第一章 小鳥の巣

 File-4

「で、シミュレータの自動操縦モードを途中で解除したのはお前なんだな?」
 地上に出て、本物の小型飛空艇《バード》の前まで来たとき、アウルはおもむろに口を開いた。先を歩いていたソラも、アウルが立ち止まったのに気付いて足を止める。
「はい」
 質問はちゃんと耳に届いていたらしい。ソラは何も疑問に思っていない様子で、素直に頷いた。僅かな苛立ちを感じながら、それでもアウルは努めて穏やかに質問を続ける。
「理由は?」
「飛べると思ったから」
 あまりにもあっさりした答えに、アウルは思わず深いため息をついてしまった。
「あのなあ。そういうのはせめて一言相談してからにしろよ」
「相談?」
 まさか相談という言葉の意味を知らないわけでもないだろうに、ソラはまったくわかっていない様子で小首を傾げる。
「ああ。独断専行は事故のもとだ」
 不機嫌さを隠せなくなってきたアウルに、ソラは初めて驚いた表情を見せた。
「アウルさんは、飛びたくなかったんですか?」
「そうじゃない」
 一体誰がどう育てたらこうなるのか、親の顔が見たいとはこういうときに使う言葉なのかと半ば自棄になって考えながら、アウルは両腕を組む。
「俺とお前の判断は違う。いつも意見が一致するとは限らない。そこをわきまえろって言ってるんだ」
 どう見ても教育を間違えたとしか思えない世間知らずの少女に言うのは酷な気もしたが、基地の他の人間は言おうとしないのだろう。そうでなければこんな風になっているはずがない。
 思った通り、厳しい意見をぶつけられたソラは、目に見えて意気消沈した。
「……すみません」
 そこまで険しい口調にしたつもりはないが、感情を素直に表に出すにしてもソラの落ち込みようは尋常ではない。やはり、怒られるのは初めての経験のようだ。
「次から気をつけてくれ」
 これで怖がられるようになっても困るので、アウルは極力軽い調子になるように言って、ソラの頭を軽く撫でてやった。
「散歩行くぞ。付き合え」
 何かを恐れるようにこちらを見上げたソラの瞳が、みるみるうちに輝きを取り戻していく。
「……うん!」
 わかりやすく顔を輝かせるソラにどう反応したものか迷って、結局アウルは肩をすくめた。
「で、どこまでだったら出て良いんだ?」
「案内します!」
 元気よく踵を返したソラの背中を、複雑な気分で見やる。懐かれているのは結構なことだが、なぜ彼女がアウルにやたら懐いているのか、その理由が不可解で少しばかり気持ちが悪かった。

 地上で自由に出歩けるのは僧院の塀の中だけだと思っていたのだが、その外側にも二重に城壁が張り巡らされていて、そこまでは出歩いても良いようだった。小さな裏木戸から出た裏庭は、ろくに手入れもされていない荒れ果てた農園だ。丈の高い雑草が生い茂っていて、その合間に半分くらい立ち枯れた木が等間隔で並んでいる。そのせいで視界は悪いが、ずいぶんと広い裏庭だった。草木の向こうに遠く外側の城壁が見える。
「ここ、あんまり来たことないんです」
 案内してきたにもかかわらず、ソラはそんなことを言いながらきょろきょろと周囲を見回した。
「訓練場だったのかな……?」
「果樹園の跡だな。ほとんど枯れてるようだが」
 並んでいる木の樹形と枯れ落ちていない葉の形から、アウルはそう判断する。
「果樹園? 何をするところですか?」
「何をって……育てるんだよ。果物を」
 脱力したくなるのを堪えながら、アウルは辛抱強く答えた。
「くだものを……そだてる……」
 なぜか呆然と呟くソラにますます頭を抱えたくなる。薄々わかってはいたが、これはひどい。
「お前まさか果物が工場であの形のまま生産されてるとか思ってるんじゃないだろうな」
 ソラは少し考え込んでから、無邪気に小首を傾げる。
「考えたこと、ありませんでした」
「自分が食べるものについて考えたことないのか」
 なさそうだとは思う。そこからしてもう、どうしようもない感じだ。
「ペクーニアさんが……いつも作ってくれるから……」
 ペクーニアが台所に入ったら空中から魔法のように食べ物が現れるとでも思っていたのだろうか。いや、むしろそこまでも考えていないのかもしれない。
「リンゴか……まだ生きてるやつもあるな」
「生きてる……」
 のんびり歩み寄って、不格好で小さく青いが、それでもどうにか果実を実らせている木の一本に手を添えると、ソラも隣にきて樹上を見上げた。
「この木が、リンゴになるんですか?」
 これがロビン相手だったら速攻で「ならねえよ」と返しているところだが、相手はソラだ。どう説明するべきか、アウルは十秒ほど考えこんだ。
「アウルさん……?」
 黙ったまま固まってしまったアウルを、ソラが不思議そうに見上げる。その真っ直ぐな瞳を見返して、アウルはまた考え込む。面倒事を抱え込む余裕はない。わかっているのだが、これから先この少女と上手くやっていくことを考えると、放って置くわけにもいかない――ような気がする。
 くそったれ、と心の中で毒づいてから、アウルは決意を固めた。
「ソラ、こいつを育ててみるか?」
「私が……?」
 目を丸くして瞬かせるソラに、アウルは静かに頷く。
「今年はもう間に合わねえだろうし、食えるものが出来るかはわからねえけどな」
「私が、育てる……」
 ソラの瞳がふっと逸れて、アウルが手を添えたままの木を眩しそうに見上げた。まるで何かに憧れるように。
「やってみたいです」
 迷いのない答えに、やはりソラには好奇心があるのだとアウルは確信する。にもかかわらず彼女がこれだけものを知らないのはなぜなのか。
 間違いなく貧乏くじを引いているのだろうとうんざりしながら、アウルは周囲を見回した。
「つっても、ここ全部は無理だな。ほとんどは完全に枯れてるようだし」
「私、この子が良いです」
 すかさずソラが答える。その目はまだ一心に、最初にアウルが触れた木を見上げている。
「あと……」
 すっと視線を動かしたソラは、近くにあったもう一本に目をとめて微笑んだ。
「その子」
「リンゴを実らせるには二品種必要……って知ってるわけないよな」
 今までのやりとりで、そんな知識がソラにあると思えるはずもない。偶然だろうと思っておくことにする。葉の色が微妙に違う二本の木を見比べて、アウルは頷いた。
「じゃあまずは、来年の収穫を目標に手入れしていくか……ああ、でも一応は少佐に許可取っといた方が良いのか?」
「少佐? レジーナですか?」
「ああ」
 答えながら、そういえばレジーナは自己紹介のときも基地のメンバーを紹介するときもほとんど階級に注意を払っていなかったなと思い出す。
「飛ぶときは許可を取れって言われてるんですけど」
「リンゴを育てたいとは言ったことないんだろ」
 ソラがここまでものを知らないのは、上層部による教育方針である可能性もあった。その場合、勝手なことをしては動きが取りづらくなるかもしれない。
「はい」
 アウルの内心など推し量ることも出来ないだろうソラは、素直に当たり前の答えを返してくる。
「だったら聞いておいた方が良いな。気は進まねえが」
 赴任一日目にして任務と全く関係のないことをしようとしていることについて、基地の最高責任者がどう思うかはわかったものではないが、乗りかけた船だ。今さらソラにやっぱりやめようなんて言えるわけがない。
 やっぱり貧乏くじだったなとため息をつきながら、アウルは僧院の方へ引き返した。

「ほう。リンゴを」
 明らかに面白がっている様子で、レジーナは口角を上げた。レジーナの執務室にはソラも一緒に来たのだが、先ほどからアウルの後ろで一言も口を利いていない。レジーナはそれを気にしたふうもなく、仮面越しの視線をアウルに投げて寄越す。
「来たばかりでずいぶんと面白いことを考えるな。ブルーバード少尉」
「恐縮です」
 それは嫌みか、と心の中だけで毒づきながら、アウルは不機嫌に返した。
「こちらとしては大変に助かる話だ。ソラの扱いについては、私も少々持て余していてね」
「持て余す?」
 ――あれだけ素直な子どもみたいな少女を?
 疑問は顔に出ていたのだろう。目元を隠されたままのレジーナの表情が少しだけ引き締まる。
「そうだ。口を利いてくれるようにはなったが、まだまだ私には懐いてくれなくてな。それに私も子どもは苦手だ」
 本人がいる前でそんなこと口にするなよと言いたかったが、アウルは眉根を寄せただけで言葉は呑み込んだ。
「ソラ。お前がやりたいのなら私が反対する理由はない。ただし、訓練に支障を来さない程度にな」
「うん、わかった」
 ソラが短く答えて、それで話はついてしまった。この基地ならあり得るとは思っていたが、こうも簡単にことが運ぶとやはりまだ困惑してしまう。
「少佐、一つ聞いておきたいんですが」
「レジーナでいいぞ。質問は何だ?」
 女王様はこの基地を軍隊らしく運営する気などさらさらないらしい。郷に入ったからには郷に従った方が良いのだろうが、それにしても理由も原因もわからない現状では何か罠にかけられているような不信感が拭えなかった。しかし今は藪をつつく時ではないだろう。アウルはとりあえず不信感を横に置いて質問を続ける。
「あの庭にリンゴを植えたのは誰か知りたいんですがね」
 質問を聞いた瞬間、レジーナの笑みが少しだけ強張った気がした。そういう質問を予想していたから、彼女は仮面を外さなかったのかもしれない。
「秘密の花園の話を知っているか?」
 すぐに口元の笑みを取り戻したレジーナは、静かにそう問い返してくる。アウルが無言で首を横に振ると、機械仕掛けの女王は人間くさく肩をすくめて見せた。
「妻に先立たれた男が、その妻が死ぬ原因になった庭に鍵をかけてしまうという、湿っぽい話だ」
「裏庭に鍵なんぞかかってませんでしたがね」
 ろくでもない比喩に半ばうんざりしながら答えるけれど、レジーナはその皮肉にはもちろん応じてくれない。
「鍵をかけたのは自分が行きたくなかったから。そして誰にもその思い出に触れてほしくなかったからだろう」
 しかも鍵をかけたのが誰なのかを教えてくれる気もないようだ。話にならない、というのがアウルの正直な感想だった。
「この基地にはわざわざ裏庭に行こうなんて酔狂を起こす人間はいなかったからな」
 レジーナの真意が読み取れなくて、アウルは落ち着かない気分になる。触れてほしくない所だったのか、だとしたら何故許可を出したのか。それとも本当は触れてほしいのか。だからこんな回りくどい話を聞かせたのだろうか。
 どちらに転んでも、面倒くさいことこの上ない。ますます多難な様相を呈する前途に、アウルは暗澹たる気持ちになった。