第二章 凪の日

 File-3

 翌日は平穏な一日だった。海は穏やかな波をたたえ、空は青く澄み渡っている。神経接続による脳への過負荷を回復するため昼過ぎまで寝ていたアウルは、食堂で遅めの昼食を取っていた。ソラはアウルと違って既に小型飛空艇《バード》との神経接続には慣れているので、今日もいつも通りに起床して訓練をしているらしい。元気だな、とどこか靄がかかったような頭で考える。眠いというよりは、とにかくぼんやりする。
「ここにいたか」
 艶のある女の声が聞こえて初めて気配に気付いた。こりゃ使い物にならねえな、と思いながら、アウルはゆっくりと振り向く。玉座ごと食堂に入ってきたのはレジーナで、その後ろには数歩離れてソラも控えていた。
「ブルーバード少尉、カタリナが来ているぞ。会ってくるか?」
「必要ないでしょう」
 ここに来るまで乗っていた機体だ。馴染みはあるが、搭乗するわけでもないのに見たところで意味はない。予備機として運び込んだのだろうが、整備出来る者がいないという問題が解決していない以上出番はないだろうし、わざわざ司令官が伝えに来るほどのこととも思えなかった。
「冷たいな。昔の相棒だと言うのに」
「浮気したって良いことないんでね」
 それより今は小型飛空艇《バード》の方に集中したい。擬人化を続けるレジーナに合わせてそう答えると、レジーナの唇が満足そうに笑んだ。
「一途で結構なことだ」
 レジーナは微笑んだまま、ずっと背後に控えていたソラへと振り返る。
「スクッラも会ってみるか?」
 なぜかソラは拗ねたように視線を逸らして、首を横に振った。
「……いい」
「おや? 珍しいな。空を飛ぶものなら何でも興味を持つと思ったんだが」
 そのわざとらしい言い方に、アウルは嫌な予感を覚える。ソラは視線を逸らしたまま、「訓練があるから」と呟いて食堂を出て行った。
「あいつ、カタリナが飛行機だって知ってるんですか」
 ほとんどどんな答えが返ってくるか確信しながら、アウルはあえて尋ねてみる。
「そういえば言い忘れていたな」
 あからさまに芝居がかった答え。わざとだ。間違いない。しかも故意にこうしているのだと、アウルにわざわざ教えようとしている。どういうつもりなんだと顔をしかめるアウルに、レジーナはまた艶やかな笑みを浮かべた。
「お姫様は拗ねてしまったようだ。追いかけてみたらどうかな? ナイト殿」
 言葉の調子とは裏腹に、威圧するような気配を感じる。アウルが逆らうことなど全く想定していない調子だが、逆らえばろくなことにはならないぞという警告でもあるのだろう。
「……女王様のご命令とあらば」
 あまりにも下らないごっこ遊びだとわかっていて、そう答えるしかなかった。

 なぜもやもやした気分になるのか、自分でもよくわからない。以前同じような気分になったのは、レクスがいなくなった時だ。それは『悲しい』という気分なのだと教えてくれたのは確かヴァレスで、「飛べば忘れられるさ」と言ってくれたのはレジーナだった。
 その言葉通りに、ソラは飛んだ。灰色の雲を突き抜けて青空の下へ出れば、もやもやした気分を雲と一緒に一気に翼の下へ置き去りに出来るような気がして、ずいぶんと荒れた飛び方をした。自分でもひどいことをしている自覚はあったけれど、スパタの怒りは予想以上だった。軍紀違反の単独飛行、機体の状態を考えない無茶なGのかけ方。
 そこまでの飛び方をしたいほどではないけれど、でもやっぱり飛びたい。ほんの三十分ほど飛ぶだけで、このもやもやした気持ちは空に溶けて消えるだろう。そう思えるから。
 でも今は小型飛空艇《バード》はメンテナンス中で、そんなときに飛びたいなんてわがままを言いだしたら間違いなくスパタの雷が落ちる。そういうときソラは、歌うことに決めていた。
 いつもの格納庫《ハンガー》ではなく、最近りんごの世話をするためによく訪れている裏庭に出る。りんごの木の下に座り込んで、ソラは静かに目を閉じた。
 ゆっくりと息を吸い込む。歌は地上にいるときでも、ソラを一瞬で空へと連れて行ってくれる。

  空の向こうに何があるの?

 いつも、ただ歌い始めるだけでソラの目の前に青空が広がる。地上にいることを忘れられる。そのはずだった。

  鳥たちの目指す楽園
  常春の聖域

 でも今は、なぜか心のどこかが地上を離れてくれない。

  忘れられたエデンの……

 歌が途切れる。
「どうして……」
 どうして、飛べないのだろう。目を開いて顔を上げると、木漏れ日の向こうに青空が見える。それがひどく遠く感じられる。
 飛べない。この身体は飛べない。鳥のような翼を持たない、重たくて自由にならない、地上に縛り付けられた、人間の身体。
 もどかしくなって、ソラは膝を抱えた。もやもやした気分は晴れてくれない。風が吹いてくれるのを、待っているような気がする。もやもやを吹き払って、ソラを大空へと運んでくれるような、強い風を。
「ソラ」
 声と同時に視界へ入ってきた人影に、ソラは目を瞬いた。
「アウル」
 いつも通りの気怠そうな表情でソラを見下ろすアウルは、それが礼儀だとでも思っているかのように微かに眉をひそめる。
「歌ってたのか」
「……うん」
 アウルはさらに眉根を寄せて、何かを探すように辺りを見回した。その迷うような姿を、ソラはじっと見つめる。それに気付いたアウルは、視線を避けるようにソラの隣に腰を下ろした。
「その歌の言葉は」
 意を決したように口を開いたアウルは、けれどまたすぐに沈黙に戻ってしまう。アウルが何を聞こうとしているのかわからなくて、ソラは戸惑った。自分の思考に沈んでいるようなアウルの横顔をじっと見つめる。
 続きが何なのか、聞いてしまって良いのだろうか。飲み込んだ疑問について聞かれることを、アウルはどう思うだろうか。望んでくれるだろうか。
 考えているうちに、なぜか肩の辺りに不思議な重さを感じ始める。今|小型飛空艇《バード》に乗っても飛べないかもしれない。そんな重苦しさに、ソラは思わず大きく息を吸い込んだ。
「どうした?」
 アウルに横目で問いかけられて、今度はソラが逃げるように視線を逸らす。
「……わかりません」
 そう呟いて、抱えた膝の先の地面を見つめる。アウルは重ねて問いかけては来ない。何か言いたいことがあるはずなのに言葉が見つからなくて、ソラはぎゅっと唇をかみしめた。どうしたら言葉が出てくるのだろう。言葉が必要だなんて思ったこともないのに、今は痛烈に言葉が欲しい。
「アウル」
 名前を呼んでみる。それだけが唯一、ためらわずに口に出せる言葉だった。声を出したことでつかえが取れたように、次の疑問があふれ出してくる。
「アウルはどうして……ここへ来たの?」
 緊張しながら吐き出した言葉に、アウルは小さく肩をすくめた。
「さあな」
 そうやって切り捨てられてしまうと次の言葉を継ぐことが出来なくて、ソラはどこか落胆しながら俯く。他の言葉が欲しかったのかもしれない。でも、それが何だったのかはわからない。
「いや……」
 その様子に気付いたのか、アウルはため息をつきながら首を横に振った。
「歌が聞こえたからだ」
「歌……?」
 そういえば、初めて出会った時もアウルは歌のことを何か聞こうとしていた気がする。
「歌、気になりますか?」
 口に出した問いがなぜかしっくり来ない。他に聞きたいことがあるはずなのにそれが何だかわからなくて、ソラは答えを探すようにまたじっとアウルの横顔を見つめた。
「さっきの歌……俺の故郷の言葉だ。お前が同郷だとはとても思えねえが」
 アウルは言葉を切って、迷うように眉根を寄せる。
「……どこで覚えたんだ?」
 絞り出すような疑問が真剣なものだとわかるから答えたいのに、ソラの中には答えがない。
「……わかりません」
 答えてから思い出そうとする。気にしたこともなかった己の過去。レクスと出会う前の自分。
 でも、空白だ。歌は思い出せるのに、歌っていた人の声すらも思い出せない。いつだって歌は、声にならない声でどこか遠くから響いてくる。
「わからないけど、飛ぶときはいつもあの歌が聞こえている気がします」
 小型飛空艇《バード》に乗って飛び始める前のことはほとんど覚えていない。空へ駆け上がり、大空に翼を広げた。その瞬間の喜びが最初の記憶だ。その前のことはわからない。わからないけれど、たぶん、空を見上げていた。その空を飛びたいと、ずっと思っていた。
「歌が聞こえると、自由になれるんです」
 自分が地上に縛り付けられた、不自由で不格好な人間であることを忘れられるから。
「自由、か」
 遠い空を見上げたまま、アウルはさらに眉根を寄せた。ソラに『悲しい』という言葉を教えたときのヴァレスと似た表情だった。
「飛んでいるとき、お前は自由なのか」
 静かに尋ねる声の雰囲気も、不思議と似ている。
「……うん」
 悲しさについて教えてくれたヴァレスが何か悲しいことを思い出していたのだとしたら、アウルも今、何か悲しいことを思い出しているのだろうか。
「俺は自由に飛んだことなんてねえけどな」
 アウルは中空にため息を放つようにそう呟く。
「第一、その辺の鳥だって自由なわけじゃない。飛べなくなった鳥はあっという間に補食されちまう」
 なぜか呼吸が苦しくなって、ソラはアウルに気付かれないように無理矢理息を吸い込んだ。
「飛ばなきゃ生きていけない。だから飛ぶんだ。それは自由とは言わねえだろ」
「だったら私も……自由じゃない……?」
 飛ばなければ生きていけない。それはまさしくソラ自身のことだ。そんなふうに考えたことは、今まで一度もなかった。
「そういう自由を、お前は欲しいと思うか?」
 いつの間にかアウルの眉間にあった皺は消えていて、彼はひどく穏やかな調子で話している。
「誰にも命令されず、誰にも邪魔されず、どこに行くためでも戻るためでもなく、ただ飛んでみたいと思うか」
 それはひどく恐ろしいことのように感じられて、ソラは自分の指先がいつの間にか冷たくなっていることに気付いた。何かが怖いということはわかるのに、それがアウルからもたらされたものだということもわかるのに、その横顔から視線をはがすことが出来ない。
「俺は時々そうしたくなる」
 無表情に吐き捨てたアウルを見つめながら、ソラはどこまでも自由に飛んでいく自分を夢想する。とても幸せなことに思えるのに、その幸せはどこか冷たくて怖い。アウルは自由になったら、そんな風にどこかへ飛んで行ってしまうのだろうか。
 ソラは俯いて膝を抱える。
 そうなってしまったら、自分はきっと悲しい。レクスがいなくなってしまったときと同じように。
 だからこの人を自由にしたくないと、なぜか痛いような心地がする胸の奥で、ソラは思った。