かみなり

 雷が鳴っている。

 ギターケースを背負って商店街を歩いていたルーナは、立ち止まって空を見上げた。むき出しの肩に、雨の最初の一粒が当たる。
 心の中で「参ったな」と呟いて、ゆっくりと周囲を見回した。寂れた商店街だ。午後も八時を回ったこの時間に開いているのは、煙草臭そうな薄暗いゲームセンターと派手なピンクの看板を掲げたパブぐらい。
 自宅から数駅離れた友人の家でライブの打ち合わせをした帰り、母の日のプレゼントを探そうと、いつもと違う道筋を選んだのが失敗だった。結局良い店は見つからないし、雨には降られるし。
 自分が濡れる分には問題ないが――どうせ天使は風邪を引かない――ギターを濡らすのは避けたい。本降りになってきた雨からギターケースをかばいながら、ルーナは雨宿りできる場所を探し始めた。

 雨に濡れた髪が滴を落とし始めた頃、ルーナはふと覗き込んだ路地の前で足を止めた。狭い路地の突き当りには、ゴシック様式の教会が建っている。
 数秒考え込んでから、ゆっくりと路地へ足を踏み入れた。途端、湿ったアスファルトの匂いが、草木の匂いに取って代わる。すぐ両脇に迫っていたビルの壁が消え、代わりに現れたのは中世風の庭園だ。官能的で退廃的な意匠の石像で飾られた噴水が水を噴き上げ、そこここに置かれた怪物の像には蔓草が巻きつく。運動場が一つ入りそうな広さの庭園は、魚眼レンズを通したように歪んだ雑居ビルの壁に囲まれていた。この空間を無理矢理隙間に押し込めたために中からは歪んで見えるのだろう。曇天からはやはり本降りの雨が降りそそいでいる。時折、B級ホラー映画の演出のような雷が庭園を照らし出し、轟音を響かせる。庭園の向こうには、精緻な装飾を施された巨大な石造りのファサード。
「……無用心だな」
 わざわざ空間を歪ませて作ったのだろう『住み処』に、なんの抵抗もなく入り込めてしまったことに小さく呟きが漏れる。庭園を抜けて石段を上り、自分の身長の三倍ほどの高さがある木製の重い扉を押し開ける。自重以外の抵抗もなく扉は開き、ルーナは薄暗い教会の中へとすべり込む。石造りの建物に特有の冷たい空気が濡れた肌を包み、ルーナは小さく身震いしながら教会の中を見回した。
 信者席のベンチは、五百人くらいは楽に収容できそうな数だ。教会の両脇に配されたいくつかのくぼみには巨大な宗教画や石像が飾られ、規則正しく並んだ石柱は高い天井で緩やかにカーブを描きながら交わっている。日本にいることを忘れてしまいそうな、広大で本格的な教会だ。
 信者席を突っ切って説教台へ伸びる通路では、一組の男女が抱き合っていた。最奥のバラ窓ごしに投げかけられる色とりどりの閃光の中で、彼らはくちづけを交わしている。雷光が閃くたびに浮かび上がるシルエットは官能的で生々しい。ちらりと視線を投げれば、こちらを向いていた男性と思いがけず視線が合った。
 白い綿パンのポケットからハンカチを取り出しながら、ルーナは目を細める。
 視線が合ったのは、男が瞳を閉じていなかったからだ。黒い神父服にくせのない金髪、整った顔立ちの気障そうな男。冷えた視線のまま、ルーナに気付かないふりをしてキスを続けている。
 ――ヤな男。
 ルーナはそう結論付け、取り出したハンカチでギターケースについた水滴を拭い始めた。

 ふいに、何かがどさりと倒れこむような音がした。ルーナはギターケースを拭う手を止めて顔を上げる。
 金髪の男に上半身を支えられながら気を失っている女性が目に入る。反らされた喉もとには牙の跡が二つ、まだ血を流していた。
「何見てる」
 男は顔を上げながら不機嫌に言った。薄明かりの中でもはっきりとわかる、赤く光る瞳がルーナを見つめる。
「雨宿りを……しようと……思ったのですが。すみません。タイミング、悪かったみたいで」
 思いのほか丁寧な仕草で女性をベンチに寝かせてから、吸血鬼はルーナの方へ歩み寄った。
「……断罪」
 ため息じみた吸血鬼の台詞に、ルーナはゆっくりと首をかしげる。雨に濡れた髪が、重く肩の上を流れる。
「しねぇのかよ」
 そう。『天使』の役目は、彼らのようなこの世界に存在するはずのない者たち――『バグ』を『狩る』ことだ。
「でも……今、夜ですし」
 本当は、女性が意識を失ったら『狩り』を始めるつもりだったのに、気づけばルーナはそう答えていた。
「ああ、夜は確か力が弱まるんだったな、天使って奴は」
 吸血鬼は頬に落ちかかった髪をかき上げ、ため息混じりに言う。
「モデルがモデルですからね」
『向こう側』の光の神をもとにして、天使は作られたのだという。だから光の弱い夜間には力が弱まる。厄介な話だ。
 そんなのんきな会話を交わしている場合か、と問いかける理性を意図的に無視して、ルーナは淡々と頷いた。
 吸血鬼は両腕を組んで右足に体重を預け、左の頬だけで皮肉げに笑う。
「……なあ、お前も食われてみるか?」
 ルーナは吸血鬼の瞳を覗き込み、その中に紛れもない自嘲の気配を感じ取って視線を逸らした。
「傘を」
 逸らした視線を脇のベンチに落として呟く。
「あ?」
 吸血鬼の雰囲気が砕けたものに変わったのにほっとしながら、ルーナは続けた。
「傘を貸してもらえれば、勝手に家へ帰りますが」
 吸血鬼は深くため息をつく。
「男物しかないんだけど」
「それで良い、です」
 吸血鬼はもう一度ため息をついてから踵を返し、左奥にある聖具室へ入っていった。
 ルーナはギターケースを拭ったハンカチで自分の腕も拭き始める。水気を吸いすぎたハンカチは冷たく、あまり意味は感じられなかったが、何もしないで待つのは落ち着かない気分だ。
 ドアが開閉する音に視線を上げる。吸血鬼が傘とタオルを持って出て来た所だった。吸血鬼は大股で歩み寄り、傘を脇のベンチに立てかける。それから乱暴な手つきでルーナの頭にタオルをかぶせ、やはり乱暴に拭き始めた。
「……どうも」
 ぶれる視界の中でハンカチをポケットにしまいながら、ルーナはぼそりと礼を言った。
「なんか妙なテンポの奴だな。天使ってのはみんなどっかしらうすらぼんやりしてるものではあるが、お前は特に酷い」
 がしがしとルーナの髪を拭きながら吸血鬼は呟く。
「……あなたには、真面目に答えていると本当に吸血されそうだから」
「まあな」
 こぼれて肩へ落ちかかったタオルが、冷えた肌に暖かい。ふと脈絡なく襲ってきた感傷を抑えて、ルーナは冷静に話を続けた。
「このあたりを縄張りにしてる吸血鬼、結構厄介だって噂ですし」
「……思い当たる節がなくもないが」
 なんとなく不本意そうな声音が、タオルの上から降ってくる。
「天使と戦ったこと、あるんですね」
「まあ、何回かはな。……直接殺したやつもいる。仇、討たなくて良いのかよ?」
「……天使がバグを狩る理由は、普通は仲間意識よりも義務感と使命感に依存します」
 その『バグ』である吸血鬼のされるがままに頭を拭かれながら言う台詞ではないだろうと、冷静な自己が考える。
「だったらなおさら、お前が俺を断罪しないのは妙だな」
 吸血鬼は手を止めた。
「お前は違うのか?」
 吸血鬼が背をかがめ、真っ直ぐ瞳を覗き込んでくる。ルーナは気付かないふりをして視線を逸らした。暗示をかけようとしているかもしれない。我を忘れて、吸血鬼の意のままになるように――さっきの女性にそうしたように。
 実力的に叶わないと判断した場合など、見つけたバグを『狩らない』ことは黙認されることもある。だが、暗示をかけられるほど気を許したとなると、それはさすがにまずい。ルーナ自身が他の天使の手によって断罪されかねない。
「……タオル、どうもありがとう。洗ってから傘と一緒に返しに来ます。いつ頃なら都合が」
 顔を起こした吸血鬼は、ルーナの言葉をさえぎるようにわざとらしくため息をついてタオルを取り上げた。
「タオルはいい。傘だけ持ってけ。俺は昼間なら大概ここにいる。いなかったら適当にその辺に置いといてくれ。入り口は閉めておくが……場所がわかっていれば入り方はわかるだろ?」
「おそらく。……ありがとう……ございました」
 一礼し、髪を軽く整えてからギターケースと傘を持ち上げる。吸血鬼はさっさと背を向けて、使ったタオルを聖具室へ運んでいった。ベンチに横たえられた女性はまだ目を覚まさない。

 教会を出る。扉を閉めて一歩を踏み出した瞬間、閃光が一瞬だけ薄暗い庭園を照らし出した。音はまだ届かない。開いた傘に当たる雨音の調子もおとなしい。
 嵐はずいぶんと遠のいたようだった。
 自分よりもギターケースを守るように傘を動かしながら、ルーナは路地裏を後にする。背後で響いた轟きが、遅れて届いた雷のものなのか、それとも吸血鬼が『住み処』の扉を閉ざした音だったのか、振り向いて確かめることもしなかった。