八月 怖いものなしになれた月

2日 あれから……

 一週間がたとうとしております。
 なんだかもう、全然ダメです。
 何がダメって、そろそろ私がエレウス様付近をうろうろしていることが皆さんの語り草になり始めてるところがもうダメ。
 エレウス様も不審に思ってらっしゃることでしょう。オーラでわかります。お顔の方は最近ちっとも拝見できていませんけど(遠目に見るだけで逃げ出しちゃってますから!)。

 姫様に「噂になったらみっともないしエレウス様の迷惑にもなるしタイミングも逃しちゃったことですし……」と、それとな〜く命令の撤回を求めてみたのですが、あっさりクールに却下されました。
 ううう……やっぱりカッコイイです姫様……。でもわたくし泣きそう。

7日 まだ

 まだ粘ってます。
 エレウス様の気配を嗅ぎ分けることについては、わたくしもうプロであると言っても過言ではございません。
 でもその気配を感じて探しに行っても、いざそのお姿を目にすると逃げ出しちゃうんですね〜。
 瞳を覗きこまねばならないのだ、なんて思っただけでもう! 心臓が爆発しそうです。

12日 小さな一歩

 今日は話しかけることに成功しました!
 ……見たのはつま先だけですけどね。
 結局、「あの」とか「その」とか何度も何度も繰り返して、でもお礼は目を見て言わないとミッションコンプリートにならないのよリーニ! と思うとどうしても勇気が出なくって顔を上げられなくって、結局「ごめんなさい!」と頭を下げて逃げてきてしまいました。

 ……情けない。非情に無情に情け無い結果です!

 ええいもう! 負けない! リーニ負けません! 次こそは!
 次こそは次こそは次こそは!! がんばります!!!

14日 本当に申し訳なく……

 エレウス様って、本当は怖い方ではないのですよね。
 それはもう、本当に本当によくわかっているのです。だってここのとこずーっと、わたくしエレウス様をストーキングし続けているのですもの。

 羊さまにぶつかられた女中さんを助け起こしたり、その時女中さんが落としてしまった書類をいっしょに拾い集めてあげたり、微妙な幅のすきまにはまりこんで身動きとれなくなった羊さまを助けてあげたり、茨の茂みにうっかり迷いこんでしまった羊さまを助けてあげたり、その羊さまに絡まってしまったとげとげを黙々と取り除いてさしあげたり、羊さまにあこがれて侵入してきた城下町のイタズラ小僧をちゃんと叱ってそのあとできちんと羊さまを見せてさしあげたり、お城にご用事があってやって来た足腰の弱くなったおばあちゃんをエスコートしてさしあげたり、部下の騎士様たちに対しては厳しいのに当の騎士様たちからはものすごい勢いで慕われていたり、休み時間に騎士様たちが言う冗談にもちゃんと答えてあげてるし、遠くからでもその和やかな様子を見ていれば……。

 わかってるんです。数え上げればキリがありません。
 なのに、なのに私ったら……。
 ……わかっています。ため息をついていても仕方がありません。私、エレウス様のことを傷つけてしまったんです。
 エレウス様はただ、「リーニ」って私のことを呼び止めただけなのに……。
 わたくし、悲鳴を上げてしまったのです。ハトがまめでっぽ食らったような顔をしておいででした。その一瞬あと、とってもとっても悲しそうなお顔をされたものだから……。

 いたたまれんハリケーーーン!!!

 ええ、もちろん逃げ出しました。私って最低です……。

15日 おかしくなっちゃいました

 なんだかおかしいんです。
 エレウス様のことが頭から離れないのは……まあ、姫様からご命令を受けて以来ずっとそうなんですが、それだけじゃないんです! これはもうそんななまぬるいものではないのです!
 ここに書こうとするだけでもう、手が震えて、足も震えて、唇もわなわなとし出すんです! どうしちゃったんでしょう私! 何かの病でしょうか!?

 とにかく、とにかくですね。なんかこう、変なんです、奇妙なんです、おかしいんです!
 エレウス様のことを思い出すと、心臓のあたりが「きゅっ」となっちゃうんです。
 特に昨日の、呼び止められた時の声の調子を思い出すとですね……あああああ! だめ! ダメ、駄目、だめです!
 思い出したらもう、なんかもう、走り出さずにはおれなくなってきました! ちょっとひとっ走りしてきます!

19日 エレウス様に会えません……

 顔を合わせられないとかじゃなくて、物理的に……。避けられてます、当たり前です、自業自得です。
 なのになんで、こんなに苦しいんですかね?

24日 羊さまののっぱらで

 私があまりに落ち込んでいるものだから、ついに姫様から気分転換をしてらっしゃいとご命令が下ってしまいました。ちゃんと他で埋め合わせいたしますと約束して、羊さまの群れが放牧されているのっぱらに出て行ったんです。

 羊さまの飛び交うすきまにしゃがみこんでめそめそ泣いて、ひとしきり泣いてから羊さまのおせなに乗せていただきました。
 お城の中で乗せていただいた時よりも、ずっとずっとすばらしかった。
 羊さまの背中にあおむけになっていると、真っ青な空と真っ白な雲しか見えなくって。

 泣けました。めそめそ泣いていた時みたいに、喉の奥から絞り出すような感じじゃなくて、自然にすーっと涙が出てきたんです。

 大昔、伝説の天翔る羊さまは、天に駆け上がって、あの空を行くひつじ雲になったと伝えられています。

 ねえ、とっても壮大なお話じゃありませんか。羊さまは我関せずって顔をしながらも、そのもふもふのあたたかな愛で、今も世界中を見守ってくださってるんです。気まぐれにお空の果てに草を探しにいってしまったりしないで、今でもちゃんと、私たちの見えるところに浮かんでくださってるんです。

 それに比べて私の悩みのちっぽけなことといったら。
 こんなちいさな勇気ひとつ振り絞れなくて、羊さまのおせなに乗せていただく資格があるでしょうか。

25日 ついに成功!

 わたくし、勇気を振り絞りました!
 ついに! ついにでございます!
 ついにエレウス様にお礼を申し上げることができました!
 目の色だって確認しました。
 琥珀色! 意外と優しげで理知的な琥珀色! ふちのあたりにちょっぴり緑色が入っているのが不思議な感じです。
 もーう完璧です! 姫様にもいそいそとご報告いたしました!
 それはもう、それはもう!
 初めて姫様が一人歩きしたときの陛下(推測)のように喜んでくださいました! 姫様がこんなに喜んでくださるなんて! こんなに私のことを案じてくださってたなんて!
 リーニ感激です! もう、もう、もう! 他の言葉が思いつかないくらい感激です!!

 ことのてんまつはこうです。

 羊さまに勇気をいただいた私は、その勇気がしぼまないうちに、と思って、今日の朝一番に騎士団の宿舎に突撃をかけたのです。逃げられないように起き抜けを狙ったのですね。
「エレウス様っ!」
 宿舎から出てきたエレウス様を、寝とぼけ頭も一瞬ですっきりするような大声で呼びとめました。
「ちょっとお話が!」
「なんだろうか」
 エレウス様は逃げたりせず、ちゃんと私の前まで来てくださいました。
 が、他の騎士様たちもわらわらと集まっておいでになりました。
「こここコッココここではなんですから、ちょっとお付き合いくださいませ」
 皆さんがあまりにもにやにやしているものですから、わたくし動揺してしまってニワトリのような有様でした。
 恥ずかしくっていたたまれなくって、今すぐその場を逃げ出したいと思ってしまいました。
 でもここでエレウス様を逃がしてしまってはこの間の二の舞です。だから捕獲作戦です。
 私、エレウス様の腕を引っつかんで引っ張って、羊さまののっぱらまでずんずんとノンストップで歩いていきました。ええ、こういうのは勢いが大事ですから。

 羊さまの群れのど真ん中で、もふもふの羊さまに囲まれて、ようやく私は落ち着いて足を止めることができました。
 周り中いろんな高さで羊さまが飛び交っていますから、群れの外から私たちの姿は見えません。羊さまの鳴き声にかき消されて、お話だってきっと聞こえないはずです。
「ミス・メーメエ。話とは?」
 エレウス様は落ち着いたお声でお尋ねになりました。
「まずは、謝らせてください。先日は申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げました。ええ、まずはこっちですよね。
「なにか謝るようなことがあっただろうか」
「呼びかけられた時に、失礼な態度を」
「そんなことは気にしていない」
 嘘です。さっき、名前で呼んでくださいませんでしたもの。……なんてことは、もちろん言えませんでしたが。
 それに本題はここからです。
「エレウス様、私……ずっとお伝えしたかったことが」
「な、なんだろうか」
 私が顔を上げることができたのは、ようやくその時でした。ああなのになのに、エレウス様ったら目をそらしてるんですよ!
 ひどい! 人がせっかく勇気を振り絞ったってのに!
「こっちを見てください!」
 わたくし、思わず怒鳴りつけてしまいました。

 ……あら? もう消灯の時間みたいです。長くなり過ぎちゃいましたね。続きはまた明日。

26日 昨日の続きです

 エレウス様はとっても気まずそ〜うに私を見下ろしました。
 そこでようやく目の色確認です! 琥珀色の瞳、ばっちり見ました。まじまじと見ました。思い出せば照れちゃうくらい見ました。
 そしてその瞳を見つめながら、ふちがちょっと緑がかってるんだなあなんてことを発見しながら、ミッションコンプリートしたんです。
「先日はどうもありがとうございました。それをずっとお伝えしたかったんです」
「……は?」
 エレウス様は、それはそれは困惑しきったお顔をなさいました。
「先日、羊さまを姫様のお部屋に招待するのを手伝ってくださったじゃありませんか」
「あ……ああ」
 エレウス様はそっとため息をついて、遠いお空を見つめながら「なんだ、あれか」とつぶやかれました。

 なんだとはなんだ! この一ヶ月の私の苦悩をわかってるのか! わかっているのか!! いやむしろわかってたまるかーーー!!!

 もー、本当に、エレウス様は乙女心ってものがわかってません!
「なんだ、てっきり……」
 エレウス様は遠い目をしたままぼんやりとつぶやきました。もちろん、私が聞き逃すはずがございません。
「てっきり、なんですか?」
 エレウス様は、そこではっと我に返ったみたいでした。
 私を見下ろして、ちょっぴり意地の悪い感じで微笑まれたんです。
「……決闘でも申し込まれるのかと」

 な・ん・で・す・っ・て・!?

 何考えてるんですかこの騎士様ときたら! 可憐でか弱い花も恥じらうこの乙女をつかまえて!
 よりにもよって、決闘!?

「そんなことあるわけないじゃありませんか!」
 私の顔は怒りで真っ赤になっていたに決まってます。なのにエレウス様ったら、それはそれは朗らかに笑うんです。
「そうだな、そんなことあるわけないな」
 当たり前です!
 もう、もう、もう、本っ当に、何を考えてらっしゃるのでしょう?

 だけど、前髪をかき上げながら朗らかに笑うエレウス様は、なんと申しますか、もう怖い感じではありませんでした。
 姫様のおかげで、わたくしエレウス様恐怖症を克服できたみたいです! ありがとう姫様! 感謝感激です姫様!
 これでもう本当に、わたくし怖いものなしですね!