花の下、水なき空に

 六条《ろくじょう》糸庵院《しあんいん》の糸桜の美しさは人が恐れるほどだった。
 樹齢千年を超えると言われる枝垂れ桜の大木は、夜に訪れればその妖艶な美しさで人の魂を捕らえて喰らってしまうのだと噂されている。
 翡翠《ひすい》はそんな噂など信じる性質《たち》ではないが、初めてその花を見たとき、真昼の陽光の下でさえ魂を奪われるような心地に陥ったことは確かだった。
 その花の下で、翡翠は彼女と出会った。翡翠が『桜の君』と呼ぶ、ただ一人の女と。

 翡翠が妻を『桜の君』と呼び始めたのは、初めて顔を合わせたその日だった。
 歩狼隊《ふろうたい》の長を務めていた翡翠は、副長の方霧《かたぎり》三怜《みれい》を伴って本隊よりも一足先に第一帝都|黎京《れいきょう》に入り、歩狼隊の駐屯地となることが決まっていた六条糸庵院を訪れていた。
 長い歴史と広大な敷地を誇る糸庵院の、本来の住人である神仙道の神主たちは、田舎者揃いの歩狼隊を歓迎していない。遅々として進まない部屋の割り当てについての交渉を三怜に任せ、翡翠は前庭の様子を検分していた。
 出自にうるさい宮中の女御たちすら、『この世の奇跡』と讃える涼しげな美貌を惜しげもなく春の日差しにさらして、散歩でもしているかのようなのんびりとした歩調で歩き回る。
 所々にケヤキの若木が植えられているだけの前庭は広々と開放的だ。萌え出たばかりの若葉の明るい緑が、拝殿へ続く石畳に柔らかな影を落としている。青く霞む彼方の八神山《やがみさん》を背後に、長い歴史に飴色の艶やかさを加えた木造の拝殿がそびえ立つ。
 外洋風に短く切り落とした黒髪を、柔らかな風が撫でて通り過ぎた。仕立ての良い着物と羽織に身を包んだ翡翠は、男としては上背がある方ではなく体格も良くはない。それでも、気品と威厳を感じさせる美貌と、平民出であることを忘れさせる所作は、群衆の中にあるときでさえ、光り輝くような存在感を翡翠に与えてくれていた。相手を威圧するような迫力はなくとも自然と人の視線を惹きつけるこの容貌は、翡翠にとっては天から与えられた武器の一つだった。
 先の皇帝が奉納したという大鳥居から手水舎《ちょうずや》まで歩きながら、この場所の利用方法について考える。広さと水飲み場があることを考えると調練にちょうど良いのだが、信仰をないがしろにすれば人心は離れる。となると、ここは今まで通り神仙道の領域として扱い、歩狼隊は表に出ない方が良いだろう。
「翡翠さん」
 考えに沈んでいた翡翠は己を呼ぶ声に顔を上げた。張りのある低い声は聞き慣れた部下のものだ。声の方を見やれば、交渉という名の恫喝を取り仕切っていたはずの三怜が、妙に急いた様子で翡翠の所へやって来るところだった。
 翡翠と同門の弟弟子で、今は歩狼隊の副長に収まっている三怜は、すらりと背の高い美男子だ。きちんと櫛を入れた髪を総髪に結い、羽織袴に帯刀しているが、本来ならば帯刀を認められることはない平民出の人間だった。
「客が来ているんだが……」
 珍しく口ごもった三怜に、翡翠は首を傾げる。困惑したような三怜の反応も不可解だし、こんな所まで押しかけてくる客にも心当たりがない。
「僕に? 誰だい?」
「それが……黒瀬家の愁恕《しゅうじょ》、と名乗っている」
「ああ。僕の妻にさせられるひとだね」
 代々長老院を取り仕切ってきた名門、黒瀬家の娘。平和な時代であれば、得体の知れない戦闘集団を率いる平民出の若者などと、娶《めあわ》されるはずもない高い身分の女。
 それが愁恕という名を持つ人間について、翡翠が知っているすべてだった。
 困惑した表情のまま「中の庭で待たせている」と告げた三怜は、おそらく追い返せと命じられることを予想しているのだろう。
「わかった。行ってみるよ」
「しかし……供も連れていなかったぞ。黒瀬家の娘がそんな簡単に出歩けるものなのか?」
「あり得ないね」
 微笑みながら、翡翠は言う。自分の妻になるはずの娘に初めて興味を抱いたのはその瞬間だった。
「どうやって抜け出してきたのかな? それも聞いてくるよ」
「翡翠さん!」
 そんなに簡単に決断するなと非難を込めた三怜の呼びかけは聞こえなかったことにして、翡翠は婚約者が待っているという中の庭へ、ゆったりと歩き始めた。

 糸庵院の中庭は枯山水の石庭だ。全面に敷き詰められた白い玉砂利で描かれた地形は、美しい円錐形を誇る八神山と、そこから流れ出て志貴《しき》の国全土を潤す龍脈の流れを表しているのだという。その真白い海の中に浮島のように配された荒々しい岩と黒い飛び石が、穏やかな流水紋に変化と緊張感を与えている。聞こえるのは鎮守の森から流れてくる葉擦れの音と、時折混じる鳥の鳴き声だけだ。
 時が止まったようなその庭の中で唯一季節を感じさせるものが、黎京の人々から敬意を込めて『糸桜』と呼ばれている枝垂れ桜の巨木だった。千年も前からこの地に根付いていたと言われる古木は、爛漫と咲き誇る豪奢な枝振りを誇らしげに中庭の四方へと広げていた。桜守が丹精込めて整えたその姿は、明るい白昼の庭にあってさえ、匂い立つような色香を放っているようだった。
 その美しく咲き誇る桜の下に、彼女はいた。身に纏った桜霞の華やかな着物よりも、さらに艶《あで》やかな花のような女だった。みどりなす黒髪が、白砂と桜花の淡い色彩の中に浮き上がって見える。切れ長の瞳は黒曜石のように輝いて、つくりものじみた造形に生命の力強さを与えていた。
 娘は重たげな枝を支える添え木を不思議そうになぞり、満開の花を見上げては差し込む陽光に目を細める。物珍しそうな、しかし馴染んだものに対するような遠慮のない様子で、彼女はしげしげと四方から桜を眺めている。
 まるで初めて鏡を与えられた子どものようだ。そう思って、翡翠は笑む。姿形の美しさよりも、彼女が纏う空気の清澄さに惹かれた。
 彼女が人間でないことはすぐにわかった。幼い頃から人ならぬものを見分ける能力が翡翠にはあった。他人に向けてどこが違うのか説明することはできないが、なんとなくわかる。おそらくはこの妖艶な糸桜こそが彼女の本性なのだろう、と。
「綺麗だね」
 静かに話しかけると、桜の鬼は細く流れ落ちるような枝の間から振り向いて微笑んだ。
「お主、桜は好きか」
「もちろん。そうしていると、君はまるで桜の精みたいだね」
 微笑んだまま、鬼の瞳が翡翠の心を見通すように細められる。
「君のこと、『桜の君』って呼んでも良いかな」
「構わぬ。妾《わらわ》は桜じゃからな」
 楽しげな瞳の輝きとその答《いら》えに、翡翠は笑みを深めた。正体を見抜いた翡翠の存在を、鬼はあっさりと受け入れたのだ。
 ゆったりと歩み寄って、その隣に立つ。既に夫婦《めおと》であるかのような距離感に、しかし桜の鬼は普通の娘らしい恥じらいなど見せることなく、楽しそうな表情で翡翠を見上げた。手を延べて桜の一房を手に取ると、ようやく女の表情に仄かな色のようなものが浮かぶ。
「どうして僕に会いに来てくれたのかな?」
「我が夫となる者の顔を一目見ておきたくてのう」
 ふわりと、風に舞い踊る桜の花片のような軽やかさで女が身を翻す。
「だがもう目的は果たした。また会おう、人の子よ」
「楽しみにしてるよ」
 枝を離れて手の中に残った桜の花片の、絹のような手触りを楽しみながら、翡翠は女の振り向かない背中に微笑みかけた。
 舞い落ちる桜の花片を捕まえた子どものように、ただ純粋に嬉しかった。

 嬉しかった、と、翡翠は言う。出会ったそのときのことを話すたび、本当に嬉しそうに。けれど「君はどうだった?」と尋ねる彼に答える言葉を、桜の君は知らない。

 翡翠に嫁いでから二年が経とうとしている。
 桜の君は障子を開け放った寝室の中で闇に浮かび上がる桜を眺めながら、ぼんやりと表座敷から漏れ聞こえる喧噪に耳を澄ましていた。広大な邸の向こうから届くざわめきは遠く、桜の木々が風にささやき交わす声に掻き消されがちだ。
 春の夜空に朧に浮かび上がる月と立灯籠の仄かな光が、中庭を囲むように植えられた桜の若木の満開の花を白く照らし出していた。八神の山から運び込まれた巨石や、庭全体に敷き詰められた柔らかな苔の陰影も美しい。この邸の主人に似て、隙のない完璧な美だ。
 邸の主人――翡翠は二年前、愁恕との婚姻という条件を呑み、三十二歳という若さで宰相の地位に就いた。それ以来、田舎者、成り上がり者と見下してきた黎京の貴族たちも、この洗練された言葉と作法を身につけた美貌の青年を無視することはできなくなった。翡翠は平民出の戦闘集団の頭《かしら》から、この国の重鎮に上り詰めたのだ。しかしそんな地位を得た後も、翡翠が遠い榛京《しんきょう》から自分を慕ってついて来てくれた歩狼隊の隊員たちを軽く扱うようなことはなかった。
 今表座敷で騒いでいるのは、仲間の昇進と新入りの入隊を祝うという名目で翡翠が連れてきた歩狼隊の男たちだ。恐れを知らない若者たちの集団に一度酒が入ってしまえば、もう祝い事のあるなしなど関係はない。先ほどから途切れることなく、粗野な響きの榛京の田舎言葉と、豪快な笑い声が響き続けている。
 翡翠が彼らに慕われているだろうことは、遠くから喧噪に耳を澄ましているだけの桜の君にもよくわかった。こうしている間にも、馬鹿騒ぎの合間に翡翠を讃えて唱和する声が何度も響いている。
 宰相の私兵隊という立場を与えられている彼らの役目は、皇帝のお膝元である黎京の治安を守ることだ。ここ数年、皇帝の求心力の低下に伴って黎京の治安は悪化の一途を辿っている。翡翠が皇帝に仕える最高位である宰相の座に就いてからは、歩狼隊の力で何とか現状を維持している状態だった。
 皇帝への反逆を声高に叫ぶ者、誅殺と称して貴族の子弟を闇討ちにする者。それらを取り締まる歩狼隊の任務には当然危険が伴う。黎京には何の愛着もないはずの彼らが、翡翠に命じられたというただそれだけのことで、なぜ命をかけて戦おうと思うのか。人の営みというものは桜の君の理解を超えている。
 とりとめもなくそんなことを考えていたとき、廊下をこちらに向けて歩いてくる気配がした。足音は二人分。片方はしっかりとした足取りだが、もう一人は足下がおぼつかない様子だ。
「はしゃぎ過ぎだ、翡翠さん」
 無骨な榛京の訛りを残してなお冷静な声音は、歩狼隊副長の三怜のものだ。三怜は翡翠が榛京で剣術道場に通っていた頃からの知り合いで、翡翠にとっては弟弟子に当たると聞いている。
 冷静な声を聞くともなしに聞きながら、桜の君は祝儀を上げる前に翡翠に会わせてくれと頼んだときの三怜の顔を思い出していた。宮中でこの世の奇跡と讃えられている翡翠の容貌には及ばないものの、すらりと背の高い、知性と品性を兼ね備えた美貌の持ち主だった。物腰柔らかな翡翠とは対照的な鋭い視線が、歩狼隊の荒くれどもをすくみ上がらせるに相応しい強さと迫力を持って、翡翠の妻となる娘の瞳を真っ直ぐ睨み付けていた。翡翠に仇《あだ》なすならば容赦はしないと、その視線が何よりも雄弁に彼の忠誠心を物語っていた。
「ちょっと寂しかったんだよ」
 翡翠の言葉が聞こえて、桜の君は現実に引き戻される。
「蒼誠《そうせい》さん、来てくれると思ってたからさ」
 かつて師匠だった男の名を、回らない舌で翡翠が呟く。酒に酔っていても翡翠の言葉は、桜の君が慣れ親しんだ黎京言葉の貴族的な響きを失わない。
 神矢《かみや》蒼誠は、翡翠や三怜の故郷で彼らに剣を教えていた男だ。今でも榛京近くの武狼野《むろの》で道場を続けていると聞いた。歩狼隊の戦力を増強するために榛京に送られた翡翠の部下たちが、蒼誠にも声をかけていたことは桜の君も知っている。
「仕方ねえよ。蒼誠さんは剣の腕は立つが、争いごとに向いた人じゃねえ」
「そうなんだけどね。それでも、来て欲しかったな。蒼誠さんなら、一緒に見てくれると思ったんだ。この国の、未来を」
 未来。その言葉を思えばため息が零れる。翡翠の言う『未来』は、桜の君にとってはどうしても理解できない謎めいた概念だった。
 押し寄せる列強の兵力に対抗できる国力と、次々に流れ込んでくる目新しい文化に押し流されない知性。五年前の翡翠はそれを求め、いつの時代のどの場所にでも転がっているような粋がった小僧どもの群れを率いて黎京に上った。
 元気が良いばかりの荒くれ者をどうにかまとめ上げた田舎出の若造は、それでも舌先三寸と仲間の剣の腕すらも見世物にするという開き直りの精神で貴族たちに取り入り、黎京を悩ます龍の討伐を掲げて軍団を組織する許可をもぎ取った。
 彼は約束通り荒ぶる八神山の龍を倒したが、戦いはそれでは終わらなかった。ちょうどその頃、辺境の芳郡《ほうぐん》が反乱を起こし、黎京の間近へ迫って来たからだ。
 当時の混乱は筆舌に尽くし難い。
 翡翠は黎京の正規軍と合流して反乱軍を蹴散らし、首謀者である芳郡|郡司《ぐんじ》を討ち取った。黎京が喜びに沸いたのは一瞬のことだった。反乱軍から黎京を救ったはずの英雄が、反乱軍を圧倒的な強さで鎮圧したその軍団を率いて黎京に迫り、宰相の地位を要求したからだ。
 黎京を守るはずの皇軍からも翡翠側に寝返る者が続出し、追い詰められた黎京の長老院は翡翠の要求を呑むしかなかった。長く長老院の筆頭を務めてきた黒瀬家の婿養子となることでどうにか体裁を整えた翡翠は、正式に皇軍の指揮権を持つ宰相に就任した。
 以来、彼について回る噂は黒いものばかりだ。皇宮の宝物をすべて異国に売り払うつもりだとか、下賤の身でありながら皇帝の座を狙っているだとか。
「間違ってはいないね」
 いつだったか褥《しとね》の中で、彼はその噂をあっさりと肯定した。
「この国の未来を守るためには、力を金で買うしかないんだよ」

「あんたは本質的に孤独な人だ」
 廊下の向こうから押し殺したような三怜の呟きが耳に届いて、桜の君は気怠げに身を起こす。聞いているのかいないのか、翡翠は否定も肯定もしない。
「俺には同じものを見ることはできねえ。だが、あんたが見てるものを信じたいとは、思う」
「……わかってる。俺も君を信じてるよ、三怜」
 酔いが回った翡翠の声は茫洋として、常の彼からは考えられないほど弱々しく、頼りない。彼がそんな弱みを見せるのも、相手が三怜だからなのだろう。誰よりも長く付き従ってきた、三怜にだからこそ。
「君が、一緒にいてくれて……心強い……と、思ってるんだ……本当、に……」
 途切れた言葉、微かな衣擦れの音と、呆れたような三怜のため息。眠ってしまったのだろうと見当をつけて、桜の君は姿勢を正した。予想を違えず、程なくして三怜が翡翠を抱きかかえるようにして入ってくる。
「愁恕殿。すまないが、看病を頼む。俺は騒いでる連中を連れて帰らなきゃならねえ」
「どちらが年上かわからぬのう」
 確か三怜の方が六つ年下のはずだが、と、無骨な印象に似合わず丁寧な仕草で翡翠を布団に寝かせてやる三怜に、桜の君はくつくつと笑った。
「……あんたは」
 三怜が顔を上げて、ひたと女を見据える。強く鋭い、敵を見据える視線だ。長くこの国を牛耳ってきた長老院が、軍事力を背景に国を乗っ取った翡翠をいかに恨み、憎んでいるか、三怜は冷静に把握している。黒瀬家の娘を疑うのも無理はない。
 否、その鋭い視線に込められているものは、猜疑心というよりも殺気だ。その強い感情を、魂のいろを心地よく感じながら、桜の君は満足しきった猫のように目を細めた。横たわる翡翠を挟んで、桜の君と三怜は不穏な視線を交わし合う。
「お主、妾を殺したいのかえ?」
 発した自分の声色に、女は笑みを深くした。嘲るように。
 三怜が己に殺気を向けるのは、大切なものを桜の君が奪うと知っているからだ。けれど奪ったとしても、奪ったものが桜の君の手に入ることはない。
 手に入るだの入らないだの、人間じみたことを考える己が滑稽だった。
 三怜は切れ長の瞳を逡巡するように細める。
「あんたは、翡翠さんの女房だ」
 それだけで、桜の君を殺さない理由になるというのか。
 内心の驚きは、どうやら表情には出なかったようだ。三怜はすっと視線を逸らし、武人らしい隙のない動作で立ち上がった。
「……翡翠さんを、頼む」
 立ち去りざま、肩越しにちらりと視線を寄越した三怜が言う。桜の君は答えず、微笑んだ。
 返すべき言葉など、持ち合わせてはいなかった。

 ふと、袖を引かれて布団を見下ろす。不満そうな表情《かお》をした翡翠と目が合って、桜の君は相好を崩した。
「何を拗ねておるのじゃ」
「ずるいよね。君と三怜ばっかりわかり合えてて」
 人を惑わす妖のようだと評される美貌に不似合いな、子どもじみた表情で翡翠は言う。本当にこれは生きた人間なのか、今にも夜叉に変じて襲いかかってくるのではないかと疑いたくなるほどの峻烈な美しさが緩んで、彼の持つ人間らしいぬくもりが内側から滲んでくるようだった。
「なるほど。嫉妬じゃな」
 胸の内をくすぐられるような面映ゆい気持ちを押し隠して、桜の君は人の悪い笑みを浮かべる。
「そうだよ」
 翡翠は意地悪く微笑む桜の君の腕を引いて、褥の上へ押し倒した。
「それはどちらに対する妬心《としん》かえ?」
 開け放たれたままの障子から差し込む月の光が、桜の君の上に降り注ぐ。逆光に沈んだ翡翠の表情は、それでも間近にいる桜の君にはよく見えた。青白い白磁のような肌も、黒漆の艶やかさを持つ外洋風に短く切った髪も。その頬に浮かぶのは、からかうような笑み。けれどそれとは裏腹に、瞳の奥には熱を孕んだ剣呑な光が仄見える。
「どっちにも。三怜も君も、複雑怪奇すぎて理解できない」
「何を言うか。お主ほど複雑怪奇な人間もおらぬであろう」
 自覚がないのかと、桜の君は呆れた。翡翠を慕ってついて来ている歩狼隊の隊士たちも、誰よりも彼の側にいる三怜でさえも、誰も翡翠の思いを理解できていないだろう。普通の人間が求める富や名誉や権力を、翡翠はただの手段としか捉えていない。だからこそ、桜の君が今まで見てきた人間たちと違って、翡翠の欲望はわかりにくい。
「俺なんて単純明快そのものだよ。愛国心の強い野心家ってだけだ」
「これ、どこに触っておる」
 胸に顔を埋めてくる翡翠に、桜の君は身を捩って抗議の声を上げた。
「甘えたい気分なんだ」
 吐息が襟元をかすめ、うなじに口付けられる。
「妾に喰われたいのかえ?」
 彩雲が身の内に入り込んでくるような感覚に、己の声が艶めかしさを増すのを感じる。途切れそうな声を無理に抑えて尋ねれば、耳元で翡翠が笑う気配がした。
「君になら食べられても良いかなと、思える日もある」
 耳元でかすれた声が遠ざかって、こちらを見下ろす翡翠と視線が合う。今だけはわかりやすい欲望に彩られた翡翠の瞳は、しつけの行き届かない狼どもを率いるに相応しい獣じみた光を宿していた。
「喰ってやりたいと思う日も、ね」
 単純な欲望は、わけのわからない野心と違って簡単に桜の君を心地よくさせてくれる。
「仕方のない男じゃ。喰っても良いぞ。今宵はな」
「喜んで。我が君」
 微笑んだ男の体が、ゆっくりと覆い被さってくる。風にぶつかり合うごつごつとした桜の枝よりもはるかにやわらかい、人間の体。けれど女の体よりは硬い、男の身体。その重さを受け止めながら、桜の君は笑んだ。なぜこの身体が悦びを感じるのかわからぬまま、感情の命じるままに笑みを浮かべた。