第一話 通り雨
通り雨が降ったとき、その原因について考えるのが知識であり、どこかで雨宿りしなければと考えるのが知恵である。
と、確か先週の講義で師匠が言っていた。
(――師匠……。この状況を切り抜ける方法ってのもやっぱり知恵でしょうか?)
気まずい空気の中でうっかりため息をつくわけにもいかず、ウィスタリア・ギアルギーナは内心辟易していた。
きっかけは通り雨だった。あさっての魔法薬調合の実習で使用する薬品。一応紙で包んで箱に入れてはいるものの、天をひっくり返したようなこの雨では寮に着くまで無事とは限らない。そういう状況であれば雨宿りをしようと考えるのは当然の帰結である。その判断は間違っていなかったと思う。間違ったのはその先。駆け込む先を、間違えた。
パン屋の軒先は修羅場だった。
つまり。自分と入れ替わるようにして雨の中へ駆け出していった女性、後に残され片手で頬を押さえてうつむく青年、雨のせいだけとは思えないとてつもなく暗い雰囲気と言えば。
(……振られて、しまったのだろうか)
ちらりと、立ち尽くしたままの青年の横顔を眺めやる。
(なんて間が悪いんだ……)
しかし今さらこの……先月師匠の友人がシャワーと名づけたのだどうだ凄いだろうとか言いながら見せびらかしてくださった魔法装置のごとく盛大に降り続ける雨の中へ出て行くわけにもいかず。なんと言っても今日買ってきた薬品、自分だけの分ではないのである。うっかり同じ班になってしまったものすごく面倒くさがりな兄弟の分も含まれている。三人分の薬品はかなり高価だった。意地でもダメにするわけにはいかない。
ますますひどくなってきた雨脚に再びこぼれそうになったため息を押しとどめ、もう一度隣の青年を見上げた。
美形と美人と天才と変人奇人の宝庫と噂されている自分のクラスの中でも、かなり上位レベルに入りそうな容姿だ。髪の色は濃い茶色、目の色も同じく。伏せがちな目のまつげも長く……と、この辺はお約束か。目は吊ってるわけじゃなく、どちらかと言えばタレ目に分類されるのだろうが、むしろそのせいで目つきが果てしなく悪い。絶対にらまれたくない。背は高い。ウィスタリアより頭一つとちょっとくらい高い。適度に着崩した服装がなんだか遊び人ぽい。
そこまで観察したところで、じろりと睨まれた。思わずあとずさると、脳天に軒先から落ちた雨の滴がクリーンヒットして、ウィスタリアは多大なるダメージを心に受けた。
「……おい」
青年は低い声で不機嫌そうにウィスタリアに声をかける。
「なんでしょう」
大きな精神的ダメージを受けたことで逆に開き直ったウィスタリアは、臆することなく聞き返した。
「お前、デリカシーないだろ」
「……そりゃ、私だって事情さえなければすぐ出て行きましたけど」
「事情?」
「これ」
と、薬品の入った箱を示す。
「濡らしちゃまずい物なんで」
「じゃあパン買ってけよ」
偉そうに言い放つ青年に、ウィスタリアは首をかしげた。
「どうしてですか?」
「俺、ここの息子」
「ああ、宣伝活動ですか」
ぼんやりとうなずくと、青年はふと皮肉げな笑みを浮かべる。
「買ってくだろ?」
有無を言わさぬ調子だった。
「や、でも、お金ないんですけど」
「……そうか……今一人お得意様逃がしちまったからなあ……」
青年は遠い目をする。
「買ってけよ」
「無理です」
「んだとコラ。人の愁嘆場のぞいておいて」
「……言いがかりですよ、それ」
「うちのパンは貧乏学生にも優しい値段だぜ?」
強引だ。
「無い金は出せません。……雨、やみませんね」
とりあえず話題を逸らしてみた。
「……さっさとやんで欲しいぜ。うっとうしい」
意外にも乗って来た。強引だが無理強いをする気は無いらしい。
「通り雨だからすぐやむはずなんですけどね」
「だといいんだがな。あ、俺、フレデリック・ディル・グリア。職業は医者」
「ウィスタリア・ギアルギーナ。賢者の学院の院生です」
……ってこの人医者か。やだなあなんかこんな不良っぽい医者。しかもフレデリック・ディル・グリアですってよ。思わず空虚な笑顔すらこぼれてくる。
ウィスタリアはそう思って、今度こそ遠慮なくため息をついた。
「……何だよ、そのため息」
「いいええ別に」
フレデリックは釈然としない表情で雨の降り注ぐ石畳に視線を落とす。
「……やまねえな」
「……もうすぐですよ」
空が明るくなってきているのに気付いて、ウィスタリアは少しだけ身を乗り出した。
「そしたら謝りに行くんですよね?」
「……は? 誰が? 誰に?」
本気でわかってないのか認めたくないのか(明らかに後者だろうが)半眼で問いかけてくるフレデリックに、ウィスタリアは何とか無表情を保って答える。
「フレデリックさんが、さっきの女の人に」
「なんでだよ」
フレデリックは憮然としてウィスタリアを睨んだ。
「や、別に、言い訳しに、でもいいですけど」
「そういう問題じゃねえ」
「……泣いてたくせに」
同じ班の女子に悪役の女王みたいだからその笑い方はよしたほうがいいと言われた笑みを浮べる。ご丁寧に薬品の入った箱を落とさないよう気をつけながら両腕まで組んで。
「……見てんじゃねえよ。悪趣味だぜ」
フレデリックは不機嫌に目を細めた。
「見る気は無かったんですけどねえ……。……あ……」
ウィスタリアは軒下から手だけ出して雨を受ける。だいぶ小降りになってきていた。
「じゃ、このくらいの雨だったら私のつたない魔法でも防げますんで。これで」
「……ああ」
フレデリックはまだ不機嫌そうな表情で、ウィスタリアから視線を逸らした。
「雨がやんだら、絶対謝りに行くんですよ? あ、謝罪じゃなくても、別れたくないなら別れたくないって言わなきゃダメです。たまにはわがまま言わないとダメですよ。言って欲しいものなんですから、わがまま。たまにだったらですけど」
「何でそんなおせっかいなんだお前」
滔々と述べ立てるウィスタリアに、フレデリックは呆れ気味だ。半眼の横目で疑問符のつかない疑問文を投げかけてくる。
「おせっかいじゃありません。自分のためです。毎回毎回修羅場になるたびに愚痴だかノロケだかわからない話を延々三時間聞かされるこっちの身にもなってください。今度私の従姉を泣かせたら直々に殴りこませていただきますよ? それじゃ」
パン屋の軒先でこれ以上ないほど呆けているフレデリックに、優越感から来る非常に皮肉げでかつ楽しげな笑顔を浮かべて手を振った。
ウィスタリアは日の光と小雨が半分ずつ降り注ぐ石畳の道へ歩き出しながら、さわやかに思う。
あのカップルはきっと知識と知恵のバランスが知識のほうに傾きすぎてるんだ。はたから話を聞いてる分には凄くわかりやすいことなのに。
それにしても、女の子ってのは髪の毛アップにすると別人に見えるんだなあ。見違えちゃったよ。