第五章 First embrace

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「……なんか、腹減った……」
 目もくらむような湖の光が収まって、ゆっくりと薄目を開けた迅斗の耳に最初に届いたのは、そんな緊張感のない一言だった。
「何を……」
 低く押し殺したような少女の声が後に続く。そこでようやく視力を取り戻した迅斗は、湖のほとりに寝転がった自分の兄にティアが掴みかかっていくのを目撃してしまった。
「何すっとぼけたこと言ってるんだ今は逃げる方が先ださっさと目を覚ませこの愚か者愚か者愚か者」
 ティアは濡れそぼった兄――アレスの襟首をひっつかんで、情け容赦なくがくがくと揺さぶる。テレパシーではない肉声の罵倒が、泣きそうな子どもみたいだった。
「く、苦しいって。頭シェイクシェイクシェイク、ティアちゃん止めて止めて」
 感動の再会もへったくれもあったものではない。迅斗は何とも言えない気分でその光景を見守りながら、ふと以前見た風景を思い出していた。
「……なんだか、よく似た光景を見たような記憶が」
「私、さすがに絞めあげて揺さぶるまではやってない……」
 いつの間にか立ち上がって側に来ていたライファが、複雑そうな表情で呟く。彼女がタスクを絞めあげるところまでは見ていた気がするのだが、迅斗は賢明にもそれについて口にするのを自重した。
「と、とにかく、早く逃げないと」
 何とかティアの手を逃れて立ち上がったアレスが、ちらりとゲート発生装置を振り返って言う。上層のどこかから爆発音が聞こえて、微かな振動が足元に伝わって来た。
「生きてたのかよ」
 怒りのこもった声は、タスクから上がった。
「おう、久しぶりだな、タスク。しかし、よくフェルゼンに勝てたよな。あの人むちゃくちゃ強いのに」
 アレスは軽く片手を上げてそれに答え、周囲をきょろきょろと見回す。その視線が湖のほとりに倒れている二人に行き当たった時、アレスの表情は凍りついた。
「フェルゼンは……父さんが……」
「……そっか」
 迅斗がどうにか絞り出した短い説明だけで、アレスは全てを察したらしい。アレスは一瞬迷うように視線を泳がせてから、歪な笑みを作る。
「父さんが……裏切ったのか」
「馬鹿者。泣きたいなら笑うな。ぶん殴るぞ。ぶん殴ってでも泣かせるぞ」
 未だに憤懣やる方ない様子のティアが、拳を作ってアレスに詰め寄った。アレスは彼女を見下ろして、今度は本当に泣きそうな微笑を浮かべる。
「……ごめん。でも、あとで泣くからさ、今は逃げよう。泣く時は付き合えよ?」
 アレスの言葉を裏付けるように、さっきよりも近い場所から爆発音が響いて来た。ティアは諦めたようにため息をつく。
「……私でも良いならな。言っておくが、人を慰めるのは苦手だ」
「知ってる」
 アレスは表情を引き締めて、この状況について全く納得していなさそうなタスクの肩を叩いた。
「お前も言いたいことあるだろうけど、後で聞くからさ。今は逃げるぞ。なんかヤバそうだ」

 さっき来た道を、全力で駆け抜ける。肩を庇いながら走るタスクとまだ本調子ではないらしいアレスの代わりに少しふらついているライファの手を引きながら、迅斗は今まで嗅いだことのない匂いを感じていた。その匂いが強くなるにつれて、背後の爆発音とそれに続く瓦礫が崩れ落ちる音に、水が跳ねる音が混じるようになってくる。
「海だ……!」
 息を切らしながら、アレスが叫んだ。
 ――急げ!――
 ティアの声に押されるように、エヴァーグリーンの無人の廊下を駆け抜け、ランデブー地点として打ち合わせてあったエクスティリア向けの駐車場へ向かう。
 ――レルティたちはアクアと合流して先に脱出しているそうだ。車は一台置いていくと言っている――
 途中でレルティと精神感応《テレパシー》で連絡を取ったらしいティアが全員に告げる。頭の中に聞こえる声は落ち着いていたが、ティアの呼吸には余裕がない。しかし背後に迫る建物が崩壊していく音と水の音が、立ち止まっている余裕などないと容赦なく追い立ててくるこの状況では、ただ走り続けることしか出来ない。
 既に人々が逃げた後らしくがらんとした駐車場に辿り着き、タスクを先頭に入り口近くにポツンと取り残されていた車に駆け寄る。オンボロの屋根なしジープに、無言で無理矢理全員が乗り込んだ。
「ちょっと待て、席間違ってるぞタスク、代われ!」
 ――そんな暇はないようだが――
 今やエヴァーグリーン本部の崩壊は最終段階に入り、タイヤも半分水に浸かっている。ここもいつ崩れて来た瓦礫に埋め尽くされたとしてもおかしくはない。
「……アクセル、右な」
 アレスが悟り切った表情で、運転席に座ってしまっていたタスクに厳かに告げた。

 結論から言えば、タスクは運動神経と動物的勘だけでカーチェイスを制し、崩れ落ちるエヴァーグリーン本部の瓦礫を全て避けきってエクスティリアへの脱出をやり遂げて見せた。
「……信じらんない」
 崩壊したエヴァーグリーンから少し離れた小高い丘の上。どうにかタスクにブレーキの意義について説明して止まってもらった後で、ライファがぐったりと呟いた。
「まだ生きてる。奇跡だわ」
「……我が人生最大の恐怖だったなあ……」
 かすれた声でアレスもつぶやく。
「戻ってきたこと後悔しかけたよ」
 無言のまま口元を押さえてうつむく迅斗を、若干青い顔をしたティアが気遣うようにのぞき込んだ。
 ――おい。迅斗、どうした? 気分が悪そうだな?――
「……初めて乗り物に酔った……」
 死にそうな声で答える迅斗に、ティアは慈愛に満ちた視線を向けて微笑む。
 ――そうか、奇遇だな。私もだ――