遊卵飛行

 初めてそれを見たとき、僕ははっきり言って驚いた。これではまるで小学生の作文のようだから、もう少し描写を付け加えるとすれば、ギターを背負って駅前に弾きに行こうと秋の気配が忍び寄る閑静な住宅街を歩いていた僕は、空中にそれを発見して馬鹿みたいにあんぐりと口を開けて見上げてしまったのである。不覚だ。
 側を歩いていた痩せ型で上品そうなおばさんが一緒にそれを見上げてくれて、しかも一緒に目を丸くしてくれたのが救いと言えば救いだった。これで目が悪かったりして、僕のマヌケ面だけに気付いて、不審なものでも見るような目で見られたらたまらない。
「何でしょうねえ?」
 ブルーグレーの和服に身を包んだおばさんは目を細めて呟く。
「あら、なんだかこちらに近づいてきているようですよ」
 ようですよ、ではない。おばさんが悠長に言っている間に、『それ』は僕の顔面を直撃した。
 ふにょ、というか、ぽよん、というか、そういうなんだか弾力のあるような無いような感触だった。一番近いのはたぶん大福だ。粉がついてなくて、でもさらさらした手触りの大福。大福は慌てたように僕の顔から離れた。今は目の前、十五センチほど距離を置いたところに浮んでいる。外見はやっぱり大福だ。縦五センチ横八センチくらいの楕円形をした桜色の大福。大福の中央には直径一センチ弱の、レンズのようなものが埋まっていた。レンズは微妙な色合い――たぶん近いのはオパールだろう――で明滅している。
「あらあら。あなた、顔に文字が映ってますよ」
 おばさんはそう言って、ハンドバッグ――着物と同じ生地でできた巨大ながま口――から白いレースのハンカチを取り出した。何がなんだかわからない僕の目の前に、おばさんはばっ、とハンカチを広げる。
「ええ、こちらの方が読みやすいわ」
「な……何がですか……」
 真っ白のハンカチに視界を覆われ、僕は状況を上手く把握できない。
「でもこれ、なんて読むのでしょうねえ。英語じゃないのね……ローマ字かしら?」
 わけがわからない。
「あなた、お読みになれます?」
「い……いや、ちょっと……む……無理があるかな……」
 そもそも何も見えない。
「あらあら、それもそうですね。ごめんなさいねえ」
 これならどうかしら、と、おばさんはハンカチの位置を変えた。僕も立ち位置を変えてハンカチを覗き込む。
『WATASHI HA UTYU KARA NO SISYA DESU』
 ……読める……ような気もするけど、なんだか読みたくない。
「……仮名漢字変換とか、できないのか……?」
 全身を突如として支配した脱力感に抵抗しながら僕は尋ねた。
『私は宇宙からの使者。宇宙人の、タマゴなの。わかる?』
 大福は素早く表示を切り替えた。……わかってたまるか。
「タマゴってことは……まだ幼くていらっしゃるのよね?」
 おばさんがハンカチを広げたまま首をかしげる。……順応している。信じられない。
「ということは、迷子さんなのかしら?」
『違う!』
 自称宇宙人のタマゴはフォントサイズを大きなものに変えた。色は赤。怒鳴っているつもりなのかもしれない。
『……こほん』
 今度は控えめなフォントサイズ(黒)で咳払いを表現。
『今度夏休みの宿題で地球の桜について調べることになったんだけど』
 変な宇宙人だな……は、しまった。なんだかつい乗せられているが、そもそもこいつが本当に宇宙人なのかどうか、そこからして既に怪しいんだった。
『私が目をつけたのはこの町の中央公園の枝垂桜。もうその美しさといったら素晴らしいという名声が宇宙の果てまで轟き渡るくらいなんだから素晴らしい』
 以下、自称宇宙人のタマゴは中央公園の枝垂桜の美しさについて延々語り続けた。白いハンカチにスクロールしていく膨大な桜賛歌を読み取るのも面倒になってぼんやりしていると、急にスクロールが止まった。
『ちょっと聞いてる!?』
 超巨大フォント。赤文字。一瞬の間。
『じゃないや、読んでる!?』
「それなりに。要するに、その素晴らしい桜がもうすぐ切り倒されるという話が出てて、その話に正当性があるのか、それとも単に地球人には美を解する能力がないのかを調べに来たんだろ?」
『うむ。エクセレント』
 投げやりな標準サイズのフォントに黒文字で自称宇宙人は僕を褒め称える。
『当然、手伝ってくれるわよね?』
 手伝ってくれなかったら宇宙人の呪いがあなたを七代祟っちゃうわよ、という脅し文句は、ハンカチを持っていたおばさんが力尽きてしまったがために一瞬しか表示されなかった。

 ……えらい目にあった。
 僕は深くため息をつく。もうすぐ夕暮れだ。結局僕は目的地である駅に辿り着くことなく家路をたどっていた。
 あの後、おばさん――潮崎綾乃(シオザキアヤノ)さんというらしい――と自称宇宙人のタマゴに無理矢理引っ張られるようにしてアヤノさんのお宅にお邪魔する羽目になった。で、ついでにうっかり自称宇宙人のタマゴの夏休みの課題を手伝うことを約束させられてしまった。なぜかアヤノさんとタマゴが意気投合してしまったのだ。アヤノさんはタマゴと共に枝垂桜の素晴らしさについて力説し、幼い頃から毎年花見に行っていた思い出の桜がなくなってしまうなんて悲しいとか初恋の人に見せてあげたかったのにとか言って僕を泣き落としにかかった。二人してやたらと押しが強かったりして、全く運が悪い。
「あ……!」
 ため息をついた僕の耳に、ふいにせっぱつまったような声が飛び込んできた。声が女の子のものだったので、僕は下心込みで顔を上げる。
「ああ……っ!」
 声のした方角にはスーパーマーケットの自転車置き場があった。声の主らしい腰の下まで届く長い髪の女の子がいる場所を起点として、自転車たちがドミノ倒しの要領でなぎ倒されていく。
 女の子の髪があまりに長いので一瞬躊躇したが――だいたいそういう子は特殊な趣味を持っていることが多い――それを差し引いても彼女は大変な美人だったので、僕はいそいそと自転車を助け起こす手伝いに走っていった。
「大丈夫?」
「はい。ありがとうございます。すみません……どうもこういうのって慣れなくって」
 女の子は腰の下まである長い髪を背中に払いのけながら頭を下げる。
「慣れない?」
 順序良く自転車を立たせながら会話をつなぐ。こういうのは沈黙したら負けだ。
「自転車、一昨年乗れるようになったばっかりで」
 ……沈黙したら負けだ。
「へえ、最近なんだ?」
「はい。今まで使う必要性を感じていなかったんですけど、高校が歩いて行くには遠い場所だったから」
「その制服、静宮だよね。俺そこの卒業生なんだ」
「え……っ? 年上、の、方なんですか?」
 僕は苦笑しながら頷く。まあ、確かに大人びているとは言いがたいけど、そう子供っぽい方だとも思えない。……思いたくない。
「さて、これくらいかな」
 すべての自転車を立たせ終わって、僕は両手を軽くはたいた。
「どうもありがとうございました。すみません、お時間とらせてしまって」
 女の子が深々と頭を下げる。
「いやいや、困ったときはお互い様だから……さ?」
 笑い返している最中に女の子の表情が驚愕に染まり、僕の言葉は自信なさげにデクレッシェンドした。
「……あ」
 女の子の小さな叫びをBGMに、何者かが僕の後頭部を強打した。意識が白く染まった。
「……いっ……てえ……」
 空中にわっかを一つ描けるくらいの間をおいてから復活した僕は、振り向いて攻撃を加えてきたモノを探す。一瞬で見つかった。
 アヤノさんの家に置いて来たはずの、自称宇宙人の卵だった。
 アヤノさんの家でお世話になることになったはずなのに、何でこんなところにいるんだ?
 タマゴは困惑する僕の肩を突付き続ける。
「それ、何ですか?」
 女の子が至極もっともな疑問を口にした。僕は咄嗟に答えに詰まった。長い長い沈黙が舞い降りる。
 ……僕の負けだ。

「面白そうですね」
『でしょう?』
 そうかなあ、と僕が呟く前に、公園のベンチの背もたれに立てかけられた女の子のノートに文字が映し出された。
『ね、あなたも手伝わない?』
 パステルピンクの丸文字がうきうきと訴えかける。
 小さな人気のない公園に置かれたベンチに、僕と女の子は見開きになったノートをはさんで座り、タマゴはその前に浮かび上がって事情を説明していた。
「私で良ければ、是非」
 女の子はまじめな表情で無茶な返事をする。
「いいの?」
「はい。あ、私、七瀬夏海(ナナセナツミ)といいます」
 本当にいいの? と聞きたかったが、あっさり返されてしまったので仕方なく。
「俺は静森亮(シズモリリョウ)」
 僕は名前を名乗った。
『私は宇宙人のタマゴ』
「シズモリさんにタマゴさん、ですね。よろしくお願いします」
「あ、こちらこそ」
『お見合い?』
 二人してぺこぺこお辞儀しあっていると、タマゴが横から茶々を入れた。
「えーと。それで七瀬さん、その桜について調べるために今度の日曜に集まることになってるんだけど」
 僕は無視して話を続けることにする。九月の半ばに夏休みの宿題を始めるような悠長なタマゴに付き合っている暇はない。
「次の日曜なら空いてますよ。どこで待ち合わせですか?」
 七瀬さんはまじめな表情で頷く。
「中央図書館の前なんだけど、場所はわかるかな?」
「あ……えーと……」
 七瀬さんの眉間にしわが寄った。わからないらしい。
「じゃあ、駅の改札前で待ち合わせにしよう。図書館が十時に開くから……九時四十分に」
「はい、わかりました。じゃあ、今度の日曜日ですね」
 七瀬さんはまじめな表情で頷き――なんだかさっきからまじめな表情を全然崩していない――立ち上がった。
「それじゃ」
「あ、七瀬さん、ノート忘れてるノート」
 立ち去ろうとした七瀬さんの背中に、僕は慌てて呼びかける。
「ああ、すみません」
 くるりと振り向いてノートを受け取った七瀬さんは、ノートを広げたまま少し首を傾げて僕を見上げた。
「呼び捨てで、良いですよ?」
「え……っ?」
「ナナセ、って、呼び捨てで。シズモリさんの方が年上なんですし。あんまりさん付けって慣れてないから。友達もみんなナナセって呼び捨てですし」
「あ、ああ……そう、だね……わかった」
 僕は困惑しながら頷く。
「俺もリョウでいいんだけど。あと、敬語も使わなくていいよ」
 シズモリさんていうのはどうにも慣れない。部活でもずっと『リョウ先輩』だったし。……まあ、今日が初対面の女の子にこういうこと言うのってどうかとは思うんだけど、タマゴを見てるとタメ口の方が自然な気がしてくるのだ。
「俺、あんまり年上って感じでもないからさ」
『うん、こいつは呼び捨てでいいと思う』
 ……前言撤回。タマゴに言われるとむかつく。
「じゃあ……」
 七瀬さん……ナナセは少し考え込む。
「リョウさん、は、変だから……リョウ君。それじゃ、また、日曜日に!」
 ナナセが踵を返す。懐かしいデザインのスカートが重そうに翻り、暮れかけた夕日が地面に長い影を描く。
 僕は感動していた。
 女の子にリョウ君なんて呼ばれたの、生まれて初めてだ。