二月 自覚と決意の月

2日 ふたたび羊さまののっぱらで

 考えてみれば、エレウス様恐怖症を克服できなくて悩みに悩んでいた私に答えをくれたのは羊さまだったのですね。

 というわけで、久々の休日。羊さまののっぱらで一日を過ごすことに決めたんです。外は雪。うっかりすると凍死しかねない寒さですから、私も羊さまの毛で作った外套に身を包んでもっこもこ。なんだか羊さまに近付いたような気がして心も体もほこほこです。

 バスケットには大好物のレモンパイ。姫様が手ずからご用意してくださった、ホットな紅茶にホットな心。姫様、紅茶を淹れるのが超絶的に苦手なのに、私を驚かせるために早起きして奮闘してくださったんです。
 姫様の優しさ暖かさにじんわりとこみあげてくる幸せをかみしめながら、わたくしのんびりと羊さまののっぱらへ向かったのでございます。

 考えるべきことはいろいろありましたけれど、まずは頭の中をからっぽにしなくっちゃと思って、ただただぼんやりのっぱらのすみっこのベンチで紅茶をすすりながらレモンパイをちびちび食べて、遠いお空を眺めていました。
 冬毛の羊さまは相変わらずもふもふで、のどかにのんびりとのっぱらを歩き回ったり草を食んだりふわふわ浮き上がったりしてらっしゃいました。
 最近ずっといらいら走りまわってばかりだったわたくしです。こんなに心穏やかな時間を過ごすのは、ほんとにほんとに久しぶりのことでした。人なつこい羊さまがレモンパイに興味を示して体をすり寄せてきたり、風は冷たいけれど日差しはぽかぽかとあたたかだったり。

 そんなふうに頭も心もからっぽにして、ぐるぐるのだんだら模様を追い出して真っ白になって。
 そのときふっと気付いたんです。
 私、エレウス様のことが好きなんだなって。

 何を意固地になってたんでしょう。もう、ずっとずっと前から気付いてたっておかしくなかったのに。私はまた失敗を繰り返すのが怖くて、以前のみっともない自分に戻りたくなくて、認めることができなかった。

 この国に嫁ぐためになつかしの故郷を出た日のことです。姫様はお供の私にこうおっしゃいました。
 私がルーイを愛していると気付いたのは、この人となら穏やかで退屈な日常を永遠に続けたってずっと幸せでいられると思った、その瞬間だ、って。
 エレウス様のお隣にいる間中、私はずっと幸せでした。これからもエレウス様のおそばにいられるなら、私はきっとずっと幸せでいられるでしょう。

 むくむくの羊さまたちに囲まれて平和で幸せなはずなのに、それでも私は寂しくなって泣いてしまいました。今ここにエレウス様がいてくれたら……ほかには何もいらないくらいなのに、って。

 正直申しまして、これからどうしたら良いのかは今でもさっぱりわかりません。
 でも、昨日までのぐるぐるでだんだらな自分よりはずいぶんマシになれたような気がしています。

 浮上に向けて一歩前進! 完全復活に向けて明日もがんばります!
 よし、やる気出てきたぞー!! 私がんばる!

3日 スジを通す

 まず何から始めようか、とっても非常にものすごく迷ったのですが、今日はヤン様に会いに行くことにいたしました。先日お会いした時なんて、何を話したかも覚えていないような有様でしたからね。

 お昼休み、ものすんごい勢いでごはんをかっ食らって(ええ、乙女にあるまじき勢いでした。あんな姿は誰にも、姫様にだって見せられません)、最大限の速度で楽士様がお泊まりになっている棟まで走っていったんです。
 呼吸を整えてから突入する予定だったのですが、息が切れて会話もままならないうちにヤン様に見つけられてしまいました。

「やあ、リーニ。そんなに急いでどうしたの?」
「わたくし、ずっと、ヤン、様、には、あやらら、あら、あやらまなければと」
 ……びっくりするほど舌が回りませんでした。あー恥ずかしい。でもこんなことくらいで恥ずかしがっていては、今回の任務はとても達成できません。
「謝る? 僕に?」
 ヤン様はびっくりしていらっしゃいましたが、どうして私がわざわざ走ってきたのかは、きっとわかっていらっしゃったと思います。ヤン様は大人ですもの……なんとなく、そういうのは初恋のあの頃よりわかるようになった気がします。エレウス様のちょうわっかりにっくい表情リーディングで鍛えられた成果かもしれません。

 ヤン様は私をご自分がお泊まりになっている部屋のテラスへ通してくれて、紅茶まで出してくださいました。
「まず、君の話を聞かせてくれるかな」
 私の正面に座ったヤン様は、優しく和やかにそうおっしゃいました。
「謝りたいのは、以前、わたくしの故郷でお会いしたときのことなんです」
 あったかい紅茶に、私の舌もまともな回転を始めて、それからあとはちゃんとお話しすることができました。
 そう、お昼休みが終わるまでになんとかお伝えしなくてはと、わたくしがんばったんです。
 初恋に浮かれてご迷惑をおかけしてしまったことを謝って、ほかに好きなひとができたんだってお話しして、ちゃんとあの恋を終わりにしてきたのです。ヤン様は優しく……そう、妹を見守るような目で、最後までお話を聞いてくださいました。

 あのとき……私が姫様の侍女という立場もわきまえずに変な告白の仕方をしたばっかりに、ヤン様と姫様の間にあらぬ噂が立ってしまった。それがすべての始まりでした。
 なのに私は初恋に浮かれて噂に気付くこともなく、姫様のお気持ちに気付くことすらもなく、ただただヤン様のお側にいようと、そればっかり考えていたんです。

 高い身分をお持ちでないヤン様と妙な噂が立ってしまったせいで、その頃進んでいた姫様のご婚約のお話は、なかったことにされてしまいました。相手は結構大きな国の王子様だったんですけど……今思えば、正直姫様に釣り合うような殿方ではありませんでした。それがまあ……せめてもの救いと言えば救い、ですね。

 ご婚約がなかったことになった直後、本当に直後、実際ほとんど何秒の単位で直後、王子様……今の姫様のご夫君であられるところのシェリープ王国の第一王子、ルートヴィッヒ・ラム・シェリープ様が、姫様にご結婚を申し込まれました。

 でも陛下は……お断りしたんです。こんな不埒ものの娘を嫁に出すわけにはいかない、噂は聞いているはずだ、って。
「そんな噂を信じるなど馬鹿げている」と、王子様は堂々と反論なさいました。お城の大臣たちや高位の貴族が集まっている中で、全然まったく臆することなく、たった一人で姫様をかばわれたんです。
 陛下は噂の証拠として、ヤン様の周囲に最近いつも私がいることを指摘されました。姫様の侍女である私、子どもすぎてヤン様のお相手になるはずもない私が、いつも常にヤン様と一緒なのは、姫様とヤン様の仲を橋渡ししているからに違いない、って。
 自分のしてきたことの恐ろしさを、私はそのとき初めて知ったんです。
 発言権なんてないってことも忘れて、わたくし必死で訴えました。姫様は無実だ、ただ私がヤン様のことを好きで、側にいたかっただけなんだ、って。

 初恋に浮かれていた自分のことは、わたくし未だに許すことができません。本当にみっともなかったと思います。まわりがちっとも見えてなくて、ヤン様にご迷惑をかけていたのにも、姫様の名誉も心も傷つけていたのにも、全然気付いていなかった。姫様の無実も自分一人のちからではどうしたって証明できなくて、結局途中で泣き出してしまって……。

 王子様が噂の証拠をひとつひとつ否定して、姫様の名誉をご回復されるのを、私はただすみっこでめそめそ泣きながら見ていることしかできませんでした。
 すべての証拠が嘘っぱちだったり根拠がなかったりただの誤解だったりすることを証明して見せた後、王子様は改めて姫様に結婚を申し込まれたんです。姫様との婚約を破棄した王子様が、先程の話を撤回しようとしたのを遮って、その目の前で。
 陛下ももう、何もおっしゃいませんでした。邪魔立てしようなんて考えられる人が、あの場にいるはずございませんでした。だって王子様は、みんなの前で証明してみせたんです。姫様の無実と、ご自分の姫様への愛を。

 姫様は泣きそうな顔で、ただ一言「お受けします」とおっしゃいました。
 その時の王子様の笑顔を見て、私の初恋は終わったのです。あんなに強く優しい想いは、私の中にはないと思い知ったんです。心の底から打ちのめされました。今でも胸が痛みますが、あの時の私には必要な衝撃だったと思うのです。

 姫様と王子様のご婚約が成立した後、ヤン様はひっそりと、とてもたおやかでお優しそうなご令嬢と結婚されました。姫様との噂もきちんと否定されて、噂されていた間もずっとそのご令嬢と結婚を前提に交際していたと明らかにして。
 あの頃はまだ私はぐちゃぐちゃのめちゃくちゃで、あれだけ迷惑をかけておきながらヤン様のご結婚を祝福することもできなかったのですが、今日、きちんとおめでとうございますと伝えることができました。

 別れる時、ヤン様は優しく頭を撫でてくれて、今の君なら大丈夫だって保証してくださったんです。今の私なら、相手の気持ちを無視して突っ走ったり、自分の気持ちを見失って不安定になってしまったりしないって。

 ……うーん。どうなんでしょうか。前者は自分ではわからないし、後者は……非常〜にアヤシイ、うさんくせー、気がします。昨日まであからさまに、不安定でしたもんねー……。
 ……が、がんばろう。ヤン様のご期待を裏切らないためにも! 何よりも明日の私の幸せのために!
 そうです! わたくしがんばります!

5日 決意表明

 ヤン様とお話ししたあと、改めて自分の気持ちを再確認いたしました。

 ヤン様もエレウス様も、一緒にいるとすごく安心できるという点では同じなんです。でも、私はヤン様の幸せを願うことはできなかった。
 あの頃私は子ども過ぎて、ただがむしゃらに求めることしかできませんでした。いろんな人を困らせてしまったし、迷惑をかけてしまいましたし、何よりヤン様にあげられるものなんて一つもなかった。結局、自分自身でヤン様といるときの安らかな空気をぶち壊してしまってたんです。

 ……今は。
 今は、どうなのでしょうか。

 今の私は、エレウス様のお役に立てるような人間でしょうか。ただ安心させてもらうだけでなく、同じだけのものをお返しするような力があるでしょうか。

 私にはわかりません。でも、一つだけわかったことがあります。
 私が何をお返しできるのか。それは、エレウス様に見つけていただかなくてはならないことなんだって。そう、わかったんです。だってそれは、エレウス様にしかわからないものなんですもの。
 私にできるのは、エレウス様のお役に立てる可能性を少しでも広げるためにがんばること。そしてそれをちゃんと見つけてもらえるように、せいいっぱいエレウス様と向き合うことだけです。

 ですからわたくし、もう逃げません!
 がんばります!

10日 とはいうものの

 いざとなると役に立つところをいっこも見つけてもらえなかったら〜、とか、私にはエレウス様を幸せにする力なんてないのかも〜、とか、いろいろぐるぐる考えちゃってもう、だめだめです。
 こんなことではいけません。もう逃げないって決めたんですもの。
 よし、明日こそは! エレウス様といつも通りにお話しできるようにがんばります! 実践あるのみよリーニ!

11日 一歩前進?

 今日は久々に夕刻の羊さま追い出し大会に参加いたしました。エレウス様とも……最近めっきりお話しする機会がなかったせいか、ちょっとぎこちなかったですけど、のんびりお話しすることができてわたくし幸せでございます。

 夜、就寝前に姫様の髪を梳いてさしあげていたら、姫様はふと鏡の中の私を見上げておっしゃいました。
「今日はご機嫌ねリーニ。エレウスとお話しできたの?」
 さすが姫様! 鋭いです。私が浮かれていることのみならず、その理由までお見通しなんて!
「ねえリーニ? リーニは、エレウスのことをどう思っているの?」
 姫様は優しくお尋ねになりました。
「すばらしい方だと思っています。ちょっと堅物でお顔も怖いですけど……尊敬できる方ですし。何より……」
 何より、一緒にいてこんなに幸せな気持ちになれるのはエレウス様だけなんです。わたくし、エレウス様のことをお慕いしております。

 それを聞いた姫様は、聖母様のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべられました。
「リーニもこの世で一番大切な人を見つけたのね。嬉しいけれど、少し寂しいわ。私はもう、リーニの一番じゃなくなってしまうのね」
 いいえ、いいえ! 決してそんなことはありません、ありえません! あるわけないじゃありませんか!
 確かに、ある部分ではエレウス様はわたくしの一番大切な方。でもでも、他方ではやっぱり姫様が私の一番なんです。いつでもいつまでもどこまでも、変わることなどございません。姫様は私の一番。最高のご主人様、最高の憬れのひと、そしてそして、最高のお友だちです。
「ありがとうリーニ。大好きよ」
 わざわざわたくしに向き直ってそう言ってくださったときの姫様の笑顔と言ったら。わたくし、思わず姫様を抱きしめてしまいました! だって我慢できなかったんですもの! それにそれに、姫様だって抱き返してくださいましたし!

 もう、もう、もう! 思い出すだけでこのリーニ、幸せでいっぱいです、満杯です! はち切れそうです!! 部屋に戻ってからも、しばらく枕をかかえこんでベッドの上でごろごろとのたうちまわっておりました。姫様最高です! 大好きです!! 愛しています!!!
 あーもう愛がだだもれですよどうしましょう! 幸せ〜幸せ〜! いくら書いても書き足りないくらい幸せ! 姫様ありがとう! 私幸せです!

20日 出張続き

 最近、エレウス様はとってもお忙しそうです。先日の夕刻の羊さま追い出し大会以来、ちっとも姿をお見かけしないと思ったら、またまた国境付近へ出張だったのだそうで。今日帰ってきたと思ったら、明日にはまた別の方面へ視察に向かうのだともおっしゃってました。

 とってもお疲れのご様子だったので、何か欲しいものはございませんかと尋ねたところ、王子様が代わりに答えてくださいました。
「エレウスはハチミツしょうが入りの紅茶が好きだよね? 自分で淹れるとどうしてもマズイものしかできないっていつも嘆いているけど」
 おまかせください! 姫様も陛下も紅茶には一家言お持ちですから、わたくし紅茶を淹れるのは得意中の得意なんです!
 もちろん、心を込めて最高のハチミツしょうが入りの紅茶をお淹れいたしました。その甲斐あって、無事手厳しいエレウス様から「美味い」というお言葉をゲットすることに成功! 見ていた王子様もにこにことおっしゃいました。
「最高の賛辞だよ。エレウスは紅茶にはうるさいから」
 ……エレウス様よ、お前もか。
 でも、その方が腕の振るいがいがあるというものです。芸術的なまでにマズイ姫様の淹れた紅茶を絶賛するような王子様相手では、ちょっと張り合いがございませんものね。

27日 今日で一週間

 エレウス様の姿をお見かけしていません。明日には帰ってくるのだそうですが……。

 なんかこう、エレウス様がご不在だと、日々の日常に輝きが足りない気がして寂しいです。姫様におやすみのご挨拶をして部屋に戻ったあとなんか、窓辺でふっと遠くを見て面影を思い浮かべてしまったりなんぞするわけです。いやーんロマンチック〜! でもロマンチックな気分よりも苦しさが先に立ってロマンもへったくれもあったもんじゃない! 泣きはらした顔なんて美しくも何ともないですよ!
 ううう。なんか呼吸困難になりそう。こんな顔誰かに見られたら死にたくなるに決まってますから、ヘタにお外を走りまわるわけにもいかないし……。
 あー! もー! 嫌ー! こんな自分は嫌ー!

28日 どうしよう

 実家から手紙が届いたんです。
 お父様が倒れたって。

 わたくし、信じられません。あの憎まれっ子世にはばかるを地でいくお父様が……あの伝説のクソジジイ様が……。

 どうしようどうしようどうしよう。こんなこと、考えてみたこともありませんでした。お父様はいつまでもどこまでも果てしなく一直線に元気でにくたらしく長生きするものだと思いこんでいたんです。

 どうしようどうしよう。妹たちが心配です。でも、それ以上にお父様が心配です。手紙には大したことないって書いてありましたけど、でも、だけど、
 ああもう、とにかく会いたい、会いたい、会いたいんです!
 お父様の憎まれ口を直接聞いて安心したいんです。

 日記に書いたら少し落ち着いてきた気がします。まずは何をさておいても、姫様に相談しなくては、です。そうです。すべてはそれから、そこからです。