ラッカー

 学校の玄関のガラス戸に、ラッカーで落書きがされていた。「馬鹿野郎」と、ただ一言。

 落書きにしてはやけに控えめな、白いスプレーで書かれた文字。小さな事件だ。始業式も入学式もまだ数日後の春休み。生徒のほとんどが気づくことなく、落書きはたまたまその日当番だった先生と、たまたま学校に来ていた私の手で消される。
「悪いなあ、卒業したばっかりなのに手伝ってもらっちゃって」
 正門から入ってすぐの、階段を上ったところにある生徒用の玄関は日当たりが良い。まだ風が少し冷たいせいで、そこで日の光を浴びるのは結構気持ちがよかった。
「いえ。誰ですかねえ、こんなことするなんて」
 のんびりと私は答える。授業を受けた事はあるけれど、ちゃんと会話をするのは今日が初めてなような気がする、定年を間近に控えた数学の先生と二人。どこの学校にも存在しているらしいブリキのバケツに雑巾を浸し、両手で強く絞る。
「……さあなあ。学校に恨みでもあるんかね」
 首をかしげる先生の向こうの文字は、今は「鹿野郎」だ。間抜けな語感だと思って、私は思わず頬を緩めた。
「心当たりがありすぎてわからないパターンですね」
 今度は「鹿野」にしてやろうと企みながら、私は先生の右に立つ。
 校舎の向こうのグラウンドから、運動部(何の部活かは知らない)の掛け声が聞こえる。
 春休みの校舎は静まり返っている。それだけのことで、学校全体がなんだか特別な雰囲気をまとっているように思える。
 非日常を体験するなら、私にはこの程度がちょうどいい。最近はそう思う。

 本当のところ、私は落書きをしたのが誰なのか知っていた。
 朝早く、友人から来たメールで。

「なんでそんなあほなことしてんの」
 メールを見てすぐに電話をかけた。私はまだ薄暗い外の景色を自分の部屋の窓から見ていて、彼女は学校の玄関が見える自転車置き場で立ちすくんでいた。
『なんかさ、せっかく卒業したのに何にも変わらないなあと思って』
 友人は虚ろな声で答えた。いつも活発で、成績はそこそこだったけれどクラスのまとめ役をやっていた優等生タイプの彼女には珍しい、張りのない声音だった。
「で、何か変わった?」
『わかんない』
 彼女は泣き出しそうな声で答えた。
「あのさ」
 かける言葉を捜して、私は結局途中で慰めるのをあきらめた。
「……今度やるときは誘ってよ」
『もうしないよ』
 無理して笑おうとしたのだろう、泣き笑いみたいな変な声だった。
『サエもやめといた方がいいよ。面白くないよ。全然、面白くない。で、今、すごく怖い』
 バレたらきっとすごいヤバイよね、と、彼女は言った。
 合格取り消されたらどうしよう。せっかく現役で合格できたのに。
「大丈夫だよ。絶対そんなオオゴトにはならないって」
 たいしたことじゃない。そう思うけれど、たぶん今の彼女にはそんな判断はつかないのだろう。
 泣き出してしまった彼女をなぐさめながら、私は彼女が何を求めたのか考えた。
 彼女が求めたものは、私がどこかで望んでいたものと同じだったのかもしれない。

 私はときどき、日常という分厚い水面をくぐって、非日常の世界を垣間見ることができたらと願うことがある。でも、その一方で平穏な毎日を願ってもいる。大勢の人の注目を集めることもなく、騒ぎ立てられる価値もなく、大きく感情を乱されることもなく、穏やかで平凡な、ごく小さな変化だけで流れていく日常。そこから抜け出せないのは、抜け出したいと願いながら、どこかで日常というものに固執しているせいもあるのだろう。
 私はこの平穏な日常を失いたくない。
 そして歴史に名を残すこともなく、ごくごく平凡な生涯を閉じ、やがて忘れられていく。そう思うことは怖かったけれど、でも、誰かを致命的に(少しも、は無理だ)傷つけることなく、傷つけられることもなく生きられるなら、それは決して悪くない生き方だと、今の私は思っている。

 ラッカーの痕を雑巾でふき取りながら、結局平凡なまま終わってしまった自分の高校時代を思う。
 親友と呼べる人が何人かできた。部活も委員会も楽しかった。卒業後も何回かはこの高校へ遊びに来るだろう。クラス活動にはあまり積極的には参加しなかったけれど、まあまあだったと思う。同窓会にはスケジュールが空いていたら行ってみてもいいかもしれない。
 恋はしたけど片思いだった。告白はしなかった。ある意味日常を突き抜ける行為なのかもしれないけれど、私にはその勇気がなかった。

 結局、私は自分からこの日常を壊そうとはしなかった。
 これからもそうやって生きていくのだろう。――いや、そうやって生きていけたらと思う。
 時折小さな苛立ちを感じることはあっても、気も狂わんばかりの苦悩にさらされることなどなく。

 幸せなままで。