月の船

 商人たちが商品と共に運んでくる戦の知らせに、港の民は一喜一憂しながら過ごした。夏が終わる頃には、遠い南の海で行われた海戦に港の船団が大勝したという噂が届き、神殿は海神に感謝の犠牲を捧げた。
 その一方で、港出身の商人は戦死者たちの遺体をも運んできた。勝利を祝うのは神殿の巫女たちの役目だが、葬儀を行うのは呪い師の役割だ。
 月夜、神殿の裏側の海へ向かって降りていく石段で、葬儀は静かに執り行われる。神殿の陸地側にある広場で、勝利を祝い騒ぐ民衆の声は遠い。
 遺骨と灰を遺族から受け取りながら、グリースの心は重く沈んでいた。
 港の大神殿で葬儀を行うことができるのは、ごく限られた家系の者だけだ。滅多に前線へは出ないはずの彼らが多く討ち死にするという戦況は、商人たちが語るほど楽観的なものではないのだろう。
 参列者たちが見守る中、グリースは石段を下り、海中へ足を踏み入れた。素足にかつて送られた死者たちの骨が触れる。
 グリースは古の言葉で死者の冥福を祈りながら、受け取った遺骨と灰を海へと撒いた。その眠りが妨げられることがないように、月の船が彼らを無事死者の国へ運んでくれるようにと祈りながら。
 黒い衣服に身を包んだ参列者たちは一言も口を開かず、ただ沈黙をもって、死者を死者だけが渡ることを許される海へと見送る。白大理石の石段へ打ち寄せる波の音と、グリースの祈りだけが、波間へ浮かぶ月へと響く。
 死者たちの魂は、故郷の港より月の船に乗り、生者が乗り入れることは許されない彼岸と此岸(しがん)の間に横たわる海を越え、死者の国へと向かって行くと言われている。だが、故郷の港以外から月の船に乗り込む事は出来ない。それ故、異郷の地で死んだ者の魂は一度故郷へと帰って来なければならない。魂の宿った骨を故郷の海に沈めることは、世界各地を経巡る海の男たちにとっての悲願だ。
 沈んだ船の船員や、どこともしれぬ地で朽ちていく人々に比べれば、家族に見守られ、故郷の海に骨を沈めることができる者たちはどれほど幸運であることか。
 葬儀が終わった後、自らを慰めるように言った死者の妻を黙って見送り、グリースは深く息を吐いた。
 王の出陣から月は二度満ちたが、未だ戦は終わらない。少なければ少ないほど良いはずの仕事は増えるばかりだ。
 ゆっくりと視線を上げ、遥か海の果てを見つめた。
「どうか、ご無事で……」
 呟いた言葉は声にならず、波の唸りに飲み込まれた。

 大規模な会戦が行われたという知らせは、犠牲の祭りの数日後にもたらされた。港の男たちは海の上と同様に勇敢に戦い、やはり勝利をもぎ取ったと商人たちは伝えた。だが、同時に港全体にとって不吉な知らせをももたらした。
 王の生死が不明だというのである。
 その日は東の異教徒も味方の軍勢も、これが決戦と全力でぶつかり合った。戦闘は激しく、味方側の勝利に終わったものの、終始圧勝とは到底言えない状況だった。王は前線に立ち、自ら剣を振るって戦っていた。夕刻になって戦闘は終わったが、陣営に戻った一団の中に王の姿はなかった。
 グリースにそれを告げた商人は「王が月の船に乗れぬなどあってはならぬことだ」と深く嘆息した。二人の王を同時に戴くことはできない。王が月の船に乗れなければ、新たな王を立てることもまたできないのだ。

 翌日から、グリースは葬儀に忙殺されることとなった。葬儀の数の多さ故、大神殿で葬儀を行うのは特に有力な家門の有力な家系の者に限られていたが、それでもグリースには悲しみに浸る暇さえ与えられなかった。
 遺体の回収など望むべくもない市民たちは、戦死者の愛用していた道具や出陣前に用意されていた髪などを代用し、略式の葬儀を行う。
 だが、貴族や金持ちたちはどうにかして遺骨の一部なりとも探し出して持ち帰り、大神殿で正式な葬儀を行い、一族に連なる者を月の船に乗せようとする。彼らにとってそれは、信仰というよりも名誉や誇りに属する事柄であるらしかった。
 議会は捜索隊を新たに組織し、幾度も船を海の向こうへ送っては行方知れずとなった者を捜した。生きて戻る者も、死者として戻る者もいた。だが、その中に王の姿はなかった。

 港の政治を取り仕切る議会も、月が二度満ちるまでは待った。商人たちは常よりも多く戦場と港を行き来し、多くの有力者たちの遺体を運んだが、希望をもたらす知らせは来なかった。
 結局、冬を目前にして、議会は捜索隊を乗せた船団の帰港を決定した。
 グリースにそのことを告げたのは、グリースと王の仲を知る貴族の一人だった。その頃にはグリースの仕事も減り始めていて、葬儀を終えた後にも挨拶をする時間はあった。
「そうですか……」
 頭髪に白いものが混じり始めた男に、グリースはため息をついて頷いた。有力貴族の一人であり、議会にも名を連ねるその男は、華麗さよりも威厳を感じさせる長いローブを身にまとい、飾りといえば海神の聖印を胸元に下げているだけだった。商才に期待をかけていた次男をこの度の戦で亡くしており、出陣前に見たときよりも随分やつれて見えるのは、決して気のせいではないだろう。
「船団帰港の後、信用できる商人に偽の遺骨を持ち帰らせ、正式な葬儀を行って新たな王を立てるつもりです」
 言葉を返さないグリースに、男はため息をついてなおも言い募った。
「陛下は常に港が乱れることを危惧しておられました。今回のことも無用の混乱を避けるためなれば、きっとお許しになるでしょう」
「けれど……」
「お気持ちはわかります。葬儀が済んでしまえば、たとえ本物の陛下が見つかったとて、それを本物であると認めることはできない」
 葬儀を済ませたばかりの白い石段に、波が砕ける。男の声は波音に紛れ、グリース以外の者には届かない。
「もしも、偽の葬儀を執り行うことになったなら……どうにかして、貴方を外すように取りはからいます」
 頑なな表情で海の果てを見つめるグリースに、男は小さくため息をついた。
「貴方は陛下の良い恋人だった。本当に陛下を送ることができるのは、貴方だけであると私は考えています。ですから、本当の陛下が見つかったとき、貴方が何の咎もなく葬送の儀を執り行えるように……」
 グリースはただ俯いたと取られてもおかしくない動作で頷き、踵を返した。重い足取りで庵へ向かうその後ろ姿を、男はもの悲しい表情で見送った。

 庵へ帰り着いたグリースは、のろのろとした動作でランプに火を灯した。家具といえば木で作られたテーブルと椅子、ベッドしかない簡素な部屋を、炎は淡く照らし出す。グリースは一脚しかない椅子にぐったりと座り込んで、きつくこめかみを押さえた。炎はちらちらと揺れ、庵の壁に奇妙な模様を踊らせる。
 いつの間にか、指先が胸元のメダイユを探してさまよっていた。そのことに気づいて、グリースは苦笑を漏らし、ゆっくりと腕を下ろす。
 そのままじっと何かを待つように、グリースは動かなかった。
 やがて油が切れ、灯心が燃え尽きて室内は闇に落ちた。月の光だけが、むき出しの土間へ窓枠の形に影を落とす。グリースはテーブルの脇に腰掛けたままじっと動かなかった。
 月の船は空を渡り、四角く切り取られた光がゆっくりとグリースの足元へ近づいていく。月の光が膝の上で握り締められた両の手を照らしたとき、グリースはようやく一粒の涙を流した。滴は月の光を弾きながら手の上へと零れ、わずかな体温だけを奪って空へと消えた。