忘れ去られた記憶
光の巫女がいつ消滅《ロスト》するのか、誰にも予想は出来なかった。災厄の日から目覚めないリタは、光王庁の最奥で二十四時間誰かの監視を受け続けている。もしも予兆が現れたら、すぐにアースリーゼが力を引き継ぎ、リラの力を失うことがないようにと、誰もがそれを最優先に考えている。――いや、たぶん、ランベールとセレスティーヌは別だろう。もう彼女を救う道はないとわかっていても、彼らが必死でそのないはずの道を探していることをジュリアンは知っている。
存在自体を隠されているリタを、見舞うことが出来る人間は限られていた。両親であるランベールとセレスティーヌ、光王、神祇官の位にある者。ジュリアンも様々な制限を受けながら、それでも週に一度はリタを見舞っていた。時にはどうにか許可をもぎ取って彼女を心配するカイを連れていったこともある。そうする理由は自分でも説明がつかなかったが、それがリタのためだという確信がどこかにあったからだ。彼女に意識があるかどうかなど、わかりはしないのに。
真っ白な部屋の中、一人で横たわるリタはどこか遠く感じられた。目を閉じたまま、笑うことも怒ることもない妹。カルマとのあの戦いの前までは、頻繁に聖騎士団本部に押しかけてはジュリアンに何かと文句を言ってきていたのに、あの賑やかな声が聞こえないのが不思議で仕方がなかった。
リタは強く自分を持った少女だった。リラの力を持つ者としての役割は果たすけれど、絶対に顔を表には出さないという条件だけは頑として譲らず、光王庁にそれを受け入れさせた。どんな影響があるかわからないからとジュリアンと会わせようとしない光王親衛隊の意向を無視して、無理矢理会いに来たのもリタの方からだ。リタが顔を合わせられる聖騎士は第二護衛部隊《イージス》のルーチェやその後を引き継いだカイだけだったのに、むしろ彼らを引っ張って聖騎士団本部へ乗り込んでくるような有様だった。
そんな彼女が、黙って身動きもせず横たわっている姿を見ていると、何かがものすごく間違っているような気分に襲われる。助け出された彼女は傷一つなかったけれど、それでも――それでも先代団長や他の聖騎士たちが命をかけてでも、その命を守ることは出来なかったのだと思い知らされる。
知らせがあったのは、あと三ヶ月ほどで災厄の日から二年が経つ頃の、ある日の深夜のことだった。リタの容態が急変したと、治療を受け持っていた光王所管の部署から連絡があり、ジュリアンもあらゆる仕事と睡眠を放り出して駆けつけなければならなかった。
明日か明後日には……だから別れを告げるように。そう伝えてきた技官の声は震えていた。淡々と了承の意を伝えた自分よりも、余程感情豊かに。
駆けつけた光の巫女の座所――光の宮殿で、ざわめきを遠く感じながらリタの病室へ通された。相変わらずリタは彫像のように無表情のまま横たわっていて、点滴で与えられた栄養と複雑に構築された生命維持の魔術で生かされていた。今まで見舞ったときと違うのは、彼女を取り巻く魔力の流れだ。制御装置でどうにか押し込められていたそれが、まるで自身の意思を持ったかのように外へ出ようと暴れていた。それがもうすぐリタという器を破壊し、消滅《ロスト》に至らせるのだろうということは、同じ症状を戦場で何度も見てきたジュリアンにとっては簡単に予測出来る未来だった。
その時自分が何を考えていたのか、今となってはよくわからない。ただ呆然と寝顔を見下ろしていたような気がする。そこに付随するどんな感情も、その時のジュリアンは理解することが出来なかった。長い間封じられてきた感情は、認めてしまえばすぐに己を呑み込み、竜に変えてしまうような気がして――たぶん、誰よりも自分を恐れていたのはジュリアン自身だ。あの頃認められなかった恐怖を、今は認めることが出来る。
そしてリタの寝顔を見下ろしていたときの、余りに強すぎて感覚が麻痺してしまったような、病室の白さに自分の存在さえ呑み込まれてしまいそうな空虚の名前も、今はわかっている。
別れを言う方法など思いつかなかった。ただ呆然と、面会時間が終わるまでその寝顔を見つめていただけだ。その後どうやってそこを出たのかすら覚えていない。部屋の外のやたらと天井の高いロビーで、すれ違った両親に無言で深く頭を下げて、すぐに逃げるように光の宮殿を出た。近くで待機していなければならないことはわかっていたので、本当は宮殿内部にとどまっているべきだった。
(少し時間を潰したら、すぐに戻らなければ)
そう思いながら、ふらりと光王庁の上層に勤める者たちに解放された広場へ向かっていた。
室内であるにもかかわらず、高い天井に映し出された青空の映像のせいで深夜でも昼間のような風景が広がる広場には誰もいなかった。円形の噴水はこの時間には止められていて、一方の壁面に設置された巨大なスクリーンが、今日あったというコンサートの映像を流し続けている。
ジュリアンは噴水の縁に腰掛けてその映像をぼんやりと見上げた。人が入ってきてスクリーンに視線を向けたのにセンサーが反応して、無音だった映像に音が乗る。
追悼演奏会なのだと、静かな声で解説が入った。故人は生前各地を巡り、恵まれない子どもたちに音楽を届けてきた。そのたった一人の弟子も、戦争で作り出された親のない子ども。そんなやたらと感傷的な話を、何の感慨もなく聞き流した。
誰かの死。どこにでもある死。それを美談として語り継ぐ罪。けれど己も、それに荷担する側だ。リタの死も、そうなっていくのだろう。決して表に出ることがなかった光の巫女。カルマと戦い、打ち倒す代償に命を差し出した英雄的な存在として。
自分の考えに沈み込んでいた耳に、ふとピアノの音が飛び込んでくる。耳を澄ましてみれば、甘い感傷に満ちた音楽が、けれどどこか淡々とした音で奏でられていた。優しく寄り添い、水のように染み込んでくる、柔らかい音。
顔を上げると、弾いていたのはまだ年端もいかない少女で、テロップにはフランス語で『亡き王女のためのパヴァーヌ』と書かれていた。追悼、というには余りにも陳腐なタイトルだけれど、少女は夢見るような感傷的なメロディを大げさに聞かせようとはしていないようだった。
その方がありがたい。目を伏せて、ただその音だけに耳を澄ませる。リタが好きそうな曲だ。なかなか興味を示さない自分に、リタが押しつけるようにして教えていった様々な情報。好きなもの、嫌いなもの、興味があるもの。求めているもの。ちゃんと覚えている。リタは忘れているだろうと思っていたのか、毎回同じようなことを手を変え品を変え教えようとしていたけれど。
穏やかな音に耳を澄ませていると、そんなことばかりが思い出される。聞いているのかと文句を言いながら、好きなもののことについて話し続けたリタのしかめ面が、段々と笑顔に変わっていくところ。彼女が知らないはずの遠い町の話。いつか見たいと語っていた、青空のこと。
もう一度顔を上げて、天井に映し出された青空の映像を見上げる。スクリーンだと見ただけでわかる、わざと奥行きをなくした平面の空。何か、知らないものが胸の内から湧き上がってくるような心地がする。それは肺に居座って呼吸を苦しくさせ、目の奥に制御しきれない熱を置く。目を閉じると、ピアノの音がその何かを揺さぶる。けれどその実態を掴む前に、音楽は終わってしまう。もっと音が続けば良かったのにと思う気持ちと、あのまま揺さぶられていたらどうなっていたかわからないという恐れが、同時にこみ上げた。普段の精神状態だったら、そのままそこを立ち去っていただろう。でも今はここにいたい。そんな衝動が、ジュリアンをその場にとどまらせた。そもそも普段なら音楽に何かを揺さぶられるようなこともなかったのかもしれないが、その時はそんなことすら判断できなかったのだ。それほど余裕も、自覚もなかった。
自分が何を求めているのかわからないまま、半ば期待するように次の音を待つ。最後の音の余韻だけを挟んで始まったのは、けれどそれまでの感傷とは違う不思議な曲だった。静かに響く聞き慣れない和音は、感傷よりも畏敬の念を喚起する。壮大な海を思わせる低音、波間の奥から浮かび上がるように、次第に激しくなっていく曲調。海上を渡って行く鐘のような響き。
寄り添うような感傷から、一気に中空へ放り出されたような気分だった。それなのに、何故かどこかで感じている。その弾き手が、今自分と同じ気持ちでいるような錯覚を。それが曲の力なのか、弾き手の力なのか、普段音楽を聴かないジュリアンにはよくわからなかった。
いつの間にか、考えることをやめていた。音の響きが、ただその心地良さだけが、感じられる全てになる。そのはずなのに、いつの間にか目の奥にあった熱がひとしずくあふれる。ほとんど気付かないうちに流れていた、さっき揺さぶられた感情の残滓のような涙を頬に感じながら、自分も泣けるのかとどこか他人事のように考えていた。こんな風に制御出来ないまま感情が溢れ出しても魔力が乱れないことの方が不思議で、なのにそれをごく自然なことのように受け入れられている。音楽は流れ続けているのに、時間が止まっているような、不思議な気分だった。
それでもやがて音楽は終わり、その余韻も消えていく。スピーカーから流れる拍手の音がジュリアンを現実に引き戻す。
ちょうどそのタイミングで、携帯端末が震えた。リタの所へ戻るようにとの連絡だ。まだコンサートが続くなら聴いていたいという気持ちは一瞬で掻き消え、ジュリアンはそのままスクリーンに背を向ける。
夢から覚めたような心地で戻った光の宮殿は、リラの力が事ここに至っても取り出せないという事実に混乱していて、その後ジュリアンがその時聞いた音楽について思い出す暇はなかった。
流れていた音が途切れて、ジュリアンはふっと瞳を開ける。一瞬ここがどこだか思い出せなくて、目を瞬かせた。
住み心地良く整えられた部屋。未だに見慣れないけれど、ピアノの前からこちらを見ていたフィラと視線が合った瞬間に穏やかな現実感が戻ってくる。
「すまない。寝ていた」
練習の邪魔をしてしまったかと声をかけると、フィラは少し心配そうに小首を傾げた。
「うるさくなかったですか?」
「いや、むしろ……もっと聴いていたかったような気がするな」
そんな受け答えをしているうちに、さっきまで見ていた夢の記憶は淡雪が溶けるように消えてしまう。夢の名残を忘れたことにすら気付かないまま、ジュリアンは嬉しそうに微笑むフィラを見つめていた。