遊卵飛行

 一日の授業すべてが終了した後、時刻で言えば午後七時半頃(補習があったのでいつもより遅かった)、友人と雑談しながら駅に向かって歩いていると、キャンパスの出口にある街灯の下にナナセが立っているのが見えた。静宮の制服に革製の指定鞄。キャンパスから出て行く学生達がものめずらしそうにちらちらと視線を投げかけるが、ナナセはあまり頓着していない様子だ。
「あ、リョウ君」
 ナナセは僕を見つけると小さく手を振って呼びかけてきた。一緒に歩いていた友人は短く口笛を吹き、僕を軽く小突くと足早に去っていく。
 ……気を利かせてくれたのは嬉しいけど、明日の授業が恐ろしい。
「ナナセ? どうかした?」
 とりあえず明日のことは明日考えることにして、僕はナナセに歩み寄った。
「うん……約束の時間まで、暇かな、って思って」
 ナナセは小さく微笑する。
「ああ、うん。暇だけど」
「そっか。……えーとね」
 ナナセは微妙な微笑を浮かべたまま視線を地面へ落とした。
「……特に、何か考えてたわけじゃないんだけど」
 ナナセは気まずそうに呟いたが、僕はなぜナナセがここに来たのか、なんとなくわかるような気がした。タマゴのことを知っている人間の中では、たぶん僕が一番ナナセに近い。年齢も経歴も精神的な距離も。
 しかし、理由がわかったからといって気の利いた言葉が出てくるわけでもなく、僕は必死で言葉を探し続けた。きっとナナセも探しているんだろう。沈黙が重い。
「……えーと」
 僕は小さく咳払いをした。
「とりあえず、飯でも食う?」
「……そうだね」
 僕の言葉はどうしようもないほど気が利いていなかったけれど、ナナセは少しだけ表情を和らげた。

 僕とナナセは大学の近所の安食堂へ繰り出した。二人して「今日の定食」を頼み、席に着く。すすけて薄暗い店だけど、バランスの取れた和食が三百円くらいで出てくるので貧乏学生にはありがたい店だ。
 食堂のおばさんが、僕とナナセの前にご飯と味噌汁とシャケの切り身と煮物を運んでくる。
「おいしいね」
 味噌汁に口をつけたナナセが小さく笑い、食堂のおばさんはカウンターの奥で満足そうな笑みを浮かべた。
「あのね……」
 ナナセは茶碗をテーブルに置いて、迷うように言葉を切る。
「ん?」
 僕はご飯をかきこみながら視線だけを上げた。
「リョウ君。今でも、タコちゃんのこと、疑ってる?」
「……わかんないな。あいつ、なんか……緊張感ないからさ。怖がってなさそうで。でも、本気っぽい、ような気もしたし」
 僕はシャケの切り身から骨を取り除きながら答える。
「私ね。……私は。……本当だって、思ってる」
 ナナセは煮物のにんじんを口に運び、短い沈黙がテーブルに舞い降りた。
「……タコちゃんが桜の木の精だってことも。今日、花を咲かせて見せてくれるってことも」
「……そっか」
 僕は相変わらず気の利いた返事をひねり出すことができず、僕らはまた黙々と食事を再開する。食堂のおばさんは、カウンターの奥から心配そうに僕らのことを見守っていた。

「タコちゃんのために……何かできることってないかな」
 あらかた食べ終わった頃、空っぽになったコップを揺らしながらナナセが呟いた。
「本当だったら、何かしてあげなきゃいけないのは私たちの方だって思うのに。何も……思いつかなくて」
「わかんないけど……」
 気の利いた言葉はやっぱり出てこない。……僕って頭悪いのかもしれないな。
 ため息をついて、それでも何とか言葉を続ける。
「あの桜が咲くとこ見たら、俺はあの木のことが大切になるんじゃないかって思ってる。……なんて言うんだろう、思い出の木って言うかさ、クサイけど。でも、タマゴにとっては……それが一番嬉しいこと、なんじゃないかって気がするんだ」
「そうだね……」
 コップをテーブルに置いて、ナナセは弱々しく微笑んだ。
「そうかも」

 僕はおごるって言ったんだけど、ナナセの主張で食事代はワリカンで払うことになった。食堂から三十分ほどの距離を歩いて駅に辿り着く。
 電車が止まっていた。
 午後九時十八分。僕とナナセは呆然と電光掲示板を見上げる。
「……ヤバイな」
 僕は呟いた。
「ヤバイね……」
 ナナセも呟いた。
「走ろう。公園までなら一駅ないし」
 僕は重々しく宣言した。
「賛成」
 ナナセは頷いた。
 僕はナナセの手から鞄を取り上げて走り出した。

 体力が持たなくて、青春ドラマみたいにノンストップってわけには行かなかったけど、僕らは走ったり歩いたりまた思い出したように走り出したりしながらひたすら公園を目指した。線路沿いの道を走り、途中で逸れて公園へ続く街道へ。脇腹が痛くなってワイシャツに汗がにじんだ。背中に張り付く感触が生暖かくて気持ち悪い。
「ナ……セ、だい、じょ……ぶ?」
「……あんまり……」
 公園の外周を走りながら、息も絶え絶えに会話する。全身で自分の鼓動を感じた。体の奥底から暑っ苦しい。
「も……ちょっと……だ……」
 僕はナナセにというより自分に向かって声を出す。次の角を曲がれば、公園の入り口が見えてくる。

 桜の前には、もう既にアヤノさんとエルさんが来て待っていた。息が切れて挨拶もできない僕らに、アヤノさんは近くの自販機から麦茶を買ってきてくれた。呼吸を落ち着かせてから一気に流し込む。
 ロープの中に入ると、改めて枝垂桜の巨大さが実感できる。薄明るい都会の夜空は、木の下からはほとんど細切れにしか見えない。星の無い夜空に月だけが明るい。時折緩く風が吹き、枝垂桜は静かに枝を鳴らす。
『やー、遊んだ遊んだ』
 タマゴは約束の時間に二分くらい遅れて現れた。前触れもなく枝の間からひよっと降りてきて、挨拶もせずに暗い地面に文字を浮かび上がらせる。気楽な調子が、目の前の桜の穏やかな風情とは対照的だ。
『さて、それじゃ、咲かせますか』
「ねえ。ねえタコちゃん」
 アヤノさんが震える声で呼びかける。
「これで、お別れ、ってことは、ないわよね?」
『お別れだよ』
 タマゴの言葉はあっさりと希望を切り捨てた。
『でも良いの。私もう二、三百年は生きたし、ここ何日かで今まで行ったことないところにあっちこっち行けたし。泣いてくれそうな人もこんなにいるし。お寿司屋さんでタコも見れたし。あれ本当に赤くてぐにゃぐにゃしてて足が八本なのね』
 タマゴは気楽な言葉を綴り続ける。
 僕の頭の中ではさっきのマラソンの動悸がまだ続いている。酸素もまだ足りてない気がする。
 怖くないのか? お別れとか、枯れるとか切り倒されるとか。それって死ぬってことじゃないか。なのに怖くないのか? この緊張感のなさって、やっぱり桜の木の精だなんて嘘だからじゃないのか?
『リョウ、私の言ってる事信じてないでしょう』
 一日中ぐるぐる考えていた疑問を再び頭の中で転がしていると、タマゴは鋭くそれを指摘した。
「そんなことないって」
 僕は笑った。右の頬が引きつって、なんだか妙な表情になっているような気がする。たぶん……気のせいじゃないだろうけど。
『ちゃんと咲かせるわよ。見てなさいよ。咲かせてみせるんだから』
 タマゴはそう言ってふわりと浮かび上がった。
『じゃあね、結構楽しかったよ。君達と』
 次の言葉が表示されるまで、ほんの少しだけ間が空く。
『会えてさ』
 暗い地面に浮かび上がった文字と、タマゴのまるまっちい輪郭が桜の枝の間に吸い込まれる。タマゴは躊躇一つしなかった。うらやましいくらいの潔さだった。僕たち四人は、言葉もなくそれを見送った。
 紅葉し始めた木々の中、タマゴの木だけがぼんやりと光を放ち、すぐに消える。まばらな街灯の伸ばす影が、不気味に公園を支配する。僕たちは黙って桜の木を見上げる。息苦しいような沈黙と、ひそやかな生命の息吹のような期待感が場の空気を支配する。
 その期待感は、やがて枝の上で膨らみ始めた。風は静まり、けれど天を覆う桜の枝は感情を押し殺しているような緊張感にさざめく。
 その緊張感が最高潮に達した瞬間、桜はいっせいに開花した。

 隣でナナセが息を呑む。僕は呼吸を忘れ、息が苦しくなって初めて息を止めていたことに気付く。
 街灯と月が創り出す薄明かりを反射して、確かに桜は輝いていた。薄紅色の滝はかすかに吹き過ぎる風に揺れ、穏やかにざわめく。ドーム状に広がった枝に満開の桜。その間隔からのぞく暗い夜空。薄紅の光の滝が、僕たちに向かって音もなく降りそそいでくるような不思議な感覚。霞のように、煙るように。けれど確かな存在感を持って――誇らしげに。空へ向かい、僕たちに向かって。
 無意識に触れたナナセの左手が、僕の右手を軽く握り返す。
 僕らはずっと手をつないだままだった。満開の桜がやがて静かに舞い散り、葉が茂り、その葉もまた散り行くそのときまで。

 桜の葉が散り終わってしばらくは、誰も口を開かなかった。時計が午後十時を回り、公園を照らしていた街灯の半分が節電政策に従って光を消す。暗い中、エルさんの輪郭が動き、枝垂桜へと歩み寄った。
「ありがとう」
 エルさんは桜の幹に片手を置いて呟く。
「本当に……私も。ここへ来て、君達に会えて……良かったよ」
 桜の木は沈黙したまま、身じろぎ一つしない。だけどきっとタマゴなら、そりゃどーもとか光栄だわとか、あの嬉しそうな丸文字で言うんだろうなと、僕はそう思って視線を巡らせた。
 アヤノさんがハンドバッグからハンカチを取り出して、目頭を押さえるのが見えた。
 枝垂桜の下にだけ浮島のように散り敷かれた花びらは、まるで名残り雪のようだった。
 僕とナナセは、つないでいた手を静かに離した。

「なあ、桜の木って、庭でも育てられるかなあ。母さんの田舎に行けば、庭、あるんだけど」
 夜桜の日の二日後、中央公園の管理センターに掛け合ってタマゴの桜の種子をもらってきた僕らは、とりあえず公園の出口に向かって歩いていた。
 エルさんは昨日アヤノさんとナナセと僕の見送りを受けてヨーロッパへ帰って行った。桜の栽培が上手く行ったら、エルさんを呼んで花見をすることになっている。
 アヤノさんも茶道の教室があるので、今日はナナセと僕の二人きりだ。
「育てられるんじゃないかな」
 ナナセは首をかしげつつも器用に頷く。
「でもとりあえず、うちの境内にしておかない? 気候も近いし、他にも桜の木、あるから。きっと根付くと思う。遊びにおいでよ。アヤノさんと一緒に。リョウ君だったら安心だし」
「あ……安心?」
「父さんも嫌がらないと思うんだ。リョウ君、良い人だもの。アヤノさんもいるし」
 ……良い人って誉め言葉じゃないよ、ナナセ。もしかして暗に恋愛対象外だって言ってたりするのか?
 ふと生じてしまった疑念に胸をさいなまれつつ、僕はナナセと並んで歩く。道の両脇のイチョウが黄葉している。桜が根付く確率がどれほどのものなのかはわからないけど、タマゴだったらきっと大丈夫だろう。生命力はかなりありそうだから。
 いつか鎮森神社は桜でいっぱいになるに違いない。
 その頃も僕らはこうして並んで歩いて。その頃には手をつないで歩けるくらい仲良くなれてたら嬉しいと思う。ナナセが隣にいてくれるなら、僕の未来はバラ色だ。
 その日を思ってにやけた僕を、ナナセが小さく蹴飛ばした。
「な、何で蹴るんだよ!?」
「やらしい笑い方、してたから」
 ナナセは満面の笑みだ。笑いかけてくれるのは嬉しいけど、この笑顔は怖い。
 ……そして僕は、やっぱり今日も、反論できそうにない。