Smoke Gets In Your Eyes

 煙草を吸う女と付き合ったのは、そのときが二度目だった。一度目で血の不味さにうんざりして、二度と煙草を吸う女とは付き合わないと心に決めていたのに、タナトスとその女の付き合いは結局二年二ヶ月にも渡って続いていた。

 女は酒場の専属歌手だった。

「不味くなるから、もう吸うな」
 彼女が歌い終わった後、カウンター席で安ワインを弄んでいたタナトスは不機嫌に言った。
「文句があるなら、貴方が吸わなきゃ良いのよ」
 女は機嫌良くそう言ってタナトスの隣に座り、スカートのポケットからジッポを出して煙草に火をつける。
「声悪くならねえか」
「さあ。その辺詳しくないのよね。なってるのかもしれないけど、私は気にならないわ」
 女は答え、細く煙を吐き出した。黒塗りのカウンターに煙の影が映る。
 店内は白と黒の市松模様で統一されていた。正方形の店内は、カウンターとテーブルと椅子をどけたらチェス盤そっくりになるだろう。タナトスはぼんやりとそう思う。煙草の脂で黄ばんだ白と、演奏スペースのピアノに彩度を合わせたような黒。薄明かりと漂う煙の向こうに見える人影は、どこか現実離れして頼りない。
「ねえタナトス、私で満たされないのなら、ほかの女の子を探しなさい」
 女は美味そうに目を閉じて、煙草の煙を舌の上で転がした。
「私は、貴方のために変わったりしないわ」
「だろうな」
 タナトスは憮然として頷く。
「ときどき子供みたいよね、貴方って」
 煙の向こうで女が笑う。
「年取らねえからな、吸血鬼ってやつは」
「ねえ、ほんとのところ、貴方って何歳なの?」
 女は煙草を灰皿の上に置き、好奇心に瞳を輝かせながら身を乗り出した。
「いくつに見える?」
「そうね。十八?」
 女は灰皿の縁を軽く煙草で叩く。円筒形の灰が、灰皿の上で小さく光って崩れる。
「惜しいな。十九。あと三日で二十歳だった」
「あら、そう。じゃあもう二十だって思っていいんじゃない? 永遠に酒も煙草も非合法なんてかわいそうだものね。吸う?」
 女は笑いながら、赤い煙草の箱を差し出した。誘うように一本だけ飛び出した煙草のフィルターと、細長く書かれた「Marlboro」の字。
「吸ったって味わからないんだがな」
 タナトスはワイングラスをカウンターに下ろしながらぼやく。
「何? 私の煙草が吸えないって言うの?」
 不機嫌を装う女に、タナトスはため息をつき、差し出された箱から一本引き抜いた。
「あんたも大概子供っぽいな」
「子供の面と大人の面を併せ持ってこそ、大人になる価値があるって私は思うのよ。新しく得た分、古いものを捨ててしまうなら、トータルとしては成長してるなんて言えないんじゃないかしら?」
「そういうもんかね」
「個人的な見解だけどね」
 女はカウンターに箱を置き、代わりにジッポを取り上げて火をつける。
「ねえ、今日は月が綺麗だわ」
「何いきなり不気味なこと言い出してんだ」
 タナトスは炎に煙草の先端を近づけたまま、眉根を寄せて女を見た。
「吸血鬼流でしょ? 前触れもなくきざな台詞」
 紙巻煙草の先に灯がともる。含み笑いとともに、女は軽快な音を立ててジッポのふたを閉じた。
「春なのに、月が綺麗。だから」
 女はカウンターに肘をつき、ゆっくりとタナトスを覗き込む。
「別れましょ。そろそろ頃合でしょう?」
 タナトスは視線から逃げるように背もたれに寄りかかりながら、深く煙を吸い込んだ。
「結局、私には貴方を理解することなんてできないのよ」
 女は静かに微笑む。諦めることに慣れた者の、たくさんの物を捨ててきた者の笑みだった。
 本当のところ、この女は自分が「成長」したなんて、これっぽっちも思っていないのかもしれない。タナトスは不機嫌に瞳を伏せる。
「……する気もないんだろ?」
 女は微笑を深くして煙草の火をもみ消した。
「そうね」
 女は立ち上がり、カウンターの下にたたまれていたコートを腕にかける。
「じゃあ、帰るわ。バイ」
「ああ、じゃあな」
 出がけにバーテンと一言二言挨拶を交わして笑い合い、女は扉の向こうへ姿を消した。
「何かかけますか。聴きたい曲がおありでしたら……」
「別に、いいさ」
 気遣うように小声で問いかけるバーテンに答えて、タナトスは指先でゆらゆらと煙草を揺らす。
 薄紫色の煙が、細く天井へ上っていく。