲が対応できるようにと、隔離されていた、という意味合いはあるのかもしれない。
「ああ、だから五歳以下の子どもなんてほとんど見た記憶がない。ユリンでは多少見かけたが……ここにも余りその年齢の子どもはいないみたいだな」
 今のジュリアンからはとても考えられないけれど、その頃の彼の生活を思うと何だか重苦しい気分になってしまって、フィラは小さく息を詰めた。

 途中で荷物を預かってもらって、そこからさらに上へ上へと登っていく。どれほど高く登ってきたのか、もう既に感覚がわからなくなっていた。梯子や吊り橋で行き来できる枝々は、場所によって木肌も葉の形も枝振りもバラバラだ。種類が違う樹が絡まり合って成長したみたいだった。中には花や実をつけている枝もあったから、それがここに住む人々の主食なのだろう。
 巫女がいると案内された場所は、大樹の幹もようやく細くなって、壁ではなく円柱に見え始めたところだった。それでも幹周りは大人が三、四十人で手をつないでも囲めないくらいの太さだ。高所恐怖症に優しくない樹の幹に杭を打ち付けて作られた螺旋階段を上り、小さな広場くらいの大きさの踊り場についたところで、ようやく案内の男は足を止めた。
「ここがイルキスの御神体を祀る場所。巫女様の御座所でございます」
 踊り場から樹の幹の中へ通じる木製の扉の前で、男は深々と頭を下げる。
「どうぞ中へ」
 そう言って扉を開く男を、ジュリアンはじっと観察しているようだった。動こうとしないその横顔を、フィラは落ち着かない気分で見上げる。
「……とにかく、話を聞いてみよう」
 どこか納得が行っていない表情のまま、ジュリアンはそう決断した。

 背の低い扉をわずかに身を屈めてくぐったジュリアンを追って、フィラも樹のうろの中へ入る。中は樹をくり抜いたまま、壁紙も床板も張っていない質素な小部屋になっていた。細かい文様の色鮮やかな織物が何枚も壁に掛けられ、部屋の中心では床を少し掘って作られた地火炉で赤々と火が燃えている。地火炉には三脚が立てられ、その上にしつらえられた壷では何か青臭い香りの薬草が煮詰められていた。
 その炉の向こうに敷かれたやはり色鮮やかな円座の上に、五十代くらいだろうか、壮年の女性が座っている。彼女の背後には、神界と交錯したときに見た緑色の燐光に似た光の滝が、天井に開いた穴から床に開いた穴へ向かって真っ直ぐに落ちていた。位置からすると、イルキスの樹の中心を貫く柱のようにも見える。その不思議な色の輝きに、フィラは思わず目を奪われた。
「ようこそおいで下さいました」
 女性が床に両手をつき、深々と頭を下げたことで、フィラははっと我に返る。
「どうぞお座り下さい」
 女性と地火炉を挟んで向かい合うような位置に置かれた円座に、二人は勧められるままゆっくりと座り込んだ。
「遠路はるばるいらっしゃったお客人、歓迎させていただきます」
 女性は普段から大勢に向けて話し慣れている者に特有の良く通る声でそう話し始める。
「あなたはイルキスの声を聞く巫女ですか?」
 何か滔々と語ろうとしたのだろう。巫女が大きく息を吸い込んだ隙を突くように、ジュリアンは少し強い調子で問いかけた。
「左様でございます」
 機先を制された巫女は、それでも落ち着いたたたずまいを崩すことなく鷹揚に頷く。
「それは今も?」
「もちろんでございます。お二人の訪れを、イルキスも喜んでおります」
 ジュリアンはちらりと、鋭い視線を女の背後の光の柱へ向けた。
「先ほど入り口で我々が神の祝福を取り戻す者だと伺いましたが、私たちはただの流れの賞金稼ぎ。そのような力は持ち合わせておりません」
 丁寧ではあるが、拒絶と警戒を露わにした言葉だ。それを予想していたのか、女はうっすらとなだめるような笑みを浮かべる。
「イルキスは人が自分ではわからぬ力も見通すのです。ご安心下さい。お二人はお心のままに、ごゆるりとこの国に滞在していただければ良いのです。それだけで我らにとっては救いとなります」
 サーズウィアのことについて何か言われると思っていたのに、巫女の言葉は何かをはぐらかすようだった。
「私たちは明日にはここを発ちます。どうぞお気遣いなく」
 ジュリアンも不審に思ったのか、警戒心を見せつけるように眉間に皺を寄せて答える。
 その後も理由のはっきりしない歓迎の宴を断り、一夜の宿だけを提供してもらうことにして、二人は用意された部屋へ案内してもらった。
 ジュリアンが警戒しているからというだけでなく、フィラにとってもどこか居心地の悪い、違和感のある会見だった。