第一章 The moon is the sea

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 エヴァーグリーン本部、隊員寮の一室で、レルティは乱暴な手つきで荷造りをしていた。
「とにかく、迅斗が水の星に行っちゃったにしろ別のところにいるにしろ、状況を一番良くわかってそうなのってライファちゃんじゃない。私は行くわ、一人でもね」
 レルティは早口でまくしたてながらも、シンプル・イズ・ベストを体現したような簡素なベッドに乗っかっているボストンバッグに次々と服やら洗面用具やらを放り込んでいく。両腕を組んでその様子を見下ろしながら、アクアは苦い表情を浮かべた。
「待機命令は無視するのかい? 帰ってこられなくなるよ」
「そしたらまたエクスティリアンに戻るだけでしょ」
 レルティはぶっきらぼうに言い捨てる。
「一時の感情に流されて、今のこの地位を放棄するって? どう考えても後悔する羽目になる。考え直しな、レルティ・ロンリエ」
 アクアが肩に掛けた手を、レルティは身をよじって振り切った。
「迅斗は私の大事な人なの! エヴァーグリーンよりもずっと大事なんだから!」
「そりゃ情熱的で結構だけどね、はっきり言ってあんたが単独で行動するより、エヴァーグリーンの情報網を使って捜索した方がよっぽど効率的に坊ちゃんを見つけられるんだよ。そこんとこわかってるのかい!?」
 手を振り払われたアクアは不機嫌にレルティを見下ろす。レルティも剣呑な視線でそれを受け止めた。隊員寮の一室に静かな緊張感が満ちる。
 沈黙を破ったのは内線の呼び出し音だった。アクアは一つため息をつくと、緊張を解いて受話器を取り上げる。
「はい、こちらナナミ・チーム……」
『あ、アクアさん、今そこにレルティさんもいますね?』
 受話器の向こうから、ノエルが珍しく早口で尋ねかけてきた。
「ああ、いるよ。今のところはね」
『ああそうですか。いや、間に合って良かった。任務が入りましたんで、しばらく引き止めておいてくれませんかね。五分以内にそちらに行きますので』
 ノエルは返事も聞かずに通話を切り、アクアはボストンバッグの傍らに腰を下ろして不機嫌にこちらを見上げているレルティに再び視線を落とす。
「任務が入った。五分以内にノエルが来る。それくらいは待てるだろうね?」
「なんで待つ必要があるのよ?」
 レルティは相変わらずの喧嘩腰で答えた。
「あるさ。任務で外に出ることができれば、あんたがいなくなったことも少しの間ならごまかせる。あたしはその方が良いね。あんたを追いかける羽目になるなんて冗談じゃない」
 考え込むような間を少し置いてから、レルティは肩をすくめる。全くしょうがないなあ、という呟きとは裏腹に、機嫌はだいぶ直ったようだった。

 アクアに内線で呼び出されたカイラスに遅れること三十秒。アクアとレルティに割り当てられた隊員寮に、ノエルがようやく現れた。いつも座っている小さなソファに腰を下ろし、二、三回咳払いをしてから話し始める。
「フェルゼン様は今動きが取れないのだそうです。水の星から戻ってくるとき、ゲートがあんな状態でしたから、それを安定させるのにイディアー能力を限界まで使用しなければならなかったとかで。カフティア指令も離反してしまいましたし、エヴァーグリーンが体勢を立て直すにはまだ時間がかかりそうですね。そちらの事務処理に忙殺されているというのも動けない理由の一つだそうですが、こ」
「だー! だから任務って何なのよ!? フェルゼン様のことなんてとりあえずどうでも良いんだってば! どうせ雲の上のひとなんだからさー」
 恐らくノエルは筋道を立てて説明したかったのだろうが、いつにも増して気が短くなっているレルティはとっとと切れた。
「え、えーと。レルティさんはライファさんのところに行って話を聞きたいとおっしゃってましたよね?」
 レルティに詰め寄られ、その勢いに押されるように身体を引きながら、ノエルは慌てて本題に入る。
「うん、言った。そろそろ出発したいんだけど」
「いや、ですから僕もその意見に賛成なんです。あの場にいた人間で唯一無事が確認されているゴートさんは、イディアー能力が暴走した時点ではすでに意識を失っていたらしいですし。他に手掛かりがあるとしたら、ゲートの作用について経験的にわかっているはずの彼女でしょう」
「で?」
 アクアはかすかな期待を込めて先を促す。
「ですから、とりあえず、ライファさんの再捕獲の任務を受けてきました。これでしばらくは自由に動けます。他のチームがライファさんを捕まえに来ることもないでしょうから、話し合いを邪魔される心配も軽減できますよ」
「ノエル〜、ありがとう!」
 レルティは詰め寄った体勢からいきなりノエルに抱きついた。
「もー、あんたがそんなに頼りになるだなんて考えてみたこともなかったわ!」
 ばしばしと背中を叩かれて、ノエルは渋い表情になる。
「……誉めてるふりして、実は失礼なこと言ってませんか?」
「あ、わかる?」
 レルティはさっと身体を離すと、締まりの無い表情で笑いながら頭をかいた。
「わかりますとも」
 なんだか切なげに頷くノエルに、アクアは表情をゆるめる。
「ははは、じゃあ行く準備でもしようか。任務だったら全員行けるからね」
「……さっきまであんなに反対してたくせに」
 レルティが振り向いて半眼で呟いた。
「反対する理由が消え去ったからだよ。あたしだって坊ちゃんのことは心配なんだから」
 男性陣が準備のために退室するのを横目に見ながら、アクアもまたさっきのレルティにならって荷造りを始める。
「ま、そりゃそうよねー、なんてったって、迅斗は私たちのリーダー、なんだから」
 得意気にふんぞり返るレルティに、アクアは苦笑しつつも頷いた。

「ノエルさん!」
 出発の準備のために部屋へ向かう途中、ノエルを呼び止めたのは桔梗だった。
「迅斗は……無事、なんでしょうか」
 桔梗は両手を胸元で握り締め、せっぱつまった調子で尋ねる。
「さあ、僕の口からはなんとも……」
 ノエルは極力柔らかい調子で答え、微笑を浮かべた。
「わかり次第連絡しますよ。じゃあ、これから任務の準備をしなければならないので」
「はい。……ごめんなさい、お時間をとらせてしまって」
「ははは、謝られることないですよ。ご心配なさるのは当然のことですから」
 軽く笑って答えると、桔梗もどうにか弱々しい笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
 言葉尻にかかるように、いきなり電子音が響き渡った。
「ああすみません。僕です」
 ノエルはポケットから通信機を引っ張り出す。その拍子に通信機についていたストラップの糸が切れて、その先のロケットが床へ落ちた。ノエルは一瞬顔をしかめたが、拾い上げようとはせずに天井のアンテナの方に通信機を動かす。どうやら電波の調子が悪いらしく、上手く相手の言葉が聞き取れない。桔梗はノエルの代わりに身をかがめ、床にぶつかった衝撃で開いてしまったロケットを拾い上げた。
『あ、ノエル? 私、レルティだけど』
 通信機の向こうから少しだけ猫をかぶったレルティの声が聞こえる。
「なんですか?」
『迅斗の捜索ってどうなってるの? 私たち以外でさ』
「手掛かりが全く無いですからね。積極的に行われているわけではないです。顔写真を貼り出して見かけたら連絡くださいとか。そのくらいで」
『そっか。うん、まあ、わかった。じゃね』
 通信が切れる。ノエルは通信機をポケットに放り込んで、桔梗に右手を差し出した。桔梗は丁寧な仕種でノエルの右手にロケットを載せる。
「似ておいでですけど……妹さん、ですか?」
 のぞいてしまった気まずさからか、桔梗の視線はノエルからわずかに外れていた。
「ええ。水の星移住計画に参加しまして」
 ノエルはいつもどおりの笑顔で頷く。しかし、その言葉の意味するところを悟った桔梗は、さっと顔色を変えて口元を抑えた。
「あ……! ごめんなさい、私……」
「嫌だなあ、謝られることないですって。ご存知なかったでしょうから」
 ノエルは苦笑交じりに片手を振って歩き出す。
「じゃあ、これで」
「ええ、お気をつけて」
 背後からの静かな声に頷いて、ノエルは廊下の角を曲がった。
 廊下の角を曲がり、桔梗の視界から外れたところでノエルは小さく息を吐く。
「……水の星、か」
 ノエルは厳しい表情で、窓から見える天空の青い星を見上げた。
「……僕は貴方を求めたりはしない……。……絶対に」

 眠れない、と、迅斗は思った。半分は布団のせいだ。床に直接敷いた敷布団は薄くて硬いし、掛け布団も薄さの割に重い。枕はアレスの手製らしい。その事実だけでなんだか非常に心もとない。不思議な弾力があって寝心地は良いのだが、いったい何が入っているのかあまり考えたくない感触だ。
 そして残りの半分は、縁側――テラスと呼んだらライファに笑われた――に座っている人影のせいだった。
 ライファは布団を敷き終わってからずっとギターをかき鳴らしている。
「ライファ」
 水の星が放つかすかな光で逆光になった背中に、迅斗は意を決して呼びかけた。
「ん?」
 ライファは手を止めて振り向く。相変わらず逆光で表情は読み取れない。
「眠れないのか?」
「うん、まあ。そう、かな」
 ライファは歯切れ悪く答え、また水の星に向かってギターを弾き始めた。
「今日は歌わないのか?」
「何々? 私の美声が聞きたいって? いや〜、参っちゃうなあ〜。でもだめ」
 ふざけた調子で一気に言い放ったライファは不意に肩を落とす。
「私、ふざけた歌しか知らないんだよね。今はそんな気分じゃないし」
「そうか」
 ライファは再び振り向いて、少しだけこちらに身を乗り出した。
「迅斗は? 眠れないの? あ、それとも私うるさい? もうギター止めたほうが良い?」
「いや……聞いてはいたが、うるさいとは思ってない。……上手いな、ギター」
 照れながら感想を言うと、ライファはくすぐったそうに笑う。
「ありがと」
 少しだけ間があって、やがてまた一つギターがかき鳴らされる。
「あ、真面目な歌、思い出した」
「……真面目?」
「そ。なんだろ……虹の歌、かな?」
 切り離されたように頼りなげに、和音の音が一つずつ鳴った。
「そろそろ寝たほうがいいよ。明日、君がインティリアに戻れるように切符とか手配するから。私がやると一日がかりなんだ。アレスがいればよかったんだけど、あいつ今行方不明だしね」
「……すまない。俺は……」
「……うん?」
 迅斗は言葉を捜して瞳を閉じる。
「……迷ってるんだ。このままエヴァーグリーンに戻って、納得できるのか。それで良いのか」
 こんなことをライファに言ってどうするつもりなのだろう。瞳を開けて天井を睨みつける。
「……アレスと、話、した?」
 梁や柱がむき出しの天井に、ライファの声が小さく響いた。
「……ここが……この星が地球だと」
 懺悔をしているような気分で、どうにか言葉を搾り出す。
「そっか」
「迎えは……来ない、んだな」
「そう、来ないよ」
 迷うように異なった調の和音をいくつかかき鳴らしてから、ライファはおもむろに曲の前奏を弾き始めた。
「……どうする? 私は月を探しに行くから、どっちにしろ明日にはここを引き払うよ。そうだな、君が一緒に来てくれるなら寂しくないし、それはどっちかって言うと私にとっては嬉しいことかな。私、結構寂しがりやだからさ。でも……私と一緒にいたら君はいろんなものを手放すことになる、悠斗みたいに。エヴァーグリーンからも追われることになるし。私は、それも、知ってるから」
 自らを鼓舞するように、ライファは一回だけ、弦をかき切るような勢いでギターをかき鳴らす。
「一人で、行けるなら。……止めないよ」
「……俺は……」
 答えに迷う迅斗に背を向け、ライファは静かに前奏の続きを歌い始めた。

  太陽の光が砂の上に落ちてる
  喉が渇いてるのに気付かないふり
  絶対に泣かない ますます喉が渇くから

  雨がもっと降ればいい この砂漠のすべてに
  そうすれば なにもかも 零れ落ちる滴の中……