第七話 霧の向こう

 7-2 聖都の遠景

 緩い上り坂になった石畳の道は、まばらな木立の間を抜けて北へと続いていた。街道で待ち伏せされている可能性はあったが、魔物避けの魔術が張り巡らされている分、街道を行く方がまだ安全だとジュリアンが結論づけたので、一行は用心しつつ道を歩いている。グロス・ディアには、風霊戦争以前から天魔に似た魔物が存在していたらしい。グロス・ディアでは長い間普通に魔術が使われていたから、それによって歪められた世界律から力の弱い荒神や天魔が現れることもあったのだろう。そのために街道には魔物避けの魔術が施してあるのだと、ジュリアンが道々教えてくれた。
 カルマの痕跡は、街道を行き始めてからは見当たらなかった。本調子ではなかったようだから、直接の対決は避けたのかもしれないとジュリアンは不審げな表情で言った。だとするとあのわざわざ見せつけるような破壊の痕は、恐らくカルマからジュリアンに向けたメッセージなのだろう。決着の時は近いのだと。
 隣を歩くジュリアンの厳しい表情を見上げながら、フィラはカルマが何を望んでいるのか考えていた。人類を滅ぼしたい。その目的とは違う執着が、どこかにあるような気がする。ユリンで魔女と相対したときから感じていたことだけれど、誰もいない村をわざわざジュリアンに見せるためだけに破壊していったことから、その予感は確信に変わりつつあった。
「カルマはもともとグロス・ディアで生まれた風の神だった」
 村から充分離れたところで、ジュリアンがふっと前触れもなく話し始める。もしかしたらフィラが考え込んでいたのと同じように、ジュリアンも今までずっと考えていて、そして何か結論を出したのかもしれない。
「グロス・ディアでカルマはフィウスタシアと呼ばれていた。この大陸の南東側にある、風の国ファルフェという地域で、国の守り神として広く信仰されていたらしい」
「信仰……?」
 ――あの恐ろしい魔女を?
 一瞬疑問に思ってしまったが、そうではないのだとすぐに気付いた。荒神は最初から荒神だったわけではない。だとすると、カルマももともとは穏やかな性質の神だったのかもしれない。
「風霊戦争時代、その神をおびき寄せ、捕らえるための大規模な罠として敷設されたのがユリンを中心とした『楽園』と呼ばれる保護区だった……と話したことはあったよな」
「えっと、ユリンは神様を捕らえるための拠点、だったんでしたっけ」
 捕らえられた神々は兵器として利用され、風霊戦争で暴走した風の神の器もそうやって作られたものの一つだと聞いたことを思い出して、フィラはこの話の行方がなんとなくわかってきた。
「カルマは……そのフィウスタシアという神様は、そこで捕まえられて、それで……」
 予想出来てしまうだけに、その先を口にするのをフィラは躊躇う。
「そうだ。捕らえられたフィウスタシアは、気象兵器として利用するために『研究塔』と呼ばれる施設へ移され、無理矢理契約を押しつけられて神の器に閉じ込められた。そこで何らかの事件をきっかけとしてフィウスタシアが暴走し、風の神すべてにその怒りが伝染していった結果、空は灰色の雲に覆われることになった」
 以前は機密事項として伝えることが出来なかったのだろう、ユリンで教えてくれた一般に知られている情報よりもさらに詳しい内容を、ジュリアンは淡々と話してくれた。
「その研究塔に、ランもいた」
「ラン、って……ランさんのことですか? あの、風泣き山の……?」
 少しずつ結びついていく。ランと、カルマと、そして――優しい風と共に現れる、不思議な占い師。
「ああ。彼女は『楽園』の運用に関わる研究をしていた――させられていた、と言った方が正しいのだろうが」
 ジュリアンの話に耳を傾けながら、鼓動が早くなっていくのを感じた。
「詳しいことは俺も聞いていない。ただ、彼女は風の神の暴走に責任を感じているようだった」
 ――私は、世界を滅ぼした者――
 そう名乗ったランの、泣きそうな表情を思い出す。
「俺に魔力制御の方法を教えたのも、レーファレスを俺に託したのも、そのためだったのだろう」
「レーファレスは……」
 何と尋ねたら良いかわからなくて、フィラは口ごもる。
「レーファレスの前の持ち主は、ランと行動を共にしていたことがあるらしい」
 フィラの尋ねたいことをなんとなく察してくれたのか、ジュリアンは静かに話を続けた。
「その人物はサーズウィアを呼ぶための理論を研究していた。ランはその研究に関すること以外何も話してはくれなかったが、前の持ち主が研究を始めたきっかけにはランが関係していたんじゃないかと、俺は思っている。その研究データがレーファレスの中に保存されていたから、俺はランの協力を得てリーヴェ・ルーヴが守っていた剣を手に入れた」
「その『ラン』って何者なの? 風霊戦争時代から生きてるってことは、人間じゃないんでしょ?」
 ずっと黙って話を聞いていたティナが、不審そうに疑問を挟む。
「元は人間だ」
 ジュリアンは前を見据えたまま、厳しい口調で答えた。
「詳しい理論は聞いていないが、彼女は自ら急激な竜化症を引き起こすような魔術を使い、消滅《ロスト》する代わりにフィウスタシアと融合して神になった。たぶんフィラがリサとフィーネにしたのと似たような方法をとったんだろうとは思う。ランの場合は神を自分の身体に融合させるのではなく、自分の肉体を放棄して精神だけを無理矢理フィウスタシアの構造の一部にねじ込んだようだが」
「それ……すごい無茶なんじゃ……」
 あの時フィラが扱った魔術式は決して複雑なものではなかったけれど、でもあれが出来たのは、フィーネが同意してくれたからだ。
「間違いなく無茶だな。リサとフィーネの件で、本当に可能だったのかと腑には落ちたが」
「腑に落ちたんですか……?」
「ああ。フィウスタシアも、それを望んだのだろうと思って……」
 ジュリアンはそう呟きながら憂鬱そうに目を伏せ、ティナはやっぱり不審そうに彼を見上げる。
「フィウスタシアが暴走した風の神器に封じられていたなら、人間を憎んでいたんじゃないの? それなのにランとの融合に同意するのはおかしくない?」
「それは……」
 ジュリアンは何か言いかけて、躊躇うように口ごもった。
「もしかして、ウィンドさんが関係してますか?」
 何と答えようか迷っているようなジュリアンに、フィラは思わず問いかける。
「……何か聞いたのか?」
「夢を見たんです。その夢の中で、ランさんもウィンドさんも魔女も、まるで同一人物、というか、境目がないみたいで……」
「そうか……」
 上手く説明出来たとは到底思えなかったけれど、ジュリアンは理解してくれたらしい。彼はいつの間にか少しだけ遅くなっていた歩みを、元の速さに戻しながら考え込む。
「ウィンドはお前が想像しているとおり、魔女のもう一つの人格だ。ランが割って入ったことで、二つに分かれた人格の一つ」
「ふたつに……」
「暴走するフィウスタシアと融合した後、ランはその怒りを静めようとしたらしい。しかし、それも結局上手くは行かなかった」
 ずっと緩やかな上り坂だった道が少しだけ急になって、ジュリアンの話が途切れる。それからすぐに峠に辿り着くと、その先はまたなだらかな下り坂になっていて、その先の景色が見通せた。
 ジュリアンはそこで足を止めて、道の先に広がる風景を微かに息を呑んで見つめる。フィラも一瞬そこまで聞いていた話を忘れるくらい、その景色に見入ってしまった。
 まばらな木立は、峠を境に白樺に似た幹の白い木に変わっていた。ぽつりぽつりと白い木が生えた柔らかな新緑の草原がレルファーの根元まで続き、ちょうど中間くらいの地点に白い石の都が見える。
 都の中心にあるのは、遠目に見ても巨大だとわかる神殿らしき建物だ。樹木のように根と枝を持った重厚な柱に支えられて高くそびえ立つ神殿は、空中に浮かんだいくつもの島に取り巻かれ、その高い尖塔には巨大な白い歯車が取り付けられていた。島と神殿を結ぶ橋や階段は地上にある建物と同じように白い石で出来ていて、その割に支える柱さえないようだけれど、たぶん重力がどうなっているのかとかは考えてはいけないのだろうとフィラは無理矢理自分を納得させる。
「あれが聖都クレフィア?」
「そうです」
 呆然と呟いた疑問に、すかさずノクタが答えた。
「浮遊島は風の神の襲撃には弱いですが、地上の建物ならまだ危険は少ないでしょう。地下神殿に結界が生きている場所があるはずです」
 簡潔にフィラたちに関係があることだけを述べるノクタにとっては、この風景も特段奇異なものではないのだろう。
「あれ、歯車ですかね……?」
 神殿の塔の他に、周囲の建物や浮島にも歯車は取り付けられ、やはり重力を無視した噛み合わせで空へと伸びている。まるでオルゴールの中身が空中に浮いているみたいだった。遠すぎて回っているのかどうかはよくわからなかったけれど、あれが聖都の動力を回している、のだろうか。
「なんだかエネルギー効率が悪そうだな……」
「え……?」
 ぼそりとつぶやいたジュリアンに、フィラは思わずその横顔を仰いでしまった。
「魔法陣盤のことですか?」
 ノクタが不思議そうに問いかけてくる。
「ああ……あれ、歯車じゃないのか」
 気を取り直したように歩き出しながら、ジュリアンは眉根を寄せた。
「聖都の結界や社会基盤となる魔術を維持するために作られた、魔法陣を描いた円盤です。魔竜石からの魔力を聖都の隅々まで伝達する役割と、魔術式を描くための広い平面を確保するために作られたようですね」
「なるほど。現代科学と融合する以前の魔導技術か」
 ジュリアンが何を納得しているのか、そもそも何を疑問に思っていたのかよくわからなくて、フィラは首を傾げる。
「えっと、どういうことですか?」
「本格的な魔術式の研究が始まる以前、グロス・ディアで口伝や修行などを通して伝えられていた魔術は、かなり効率が悪いものだったんだ。今なら一センチ四方のチップでもあれば収まる程度の魔術式の数百分の一か、あるいは数万分の一程度の情報量だったとしても、ヒューマナイズされていない神の力を引き出すにはあれだけの面積が必要だ」
 ジュリアンは複雑な感情の滲んだ目で行く手にそびえ立つ聖都の偉容を眺めながら、そう説明した。
「聖都クレフィアに関する記録はほとんど残っていないが、グロス・ディアでは一番魔導技術が進んでいた都市だったんだろう」
「そうですね。いろいろと制限もありましたから」
 問いかけられたと判断したのか、ノクタが淡々と相槌を打つ。
「あれだけの都市を建造出来ても、それまでの科学や工業技術を応用して魔術を開発していく諸外国に、グロス・ディアの魔導技術はあっという間に抜かれてしまったんだな……」
「仰るとおりです。グロス・ディアの魔術は全て神々との対等な契約によって成り立っていました。あの聖都すら、神々の意思を無視して作られたものではありません。それでも世界律は少しずつ歪められていた。グロス・ディアに住む人間たちは、そのことをよくわかっていました」
 やはり淡々と答えるノクタの言葉からはどんな感情も読み取れないけれど、言葉の内容自体はどこかに苛立ちや怒りがあってもおかしくないものだ。
「そのような制限のもとでグロス・ディアの人々が諸国からの圧力に対抗するためには、既に存在していた強大な力を持つ神に頼るしかなかったのです」
「だが、そのほかの国にとっては神々の意思は絶対のものではなかった」
 ノクタの後を引き取るように、ジュリアンが続けた。
「フィウスタシアを捕らえたように、グロス・ディアの神々は次々と捕らえられ、この国は力を失っていった……」
 ジュリアンは重くため息をついて、そしてすぐに顔を上げる。
「さっきの話の続きだが」
 ランとフィウスタシアの話だ。途切れてしまって、そしてその先を促すのがどこか怖かった話をジュリアンが切り出してくれたことに、フィラはほっとしながら少し申し訳なくも思った。
「ランはフィウスタシアと融合し、その意識を乗っ取るか……そこまで行かなくても怒りを静める方向に影響を与えようとした。リサとフィーネの意識は別々だったが、ランは意識まで融合させようとしたんだろう。結局、それが不可能だった、というのが、彼女が失敗した理由だ」
 後悔を抱えているようだったランのことを思い出すと、どうしても足取りが重くなる。ここが下り坂で良かったと、フィラは密かに思いながら話に耳を傾けた。
「でもさ、最初に暴走した風の神がその後も存在し続けてたら、人類はとっくに滅びてたんじゃないの?」
 聖都の偉容には特に感慨を抱かなかったらしいティナは、やはりこちらの話の方が気になるらしい。先を促すようにジュリアンに質問をぶつけてきた。
「フィウスタシアの中にある憎しみを消すことは出来なかった。だが、破壊を望まないフィウスタシアの意識――つまりウィンドとランが協力することで、破壊を望む意識を封印することには成功したようだ」
「破壊を望む意識……それが、カルマなんですね」
「そういうことだ」
 ふうん、とティナがようやく納得行ったような息をつく。
「つまり、カルマもフィウスタシアもウィンドもランも今は同一の存在ってことか。それでランと関わりのあるレーファレスが、カルマへの攻撃を躊躇ったんだ」
 理解は出来たよ、と呟きながら、ティナはリョクの背中で丸まってくつろぎ始めた。