水妖の滝

「……滝壺の妖を倒して欲しいのです。お礼は何なりといたします。どうか……」
 不意に耳に飛び込んできた言葉に、ガスパールの思考は遮られた。
 声のした方へ目をやると、隣のバルコニーに二つの人影があるのに気付く。雨除けを羽織った女と、長いローブに杖を持った男だ。
 柱の陰に立っていたせいで、人が来たことに気付かなかった。幸い、向こうも同様の理由で、こちらには気付いていない様子だ。
 ガスパールは柱の陰に身を潜めたまま様子をうかがう。
 さっきの声はイサベルのものだった。
 息を詰めるガスパールの耳に、魔術師の深いため息が届く。
「姫君、勘違いなさらないでください。水の一族は決して邪悪な存在ではありません。私がここへ来たのは、彼らと戦うためではなく、彼らとの戦を避けるためです。水の一族との信頼関係を壊すことは、貴方がたの益にもなりません」
「私に……あの妖を信じろと……」
 怒りとも苛立ちともつかない感情に、イサベルの声は震えていた。
「……何か、ご事情がおありなのですか?」
 ただならぬ気配を感じ取ったのか、魔術師の態度は思いやるような調子に軟化する。
「兄が……!」
 喘ぐように叫んだ後、イサベルは高ぶった感情をなだめるように、ゆっくりと息を吸った。
「……兄は、あの妖に魅入られているのです。二年前のラディウスと同じように、兄をも失うことになってしまったら……そんなこと、とても耐えられない……! 私……私は、信じることなどできません! できるはずもない!」
 押し殺した声のまま、けれどその調子は徐々に悲鳴じみてくる。
「あの妖は、ラディウスを殺したのです!」
 なじるように、妹は告げた。何を言われたのか、一瞬、心が理解を拒絶する。
「ラディウス様は、確かこの工事の……」
 静かな魔術師の声は、降りしきる雨に掻き消された。耳の奥が脈打って、声を聞き取る邪魔をする。ガスパールは目を閉じ、無理矢理心を落ち着けて、一言も聞き漏らすまいと耳を澄ました。
「……はい。どうか、お願いいたします。ラディウスが生前それを望まなかったが故に、私たちは今まで復讐など考えぬようにしてまいりました。すべて、忘却の彼方に葬ってしまおうと……けれど……」
 イサベルの声がかすれる。泣いて、いるのかもしれない。
「これは、父の願いでもあります。私たちは兄を失いたくないのです。……どうか、受けてはいただけぬでしょうか」
 魔術師が引き受けぬことを、強く祈る。
「……わかりました。そういったご事情がおありならば、その妖は調伏せねばなりませんね」
 割って入りたいのを、拳を握り締めてこらえた。妖に魅入られた者が妖を弁護したとて、いったい誰が耳を貸すだろう。
「御安心ください。明日にも調伏してご覧にいれます。そうなれば、兄君の迷いも晴れましょう」
 魔術師はイサベルを促し、広間へと戻っていく。
 ガスパールは石柱に身体を預け、ゆっくりと息を吐いた。
 何を言い得よう。自分は何も知らないのだ。何も知らぬことには、魅入られているのと変わりはない。守るという決意すら、出来はしない。
 目を開けた。雨は相変わらず、激しく、とめどなく降り続けている。雨に煙る中庭を、それを取り囲む住み慣れた邸を眺め、空に目をやった。
 明日にも、と、魔術師は言った。
 石柱から身体を離し、広間へと戻る。幾人かの貴族と挨拶を交わし、廊下へ出、階段を下り、人目を避けながら厩舎へ行き、馬に鞍を乗せる。
 この雨の中、滝壺へ行こうとするなど正気の沙汰ではない。それでも、今夜中に決めなければならない。人か、妖か、どちらの側につくのか。そのためには、彼女と話をしなければ。

 滝へ続く道は、ほとんどが水没していた。時が経つにつれ、川は水かさを増すだろう。このまま進めば戻れなくなるかもしれない。そう考えながらも馬を走らせた。
 深く暗い森は、今は闇に全身を沈め、時折吹き抜ける風にその身をよじらせている。星も月もなく、見通しはほとんど利かない。だが、ガスパールの左を流れる川の水だけは、淡い燐光を放ち、行く先を照らしていた。
 風雨を掻き分けるように進み、ようやく滝壺へと辿り着く。
 耳を聾するほどの轟音を立てて流れ落ちる滝の前、妖はいつもの巨石の上に佇んでいた。馬の背から飛び降り、膝の半ばまでを水に洗われながら巨石の下へと駆け寄る。妖は水を掻き分ける気配を感じ取ったのか、おもむろに振り向き、哀しげな表情でガスパールを見下ろした。
「今日は精霊達が荒れ騒いでいる。そなたはここへ来るべきではなかった」
「呪い師がそなたを殺しに来た。私はそれを知らせに来たのだ」
 荒れる呼吸をどうにか整え、ガスパールは告げる。
「……そなたは我が生を望むのか」
 妖は低く呟いた。ほとばしる滝の音も吹きすさぶ風も、その静かな声を掻き消すことはない。
「何故そのようなことを聞く。望まねばこのような夜に馬を走らせるはずがないだろう」
「我は我が死を望んでいた」
 妖は巨石から舞い降り、滝壺から溢れて渦巻く水の上に降り立った。そのまま水面を歩き、ガスパールの前に立つ。その全身が、水と同じように淡い燐光を発している。
「お前が……叔父を殺したというのは、本当の事なのか」
 妖は目を伏せ、一呼吸置いてから頷いた。
「水源より水を引き、農地を潤すとはラディウスが考えた案だ。我が父はその事業を止めさせる者として我を選んだ」
 水は、ガスパールの足元を複雑に流れながら徐々に深さを増していく。ガスパールは倒れぬように片手を巨石につき、話し続ける妖を見上げる。
「ラディウスとは幼い頃より付き合いがあった。彼の乳母が我らの声を聞く者で、よくラディウスを連れてこの滝壺を訪れていたからだ。父にラディウスを殺すよう命じられて人の世へと出たとき……彼は私が水の精であることを知りながら、私を人の子と同じように受け入れてくれた。ラディウスは私に領民達がどれほど豊かな水を欲しているかを説いて聞かせた。だから私は、水の王と契約を結ぶよう勧めたのだ。水源を一つ、与えてもらうように」
 懐かしさよりも、苦痛ばかりがにじむ声だった。何故今、彼女は泣いていないのだろうかと思ってしまうほどに。
「……水の精と契約を結ぶためには代償が必要。水の王は我が父なれば、その契約で我はラディウスを手に入れることができると思った。我が父はラディウスに契約の見返りとして私を妻に迎えるよう要求した。私の望みを叶えるために。だが、ラディウスはそれを拒んだ。自分は他に愛するひとがいる。水の王の娘を妻に迎えたとて不幸にするだけだと……そう言って」
 自らを責め立てるように、妖の右の手が彼女の左腕を強く掴む。
「私はラディウスを殺した。私が殺したのだ。水の一族に連なるものとしてではなく、自らの意思で。そなたの妹から……彼を奪うために」
 悲鳴にも似た滝の音が、遠く耳の奥で響く。妖がゆらりとこちらに一歩を踏み出す。
「時はまだ我が心を充分には癒していない。私はあまりにも多くを、そなたの一族から奪ってしまった。今またそなたを奪うことは出来ぬ。同じ過ちを繰り返すことは……」
 妖の手が顔へ伸ばされ、頬を掠める。冷たい感触。よみがえる感覚は、水底の、静謐な。
 ――目眩がする。
「我が死を望まぬのであれば、人の世へと帰るがいい。そして忘れるのだ」
 妖は、そのままガスパールの額に手をかざす。
 心地よい目眩に意識を手放しかけながらも、ガスパールは必死で妖に呼びかけた。
「私は……ラディウスとは違う……」
 妖は穏やかな微笑を浮かべる。
「知っている。だが我らは魂持たぬ種族。長き時を過ごせど、生きることは叶わぬ。我とともに歩むということは、そなたもそのような存在になるということ。私はそなたの全てを奪うだろう。そなたの……名前すらも。それはそなたが思っているよりも大きく、そして重い。我はそなたの死を望まぬ。……人の世へ帰れ、ガスパール。水源については、そなたらに与えるよう私が水の王と掛け合おう。代償は既に受け取っているのだから」
 ガスパールは巨石に寄りかかり、岩肌に身体を押し付けた。硬い感触が、意識を少しだけ現実へと引き戻してくれる。
「約束を……くれないか」
 ガスパールは手を伸ばし、妖の手を取った。
「約束?」
 妖は手を振り払おうとはしない。
「いつか再び、この森のいずこかで……私と会うと」
 滝の音が、勢いを増していくのがわかる。飛沫は大きく巨石を越え、透明な宝石を撒き散らしたかのように煌き、降りそそいだ。
「見返りは?」
 それでも、妖の声は静かなまま耳へと届く。
「私は人の世に戻り、人を治める。……そなたたちと、争うことになろうとも」
 かすれた声で、ガスパールは言った。
「だが、この滝のあるこの川は決して荒れさせない。それが見返りだ」
 言い終えて見上げる。ガスパールの視線の先で、妖は一度、静かに瞳を閉じた。
「……わかった」
 妖は瞳を開け、約束しよう、と、微笑んだ。穏やかで透明な笑顔だった。いまだ痛みのにじむその笑顔を、ガスパールは深く記憶に刻み込んだ。
 いつか約束が果たされるそのときまで、忘れることがないように。

 ガスパールは確かに人の世へと戻った。彼は翌朝、自身の愛馬と共に疲れ果て、濡れそぼって荘園へと戻ってきたのである。半日眠り続けた後、彼は水妖との契約によって手に入れた水源へと父を導いた。後にその水源より引かれた上水道は、質の良い水でルシエンテスの領土を潤し、水の一族の呪いが降りかかることもなくなった。ルシエンテスの領土は栄えた。
 父亡き後、ガスパールは跡を継ぎ、その領土を良く治めた。彼の治世は長く平和であり、領地に実る作物は水の精霊の祝福を受け、毎年豊作であった。彼は良き為政者として領民に慕われ、しかしその生涯にわたって人間の女性と結ばれることなく終わった。彼の妹も独身のまま天寿を全うし、ルシエンテス家の血筋は彼の代で途絶えた。
 死後ガスパールは遺言によって森の奥に埋葬され、その墓碑がどこにあるのかは記録に残っていない。

 これについては、数年後に一人の旅人がある話を残している。
 彼は森を抜ける途中で獣に襲われ、道を逸れて森に迷った。精霊達の荒れ騒ぐ中、一夜を森の中で過ごす羽目になったのである。彼は翌朝、ルシエンテス領に憔悴しきって辿り着き、緑色の瞳をした女に助けられたと語った。彼女は滝壺ではなく、こんこんと湧き出でる泉のほとりに立っていた。泉は深く、しかし底まで見通せるほど透明で、その底には簡素な墓碑が沈んでいたのだそうである。