第一章 小鳥の巣

 File-2

 開始三十分くらいで、コールとクラーヴァはほとんど気配もなく静かに引き上げてしまった。料理には目もくれずに酒を飲んでいたスパタは今はヴァレス相手にくだを巻いているし、レジーナとペクーニアは相変わらずおしゃべりに興じていた。
 せめて一通り挨拶くらいして回るべきかと思ったのだが、どうもそういう雰囲気ではなさそうだ。全員好き勝手に飲み食いしているだけで、いつもの食事風景と大差ないのではないかと思える。果たしてこれは歓迎会だったのだろうかという疑問を抱きながら、アウルは酔っ払ってご機嫌になったロビンを適当にあしらっていた。
「あるぇ〜、小鳥ちゃんがいないな」
 酔っ払いが酔っ払った口調で酔っ払ったことを言っている。
「お前もう戻って寝ろ。強くないくせに飲み過ぎだ」
「うぇーい」
 たぶん肯定の意思表示だったのだろう。やけに楽しそうなうめき声を勝手にそう判断して、アウルはロビンを引きずって食堂から脱出する。出る間際にちらりと振り返ってみたが、ヴァレスが軽く会釈をしてきただけで特に退出を咎められることはなかった。今まで受けてきた数々の荒っぽい『歓迎』と比べると、ここの歓迎会は余りにも異質だ。
 回廊まで引きずり出したところで、ロビンはへなへなと柱に寄りかかってしまった。
「お前な。そんなんで大丈夫なのか」
「ぅお〜、だいじょうぶだいじょうぶ」
 へらへら笑いながらよろよろしている酔っ払いが、回廊の柱に抱きつきながら答える。全く信用ならない。
「……いや、大丈夫じゃねえか」
 柱の冷たさで正気が戻ってきたのか、数秒後にロビンは少しだけ落ち着いた声でそう言ってため息をついた。
「正直手詰まりなんだよ。期待してるぜ、王子様」
 こちらへ向けられたロビンの表情は真摯だったけれど、身体の方はクラゲ並にぐにゃぐにゃだ。真面目に相手をする気にもなれない。
「お前はそういうふざけた呼び方を改めた方が良い」
 ずるずると廊下に伸びてしまったロビンの前に歩み寄って、アウルは呆れ返った視線を足下の酔っ払いに向ける。
「こんなところでそんな格好で寝る馬鹿があるか。さっさと寮に戻れ。寝たら死ぬぞ」
「おー、そうするー。お前は小鳥ちゃんでも追いかけろよ」
 ロビンは言いながらふらふらと立ち上がる。下らない戯れ言を言っているようだが、その真意が別にあることを察したアウルは眉根を寄せた。
「それはソラのことか」
「おうよ」
 柱に寄りかかったまま、ロビンはへらへらと片手を振る。
「……手に負えないってのはソラのことか」
 ここにアウルを呼び寄せるときに、ロビンが放った言葉だ。「手に負えないから助けてくれ」と、軽い口調の裏に本心を滲ませながらロビンは言った。
「まーな。俺には口も聞いてくれやしねえからよ。お前ならなんとかなりそうじゃねえか。さすが俺が見込んだ男」
「はっ、言ってろ」
 鼻で笑うと、ロビンも苦笑を浮かべた。
「それじゃ、俺ぁ寝るからな。後は頼んだ」
 アウルが頷くと、ロビンは満足したように柱から身体を離して廊下の壁に片手をつきながらふらふらと寮の方へ歩き出す。その足取りが自力で部屋まで辿り着けそうなものか見定めてから、アウルは格納庫《ハンガー》の方へ向かった。
 確証があったわけではない。ただ、他に適当な場所を思いつかなかっただけだ。ソラの行き先が例えば寮の自室だったなら、アウルにはどうすることも出来ない。格納庫《ハンガー》だって本当は自由に出入りして良い場所ではないのだろうが、少なくともロビンが追いかけろというからにはアウルが知っている場所だろう。来たばかりのアウルは、寮と食堂以外にはまだ格納庫《ハンガー》にしか足を踏み入れていない。
 そんな理屈を頭の中に並べながら、回廊の扉を抜けて礼拝堂のドームへ足を踏み入れる。夜の格納庫《ハンガー》には、どこか深海を思わせる、重くまとわりつくような空気が充満していた。
 アウルは先ほどソラが座っていた飛空艇の方へ真っ直ぐ進んでいく。思った通り、ソラはそこにいた。さっきと同じように飛空艇の翼の上に座った少女は、膝を抱えたままぴくりともしない。
「ソラ」
 無数の星を散らした紺碧の空に浮かび上がる少女の華奢なシルエットに向かって呼びかけると、その肩が微かに震えた。
「……アウル、さん」
 振り向いたソラの瞳が、困惑に揺れているのがわかる。闇の中でもはっきりと見て取れる。
「こんなとこにいていいのか?」
 低く問いかけると、ソラは静かに目を伏せた。どこか泣き出しそうな気配にアウルはしくじったかと舌打ちしたい気分になる。
「……ここ以外の、どこに」
 弱々しい響きに、アウルは小さくため息をついた。寮には戻りたくなさそうだし、かといってこのまま放っておくのも気が引ける。そんな葛藤の末に、アウルは黙ってしまったソラに低く呼びかけた。
「そっちに行ってもいいか」
 弾かれたように顔を上げたソラが、目を丸く見開いてアウルを見つめる。アウルはその瞳を見つめ返したまま、じっと返事を待った。迷うように青い瞳が揺れ、そっと伏せられてからまたアウルを見る。
「ど、どうぞ」
 居心地悪そうに場所を空けたソラの隣に、アウルは軽く勢いをつけて飛び乗る。そこに座ると、崩れ落ちた天井の隙間から群青の夜空がよく見えた。満天の星空だ。天を割る星の河も、古くから飛行機乗りたちに『北の女王』と呼ばれて道しるべにされてきた星も、手が届きそうなほど近くに見える。
「良い眺めじゃねえか」
 張り詰めた空気をほぐすようにわざと軽く言ってみると、ソラがほっと息を吐きながら頷いた。
「眠れないときは、ここに来るんです」
「ここで寝てたりしねえよな……?」
 あり得ないとは言い切れない。戦闘艇をベッド代わりにするなんて常識では考えられないが、ソラが常識的だとも到底思えなかった。
「えっと、たまに……」
 予想通りの返答に、アウルは内心頭を抱える。
「眠れるのか? ここで」
「はい」
 夜空を見上げながらどうにか平坦な調子で尋ねると、ソラはあっさりと頷いた。
「小型飛空艇《バード》の中で、夢を見るんです。空を飛ぶ夢、を」
 ふっと夜空を見上げたソラの横顔が泣きそうに歪む。まるで置き去りにされた子どものような頼りなげな目が、縋るようにきらめく星を見上げる。
「夢の中で、私は一人で……」
「おい」
 このまま喋らせておいたら泣きそうだと気付いて、思わずアウルは遮った。ソラははっと我に返ったように目を瞬かせ、不思議そうにアウルへ向き直る。
「大丈夫か?」
 尋ねてしまってからこれはレクスに繋がる手がかりだったかもしれないと気付いたが、後の祭りだった。それにどちらにしろ泣いている女から情報を引き出せるほどの話術が自分にあるとも思えない。泣き出さずにいてくれるならそれが一番だ。
「すみません。変な話、しました」
 夢から覚めたばかりのような茫洋とした視線に見つめられて、アウルは居心地の悪さに思わず目を逸らした。
「まったくだ」
 吸い込まれそうな夜空の美しさに、ふと肌寒さを覚える。
「……長居すると身体が冷える。教官に風邪引かれちゃ俺が困るんだ」
「教官?」
 そこかよ、と言いたくなったがそこはなんとか堪えて、アウルは身体の下の翼を軽くノックした。
「お前以外の誰が俺にこいつの扱い方を教えるっていうんだ?」
 ソラの表情が納得したものに変わったのを確認して、アウルは立ち上がる。
「寮に戻るぞ」
 これ以上会話を保たせられる気はしなかったし、何より明日から訓練を始めるつもりなら、本当にそろそろ寝た方が良いというのもあった。
「は、はい」
 素直に立ち上がったソラに、密かにほっとする。ここで寝ると言い出されたら扱いに困るところだった。そのまま飛空艇の翼から飛び降りて少し歩いたところで、ソラがついてきていないのに気付いて立ち止まる。振り向くと、ソラは小型飛空艇《バード》の鼻先に額を寄せて目を閉じていた。まるで動物が挨拶し合っているようだ。
「うん……そうだね」
 親しげな囁きが自分に向けられたものでないことに、アウルは眉根を寄せる。
「ありがとう、アル」
 何の疑問もなく飛行機に話しかける少女に、思うところも言いたいこともいろいろあったが、アウルはそれらをすべて呑み込んだ。
 ここにいる人々は、皆どこかしら他の人間から浮き上がっている。誰と誰をとっても異質で、馴染んでいない。誰一人として、だ。
 一人だけ賑やかなロビン、女王として君臨するレジーナ、偏屈を絵に描いたようなスパタ、それぞれ別の意味で他人に心を開きそうにないコールとクラーヴァ、軍属とは思えないペクーニアと、逆に一人だけいかにも軍人然としながら物腰は紳士的なヴァレス。
 よくぞこれだけバラバラな人間を集めたものだと感心してしまうくらいだ。
 その中でも、ソラはひときわ「ひとり」であるような気がする。初めてここで出会ったときから、彼女はどこか現実離れした空気を纏っていた。人間よりも無機物と――飛行機と話していても不思議はないような。
(馬鹿言え)
 アウルはそう心の中で呟いて、自分の思考を切り捨てる。変人なのは間違いないが、それと同じくらい間違いなくソラはただの女の子だ。さっきの歓迎会中に聞こえてきた話からすると、軍属ですらない義勇兵。つまり少尉だの中尉だのという肩書きを持たない、民間人の少女ということになる。
 だからこそ最高機密に属するはずの小型飛空艇《バード》の操縦者であることが異様なのだが、それは今考えることではないだろう。彼女が何者であろうと構わない。カナリアに繋がる何かが見つかるのならば。
 そう考えながら、奇妙な「挨拶」が終わるのを待つ。すぐにソラは顔を上げて、黙ったまま待っていたアウルに視線を向けた。
「すみません」
「いや」
 奇妙な習慣を持っている人間はもといた部隊でもいなくはなかった。紙一重の幸運で命を拾ったり落としたりする軍人は、験担ぎをしたがる傾向がある。これもその類なのだろう。ソラの挨拶に答えるような気配を感じたのは、気のせいだったと思うことにする。明日から乗り込む予定の飛空艇に対して、妙な想像をしたくはなかった。
「戻るぞ」
 もう一度告げると、ソラは今度は素直についてくる。
「明日の予定だが」
 少し歩調を緩めて、話しやすいようにソラと並ぶと、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「訓練が出来るなら、早い内に慣れておきたい」
「わかりました。じゃあ、朝食が終わった後で良いですか?」
「……ああ」
 またしても軍隊とは思えない時間指定だ。事前に教えておいてくれなかったロビンには少々言っておきたいところがあるが、ここはそういうところなのだと早めに受け入れておいた方が良いだろう。
 そこからは会話もなく、寮までの道を歩いた。お互い話すことに慣れていないのはなんとなくわかる。
「アウルさん」
 寮の入り口に辿り着いたところで、ソラが控えめに声をかけてきた。立ち止まって一歩後ろにいるソラを振り返る。
「あなたは、飛べると思います」
 妙に真剣な表情でそう告げたソラに、なぜかぞくりと恐怖に似た感覚が背中を走り抜けた。
「……そうじゃなきゃ困る」
 真っ直ぐな瞳から僅かに視線を逸らしながら呟くと、ソラは困ったように微笑する。
「そうですね」
 シャレになっていない。ソラを促して寮へ入りながらそう考える。なんせ相手は、テストパイロットを五人殺していると噂の、操縦システムも外部には一切公表されていない飛空艇だ。
 明日のことを思うと、少しばかり憂鬱だった。