第一章 The moon is the sea

 1-4

「病人ですか?」
 待合室に続くドアから、高橋の落ち着いた声が漏れてくる。
「あ、いえ、そうでは……んですよ。ちょっと人を探しておりまして」
 答える声はノエルだ。自分を探しに来たのだろうかと、迅斗はしんとした診察室の中で考える。手術室に隠れているライファは物音一つ立てない。
「人?」
「はい、この近くの……本願寺に住んでいるはずの方……ライファさん……先ほどお寺の方へはお邪魔した……すが、留守でしたので」
 荒野の風に時折かき消されながら低く切れ切れに聞こえる声に、迅斗は瞳を閉じて耳を済ませた。
「ライファさんですか。……そうですね。医師としましては、あまり個人情報を漏らすことはできない立場なわけですが」
 少し考え込むような間と、荒野の風がうなる音。
「まあ、立ち話もなんですから、どうぞお入りください。あ、靴は脱いで、スリッパに履き替えてくださいね」
 ようやく聞こえた高橋の声に、迅斗は目を開いて顔を上げた。
 チームリーダーとしての責任を放棄し、ライファについて行くと言ったら、彼らは自分を軽蔑するだろうか?
 ごそごそと靴を履きかえる音の後、診察室のドアが高橋の手によって開けられる。ドアを押さえる高橋に軽く会釈しながら入って来たノエルは、迅斗と視線が合った途端、すべての動きを停止した。
「へ?」
 あんぐりと口をあけるノエルの後ろから、レルティがどうしたのと言いながら顔を出す。
「っあー!」
 絶句したままのノエルと対照的に、レルティは迅斗を指差して叫んだ。
「迅斗っ!」
「うわ!」
 いきなり飛びついてきたレルティに、迅斗が座っていた三本足の丸椅子が傾く。
「……レルティ」
 どうにか転倒せずにレルティを受け止めた迅斗は、呆然と呟いた。
「探してたんだよ迅斗! あんなわけわかんないとこで行方不明になっちゃうんだもん。誰に聞いてもあの場所のこととか教えてくれないしもう心配で心配で大変だったんだから」
 レルティは迅斗の首筋にすがりついたまま、早口でべらべらと並べ立てる。
「すまない」
「でも見つかって良かった。ね、インティリアに帰ろうよ。他のチームの人たちも心配してたよ。……桔梗とかさ」
 息を詰めた自分に気づいたのか、レルティはしぶしぶ最後の言葉を付け足した。自分の心情を、レルティは別の方向に解釈したらしい。
 どう言えば良いのだろう。
「……すまない。俺は……帰らない」
 ようやく絞り出した言葉に、レルティは素早く身体を離す。
「なんで?」
 探るような視線で見つめてくるレルティに、迅斗は居心地の悪さを覚えて視線を逸らした。
「エヴァーグリーンが信じられない」
「え? もしかして、今までは信じてたの?」
 厭味でなく本当に心底感驚いているらしい声を上げるレルティに、迅斗は思わず顔を上げる。
「君は信じていないのか?」
「うん、全然。だってインティリアとエクスティリアで言ってること全然違うんだもん」
 迅斗は立ち上がり、レルティと正面から向き合った。
「それでも、君はエヴァーグリーンのために働けるのか?」
「エヴァーグリーンのためって言うより私のためだもの。エヴァーグリーンにいれば食べ物にも宿にも困らないし、インティリアにいる限りは誰かにいきなり殴りかかられたりとかケンカに巻き込まれたりとかしないし。生活が保障されてるって素晴らしいと思うのよね」
 レルティは言葉を切り、小さく首をかしげる。
「迅斗はこういう考え方許せない?」
「……いや。俺は……」
「じゃあ、気に食わない」
 口ごもる迅斗に畳み掛けるように、レルティは言った。
「不満そうな顔してるぞー。正直者だなあ、迅斗って。その誠実さが好きなんだけど、でも私みたいな考え方してる人も結構いるからさ。認められないと、辛いと思うよ」
 入り口付近で、最後に入ってきたカイラスが居心地悪そうに身じろぎする。沈黙が重い。
「……で? それじゃあ、迅斗はこれからどうするの? 戻らないんだったら私付き合うよ?」
 十分な間をおいた後で、レルティは声の調子を変えて尋ねかけた。迅斗はほっと肩の力を抜く。レルティはときどき、こういう調子で自分を試すようなことを言う。そのたびに、迅斗はレルティの真意がわからなくなるのだ。
「月を探す。もしここが本当に地球だとしたら……」
「ちょっと待った」
 何気なく口にした言葉を、レルティがさえぎった。
「何なのそのここが地球って」
「僕にも聞かせてください。やはりそうなんですか?」
 ノエルが迅斗の方へ一歩踏み出して尋ねる。
「やはり?」
「研究課にいたころに見た文献にそういう記述があったんですよ。海を持った星、地球とはこの星の過去の姿だと。汚染が進んだ海を浄化するために、フォンターナが作られたのだとね」
「えー? じゃあ死んだら地球からお迎えが来るって話はどうなるの?」
 淡々と述べるノエルに、レルティが不満の声を上げた。
「……それは既に民間信仰や迷信の域なのでは」
「……エヴァーグリーンは信じてないけど、おばあちゃんの昔話は信じてたのに……」
 レルティは恨みがましそうにノエルを睨む。
「えーと。それで、リーダーはその話はどこから仕入れたんですか?」
 ノエルはレルティの呟きを丁重に無視して迅斗に向き直った。
「兄に聞いた。今俺達が住んでいるこの星が地球なのだと。そして、海を取り戻す手段があるのだと。兄が……今どうしているかはわからないが、償いの意味も含めて、俺はその方法を探りたいと思ってるんだ」
「はい質問!」
 レルティが勢いよく右手を上げる。
「手がかりってなんかあるの? もしかしてライファちゃんが」
「先に確認しておきたいことがあるんだけど良いかな?」
 レルティの質問をさえぎったのは高橋の穏やかな声だった。
「君たちには、彼をインティリアに無理矢理にでも連れ戻そうという意志はないんだね?」
 ごく自然にできていた人の輪の中に一歩踏み出して、高橋はナナミ・チームの面々を見回す。
「僕は彼の意思を尊重したいと思っています。彼が何か探るつもりなら、僕はエヴァーグリーンの立場を利用して最大限協力するつもりです」
 ノエルが答える。
「右に同じ」
 ドアの近くで黙っていたカイラスが短く言う。
「私は迅斗についてくよ。あんまり熱心な隊員でもないしね」
 高橋に向き直ったレルティも答える。
「なるほど。だったら安心できるかな。ああ、それともう一つ。さっきライファ君を探していた理由を聞かせてもらえるかい?」
 エヴァーグリーンの三人は無言のまま視線だけで返答権を譲り合い、結局ノエルが口火を切った。
「エヴァーグリーンからは彼女の捕獲を命じられてきました。しかし、実のところリーダー……と、迅斗さんですね、彼を探す手がかりをライファさんが何か持っているのではないかと思って来ただけで、我々には捕獲の意志はないんです」
 高橋は深く頷き、迅斗に向き直る。
「迅斗君、彼らの言葉は信頼できるかい?」
「俺は信じています」
 迅斗の真摯な台詞に、高橋は穏やかな微笑を浮かべた。
「わかった。じゃあ、ちょっと待っててくれるかな」
 迅斗とレルティの脇をすり抜けて手術室の扉を開く高橋に、レルティが微かに首をかしげる。
「何か秘密兵器でもあるのかなあ?」
 レルティがもらした気の抜けるような台詞を背に、高橋は手術室の扉を閉めた。
 扉の向こうから、ライファがベッドの下から這い出しているらしい衣擦れの音と、低く話し合う声がする。
 ナナミ・チームの面々には、雑談を始めても良いのだろうかと迷うような沈黙が舞い降りる。カイラスがそわそわと診療室の中を見回し、レルティはなぜか自分の肘の裏を覗き込む。
 ノエルが腕を組んで重心を右足から左足へ移した頃、ようやく手術室の扉が開いた。
 ライファが高橋に背中を押されるようにして出てくる。
 もちろん迅斗は驚かなかった。そこはかとない居心地の悪さを感じながら、メンバーの反応をうかがう。
 カイラスはあんぐりを絵に描いたような表情で固まっていた。サングラスがずれて、本人の体格からするとやや迫力に欠ける瞳が見開かれているのが見える。ノエルはある程度予想がついていたのか、重心をまた右足に戻しただけだ。
 そしてレルティはといえば、一瞬目を見開いた後、満面の笑みを浮かべた。
「ああ、なんだ。ライファちゃんもいたんだ。久しぶりー」
「久しぶり。元気してた?」
 高橋の後ろから現れたライファは、少しだけ緊張した様子で片手を上げる。
「うーん、まあまあかな。迅斗が行方不明でちょっとへこんでた」
「あはは、それはなんかわかるなあ。じゃあ、再会できて良かったね」
「うんうん! めちゃくちゃ嬉しい!」
 ごく自然に始まった雑談に、高橋を含む男性陣は口を挟むタイミングを失って顔を見合わせた。その間にも雑談は続く。
「あ、そだ。私もエヴァーグリーン抜けるかもしれないからさ、そしたら一緒に買い物しようよ、買い物」「お、いいね。楽しそう。しばらくは移動だから、主に食料品でよければになるけど」「望むところさっ。いいお店とか知ってる? 私この辺あんまり詳しくなくってさ」「オーケーオーケー教えてあげますとも。なんつってもこの近場で安いのはねー」
「ところで」
 最初に雑談に割り込んだのは高橋だった。高橋は診療室にひしめき合う若者達をため息混じりに見回して言う。
「どんな話をするにしろ、ここでは少し狭いんじゃないかと思うんだけどね?」