第三話 やっと待ってた時が来た
ヴァレンシア・デイ前日。
ブルーエア劇場練習生一同は、ディル・グリア・パン店でみかん料理と格闘していた。広い厨房に持ち寄った材料を並べ、協力しつつ必要な分を量ったり切り分けたりしていく。練習生たちに指示を出す女主人のメアリは、少女たちの手際の悪さを微笑ましそうに見守っている。
「グローリアさんはいらっしゃいますか?」
母に代わって店番をしていたアルバートの妹のアリスが、ごった返す厨房を覗き込んで大声で呼ばわった。
「はい、私です」
小麦粉をふるいを掛けていたグローリアが手を止めて答えると、金髪の少女はにこやかに笑いかけながら店の方を指し示す。
「お店にお知り合いの方が来てますよ。ちょっと来ていただけません?」
グローリアが何か答える前に、隣にいた練習生の一人が作業中のふるいをさらっていった。反射的に振り向いたグローリアに、ふるいを奪った練習生はにこやかな笑みを向けて言う。
「行ってらっしゃーい」
「久しぶりじゃのう、グローリア」
夕方の客で混み合ったパン屋の店先で待っていたのは、古ぼけた三角帽子に節くれ立った杖を持った青い髪の、見かけだけは若い女性だった。目立つ格好に人々はちらちら視線をやっているが、本人は気にしたふうもない。
「おばあさま」
グローリアは目を見開き、歩調を速めて歩み寄る。
「お話でしたら、中庭を使って下さいね」
アリスが客の一人から会計を受け取りながら言い、グローリアと女性はその言葉に従って裏口から外へ出た。
「山から下りてくるなんて、ずいぶん珍しいと思うんだけど」
「そうじゃな。王都まで来たのはかれこれ十年ぶりくらいか……いや、もっとかもしれんのう……」
グローリアは中庭の真ん中にある井戸の縁に腰をかけ、ゆっくりと首をかしげる。
「何か、私に用があるのではないの?」
「ふむ、まあ、予兆を感じてな」
グローリアの四代上の祖先であるランニアは、そう言って笑った。
「お主の魔力が安定してきておるのじゃが、自覚はあるかな?」
「もしかして、急に感情が読めなくなるとか、そういうことと関係が……?」
グローリアは眉根を寄せつつ訊ねる。
「うむ。それこそ安定期に入りつつあるしるしじゃ。これで簡単な魔術は教えられるぞ」
「……なんだ」
我知らずため息がこぼれた。アルバートとは全然関係なかったのか、と、グローリアは安堵する。
「そういうことだったの」
「何がじゃ?」
「急に人の感情が読めなくなったので、いろいろ勘繰ってしまったわ。振り回された」
「そうか。まあ、自分の魔力に振り回されるのはよくある話じゃ。そういうときは慌てず騒がず、このわしを頼ってくると良いぞ」
ランニアは慈愛に満ちた微笑を浮かべ、自らの胸を叩いた。
「ありがとう、おばあさま。今度からそうするわ」
グローリアも頬を緩めて頷く。
「で、魔術の授業じゃ。今日は時間がないようじゃから多くは教えられんが、魔力コントロールの基礎程度なら教えられるじゃろう。それが終われば、簡単な治癒呪文ならもう一人で使ってかまわんぞ」
ランニアは杖を伸ばし、中庭の地面に魔法陣を描き始めた。
数分後グローリアが厨房に戻ったとき、先生役のメアリは閉店のために席を外していた。ブルーエア劇場練習生一同は、なぜか一つのテーブルを取り囲んでいる。中心にいるのはペナンだ。
「でね、せっかくみんなで作るんだったら、何かイベントがあった方が楽しいと思うのよ。そこで!」
全員の注目を集めているペナンは、大道芸人か怪しげな行商人のような手つきで、バッグから小瓶を取り出した。
「ここに取り出しましたるは東大陸から輸入された世界で最も辛いとんがらし、ハラペーニョ。これを入れたケーキを一つ作って、誰が当たるか賭けしない?」
恐ろしいことに、数人の練習生がその賭けに喜び勇んで乗った。もちろん、ここ数日のもやもやが晴れて、気分が浮かれていたグローリアも乗った。
同じ頃、アルバートは部下であるはずの白騎士から帰宅命令を出されていた。
魔物討伐隊の出陣を明日に控えての訓練で、利き腕を怪我したからだ。練習相手はアレクだった。怪我をさせてしまって申し訳ないから、今日の残業は代わりに自分が引き受けたいというのが彼の言い分だったが、最終的には「とにかく帰れ」の一点張りだった。
釈然としないものは感じたが、今日帰宅することは以前から決まっていたし、帰る時間が深夜から夕方に変わっただけだと思うことにする。
家に帰ると、なぜか厨房の方がやたらと騒がしかった。店終いを手伝っていた妹のアリスに尋ねると、今現在ヴァレンシア・デイに向けてケーキ作りが大詰めを迎えているのだと言う。その喧噪の中に入っていく気はしなかったので、アルバートは明かりが消されて薄暗い店先のカウンターに座った。応急手当だけしてあった右腕の包帯をほどいていると、背後から通りすがりの母親が覗き込んでくる。
「あんたらしくないねえ、こんな大事な時期に怪我するなんてさ。明日には魔物討伐隊が派遣されるんだろう?」
「いや、剣を握るのには特に支障ないし……」
答える途中で、厨房の扉が開いて誰かが顔を出した。焼き菓子とみかんの甘い匂いが漂ってくる。
「おばさま、ケーキを入れる箱が一つ足りないんですけど、予備はありますか?」
見覚えのあるシルエットに聞き覚えのある淡々とした口調と声。
グローリアだ。
「予備ならそこの棚の上だよ。アル、ちょっと取ってやってくれるかい?」
「あ、うん」
帳簿を片手に奥へ入っていく母に頷きを返して、アルバートは立ち上がる。
「その怪我……」
左手で紙箱を下ろしたアルバートの右腕を、グローリアは珍しくはっきりと表情を曇らせて指差した。
「あ、ああ。これな。今日の訓練中にちょっと……」
アルバートの腕をつかんで子細に眺めながら、グローリアは眉根を寄せる。少し考え込んだ後で顔を上げたグローリアは、厨房へ向かって叫んだ。
「ペナン、箱、予備をもらえたわ。取りに来てもらえる?」
「はいはい。……あら、帰ってたんですか」
厨房から現れたペナンは、アルバートを見つけてにやりと笑った。
「おばさま、中庭の井戸をお借りしてもいいでしょうか?」
グローリアはペナンの意味ありげな微笑には気づかなかった様子で、奥にいるメアリに呼びかける。
「ああ、好きに使っとくれ」
「ありがとうございます」
グローリアはペナンの反応に眉をひそめているアルバートに向き直り、掴んだままだった右腕を軽く引っ張った。
「来て」
井戸の底から水の精霊を呼び出して治癒魔法をかけるグローリアの横顔を、アルバートはぼんやりと見つめていた。
グローリアのつかんでいる腕が、じんじんと熱を持っているような気がする。中庭に出てから、グローリアは呪文以外一言も発していない。
「魔法……使えたっけ?」
沈黙に耐えきれなくなって、どうでもいい話題を振ってみる。
「まったく実戦レベルではないけど、一応、さわりだけは習ったことがあったから。使用許可が出たのは今日の夕方だけど」
アルバートはぎくりと体を強ばらせた。それはもしかしなくてもものすごく初心者だ。
「あなたが最初の被呪者と言うことになるわね」
ご愁傷様とでも続きそうな調子で言って、グローリアは手を離した。
「……これで終わり。明日から魔物討伐なんでしょう?」
グローリアがまっすぐこちらを見上げる。なんだかものすごく久しぶりに、この青い瞳を正面から見たような気がした。実際は、そう久しぶりでもないのだが。
「ああ、今年はちょっと早いからな」
「だったら、利き腕は治しておいた方が良いかと思って」
「まあ、そうだな。……ありがとう」
浮かべた笑顔に苦笑が混じる。アレクは今日グローリアたちが来るということを知っていたのだろうか? 知っていたとしたら、自分はまたハメられたのかもしれない。しかし悪い気はしなかった。気まずい別れ方をしたまま討伐に出かけるのは、やっぱり気分が良いものではないわけだし。
「……みかん料理、作ってたんだな」
窓から漏れる光に視線をやりながら、アルバートは呟いた。
「ええ」
「上手くいきそうか?」
振り向いて尋ねると、グローリアは静かに瞳を伏せる。
「そうね……たぶん」
「そっか」
アルバートは一つ深呼吸をして、ふいに襲いかかってきた緊張を撃退しようとした。
「こないだは、ごめんな」
「この間……?」
眉をひそめるグローリアに、頷くように頭を下げる。
「ああ、ちょっと……押しつけがましかったよな」
「あ、貴方が謝るようなことではないわ」
グローリアは慌てて顔を上げた。
「悪いのは、私の方。変な態度を取ってしまってごめんなさい。せっかく助けてもらったのに」
「いや。……気にしてねえよ」
思いがけず勢いよく謝られてしまって、アルバートは目を瞬かせる。
「そう。ありがとう。じゃあ、私、もう戻るから」
グローリアが踵を返した。その背中に、つい先日走り去られたときの記憶がよみがえる。
「あ、あのさ」
引き留めようと伸ばした手が、思いがけず強い力でグローリアの腕をつかんだ。グローリアはとっさに身を固くして、つかまれた腕を引っ込める。振り払われたアルバートも、自分の行動について行けず、わたわたと両腕を動かした。
「わ、悪ぃ……」
「いえ……何?」
つかまれた腕をもう一方の腕でかばうように隠しながら、グローリアが尋ねる。
「あ、いや……何でもない。なんか、ど忘れした……」
「そ、そう。……じゃあ……討伐、気をつけてね」
「お、おう」
そそくさと立ち去るグローリアを、アルバートはぼんやりと見送った。裏口のドアが閉まる音に、さっきグローリアの腕をつかんだ手をゆっくりと持ち上げる。その手のひらを眺めながら、本当は誰にみかん料理を渡すつもりだったのか尋ねたかったのだと、アルバートは思い至った。
もう一度尋ねる勇気どころか、今から店内に入っていく勇気さえ、どうにも持てそうになかったが。
ブルーエア劇場練習生一同が立ち去った後、ようやく家の中へ戻ったアルバートが見たものは、台所でいぶかしげに小瓶をつまみ上げている母親の姿だった。
「おかしいねえ……今日の料理では唐辛子なんて使わなかったはずなんだけど……」
母親は小瓶をひっくり返して眺めながら首をかしげる。
「お嬢ちゃんたちが誰が当たるか賭けようって言ってたのは、このことなのかねえ?」
アルバートは、激烈に嫌な予感が身の内を駆けめぐるのを感じた。辛いものは、あまり得意ではなかった。
魔物討伐隊出発の朝、討伐に出る兵士は王城から町を取り囲む城壁の大門まで行進する。列は要所要所で立ち止まりながら、ゆっくりと王都を練り歩く。町の人々が、自分たちの代わりに危険を冒してくれる兵士たちへ感謝の贈り物を手渡すのが習慣になっているためだ。今年はちょうど出発の日がヴァレンシア・デイと重なったため、普段はみかん料理をもらえない兵士たちも、感謝の贈り物にかこつけてもらえるかもしれないと浮き足立っていた。
石畳の大通りを隊ごとにまとまって馬で行進しながら、時折立ち止まっては見学の人々から贈り物を受け取る。
「本番は大門を出てからなんだからな!」
あの子はくれるだろうかいくつもらえるだろうかと行進しながらざわめく部下たちを、アルバートは半ば呆れつつ戒めた。
「門を出るまでは浮かれ騒ぎも結構ですが、外に出てからはくれぐれも気を引き締めて掛かって下さいね。ああ、ありがとうございます奥様。しかし危ないですから、贈り物は立ち止まっているときにお願いします」
アルバートのすぐ後ろを行くアレクが、兵士たちと見学者の両方を注意している。女友達の多いアレクは、さっきから何度も女性に取り囲まれ、持ちきれないからと半分くらいは丁重に断っていた。アルバートも立ち止まるたびに、年長の女性や数人の少女達から贈り物を手渡された。
大門まで残り半分くらいになった頃、アルバートたちの隊は小さな教会の前の広場に立ち止まった。この広場にも見学者たちが待ちかまえていて、自分たちが目当てとする隊が立ち止まるのを見計らっては駆け寄っていく。アルバートたちの隊へ向かって走ってきた一団は、ブルーエア劇場の練習生たちだった。よく見かける顔ぶれも、舞台でしか見たことのない顔や男性陣も混じっている。
アルバートの前に立ち止まったのはグローリアで、なぜか大きさの違うふた付きバスケットを二つ持っていた。
「おはよう。朝早くから大変ね」
「いつもの仕事だってこんなもんだけどな、始まる時刻は」
アルバートは馬から身を乗り出して答える。
「こちらが貴方のお母様とアリスさんからの差し入れ」
グローリアは大きい方のバスケットを持ち上げて示した。
「で、こっちが私からのみかん料理」
小さい方のバスケットを重ねて、両方一緒に手渡してくる。
「……え?」
「受け取ってはもらえないのかしら?」
「い、いや。そうじゃなくて……それ、俺に?」
「そう。貴方で、間違いないわ」
グローリアは厳粛に言い放った。
「間違いなく、いつもお世話になっているもの」
「そ、そっか」
微妙に複雑な心境のまま、アルバートはようやく包みに両手を伸ばす。
「残さず食べてね」
グローリアは微かに頬を染め、小さく微笑んでそう言った。その笑顔にアルバートは思わず言葉を忘れる。
はにかんだような笑顔とみかん料理の包み。一見ものすごく雰囲気が良いんじゃないかという気がする。
……しかし、思い出されるのはむしろ昨日のハラペーニョだ。
「返事は?」
微笑んだままグローリアが尋ねる。背中を冷たい汗が伝うのを感じながら、アルバートは受け取った包みを引き寄せた。
「……全部食べるよ……」
必死で引きつった笑顔を浮かべながら頷くと、グローリアの微笑がふと優しげなものに変わる。
「くじけないで」
グローリアは笑顔を浮かべたままそう言った。
「当たるかどうかは、運だから」
「……当たったらどうなるのかは……聞かないでおく」
見当がついているからだが。
「大丈夫。私、運は良い方だと思うわ」
グローリアはにこやかに頷く。
「それじゃあ、気をつけて」
「……ああ、ありがとな」
前を行く部隊から出発の合図の旗が掲げられ、アルバートは受け取ったバスケットを抱えなおしながら身を起こした。
贈り物を渡し終わった人々は素早く列から離れ、沿道に並んで出陣する兵士たちに手を振る。結局今年もハンカチしか貰えなかったと嘆く兵士、それならいいだろお前俺なんか母ちゃんからの応援だけだぜぜいたく言うなと言い返す兵士、アルバートさんうらやましいですと言うジャックの声、良く通る声で声援を送るブルーエア劇場の練習生たち。
爆弾入りのバスケットを抱えているような気分で、アルバートは出発した。
その日の夕方、宿営地に落ち着いてからさんざん葛藤したあげく口に運んだみかんケーキは、ごく真っ当な意味でおいしかった。
討伐隊帰還後に、アルバートは「ハラペーニョケーキにぶち当たったのは言い出しっぺのペナンだった」と、出迎えに来たグローリアから聞かされることになる。
本人曰く「自分が当たる覚悟がなければこんな馬鹿なイベントは開催できない」そうだが、もらった側にとっては良い迷惑だったんじゃないかと、楽しげに語るグローリアの隣を歩きながらアルバートは思う。
そして、討伐初日にものすごい勢いで水を求めに来た白騎士の姿を思い出して、まさかな、とも考えたのだった。