クリスマスに二人

 昨年は雪が降らなかったから、安全なホワイトクリスマスを楽しめるのは実に百五十年ぶり、ということで、街全体が浮き立っているようだった。ジュリアンと連れ立っていつもより華やかなショーウィンドウの並ぶ石畳の街路を歩きながら、フィラはさっきまで見ていたコンサートのことを思い出していた。
「楽しいコンサートだったな」
 薄く積もった雪に足を滑らせないようにゆっくりと歩くフィラに歩調を合わせながら、ジュリアンがぽつりと呟く。
「まさか寸劇までやるとは思いませんでしたね」
 近くの教会で行われたコンサートは、フィラが通っている音楽院の生徒や教師たちが企画したアットホームなものだった。音楽に限らない演し物が、毎年人気なのだと聞いている。今日の寸劇はキリスト教の文化には詳しくないフィラにもわかりやすい、子どもたちが主体になったキリスト降誕の音楽劇だった。
「生真面目そうに見えたが、ああいうのも好きなのか?」
 ジュリアンが言っているのは、フィラが今師事しているピアノの先生のことだ。今日のコンサートはその先生に招待してもらって、二人で行くことになったのだった。帰りがけに誘われたから、来年はきっとフィラも舞台に立つ方に回ることになるのだろう。
「結構好きみたいですよ。オペラの歌詞音読させられたりしますし」
 その時のことを思い出して、フィラは微笑する。
「もっと感情を込めて、ってお手本見せてくれるんです」
「それはちょっと見てみたいな。今度家でやってみてくれ」
「嫌です! っていうかやるの私の方!?」
 こっちに来てからすっかりトレードマークになってしまった黒縁の眼鏡の奥からフィラを見下ろすジュリアンの瞳は、楽しそうに笑っている。こんなふうにからかわれるのもすっかり日常になってしまった。二年前のクリスマスはそれどころではなかったし、昨年はユリンで大勢に囲まれてだったから、こんな風に二人きりでのんびり過ごすクリスマスは初めてだ。
 そのまま二人で話しながら、馴染みの市場へ足を踏み入れる。こちらでのクリスマスは、今でもキリスト教の行事だった。ジュリアンもフィラもキリスト教徒ではないけれど、リラ教会は昔ながらの行事を積極的に残していくところがあったので、宗教に関係なく家族で過ごす祝日だという感覚は持っている。
 とはいえ、さすがに遥か海の向こうにあるジュリアンの実家を訪ねるわけにもいかないので、今年は二人(とティナ)だけのクリスマスイヴを過ごし、明日は同じアパートの住人やこちらで出来た友人たちとパーティーで交流を深める予定だ。早めに閉まろうとしている市場の喧噪の中、二人は肉屋の前で立ち止まる。
「おう、いらっしゃい。出来てるよ」
 赤ら顔の主人が、カウンターの奥からケースに入れた鶏の丸焼きを差し出してくる。コンサートへ行く前に、立ち寄って頼んでおいたものだ。
「ありがとうございます」
 久しぶりのご馳走に、フィラは顔をほころばせた。奨学金とジュリアンの給料があるとはいえ、さすがに生活は楽ではない。お金のやりくりについて話し合ったり、こうしてたまに贅沢をしたりするのが、最近の二人の楽しみだった。
 他にも年始までの休みの期間に必要なものを買いそろえて、それから二人のアパートを目指した。通りに面した古めかしい鉄扉をくぐり、中庭を抜けてやはり古めかしいエレベーターで最上階へ上がる。そこからまた一階分階段を上ったところが、今の住み処だ。少々不便ではあるが、家賃は安いしピアノは弾けるし大家さんは親切だから今のところ引っ越す予定はない。
 部屋に入って部屋着に着替えた後、ごく自然にフィラは用意しておいたスープやサラダや前菜の準備を始め、ジュリアンは買ってきた丸焼きを切り分け始める。
 フィラが用意を終えて食卓に料理を並べ始める頃には、鶏は崩れた箇所一つなく綺麗に完璧に切り分けられていた。
「うわ、なんかすごく綺麗に切り分けられてる」
 ジュリアンに鶏を切り分けた経験があるとはあまり思えないのだが、それにしては手際が良すぎる。思わず感嘆のため息を漏らしたフィラに、なぜか眉間に皺を寄せたジュリアンが鶏を睨み付けたまま頷いた。
「天魔を斬るための知識がこんなところで役に立つとは思わなかった」
「えっ!?」
 突然日常に割り込んできた非日常的な話題に、一瞬頭の切り替えが遅れる。
「どこを斬ったら良いか知るために解剖学を学ぶんだが」
「ねえ、それこのご馳走を前にしてする話?」
 セントラルヒーティングのラジエーターの上に陣取ったティナが、呆れた表情でツッコミを入れた。
「……何か間違ってるな」
 厳かにナイフを置いたジュリアンが、ため息と共に同意する。
「そ、そうですね……」
 半分困惑しながら、しかしこうして平和な使い方が出来ているのなら良いのかなとフィラは思っていた。時折、戦場の記憶を夢に見て夜中に目を覚ましているジュリアンのことを知っている。過去はなかったことには出来ないけれど、少しずつその記憶が薄れていってくれればと願わずにはいられない。
「それじゃ、食べましょうか」
「ああ」
 食器を全部並べ終えて、二人とも定位置になっている席に向かい合わせに座った。
 静かに祈ってグラスを合わせ、コンサートの感想を交わしたりフィラが知っている舞台の裏話をしながらご馳走をお腹に収めていく。ジュリアンが謎の嗅覚で見つけてきた安いけれど美味しい赤ワインと、オーブンで温めた鶏の丸焼き。あたたかいスープと奮発して買ってきた生野菜で作ったサラダ。食後には手作りのブッシュ・ド・ノエル。
 いつもより満腹で食事を終え、順番にシャワーを浴びていつものようにリビングのソファに座って、一つの毛布を分け合うようにして寄り添い合う。暖房がなかなか効かないこの部屋で暮らすうちに、すっかりこれが習慣になってしまった。
「明日晴れると良いですよね」
 ジュリアンの体温を左肩に感じながら、フィラは小さく呟く。
 明日のパーティーは晴れたらアパートの中庭が会場になるはずだ。雨でももちろん、一階に住む大家さんの部屋を使わせてもらえるはずだけれど、せっかくだから青空の下でパーティーを楽しみたい。
「たぶん晴れるな……この気圧配置だと」
 ユリンを出てもジュリアンの天気予報はよく当たる。旅の間もそれでずいぶん助けられたことを思い出して、フィラは微笑した。天魔との戦いを有利に進めるために覚えたのだろう気象学も、今ではパーティーの予定を立てるために使われている。それで良いのだと思う。
 ジュリアンの研究も、残った天魔をどう討伐し、魔術の消えていく世界でどう人々が生きていくか、そのためのものだと聞いていた。魔力を失っても、ジュリアンの力を必要としている人々がたくさんいることが、側で見ているフィラにはよくわかる。だからこそ願うのだ。ジュリアンが聖騎士団団長としての地位を捨てたことに罪悪感を覚えることなく、穏やかに過ごして行けたらと。
「だったら安心です。今日は雪だったから、ちょっと心配だったんですけど」
「晴れることは晴れると思うんだが、たぶん気温は今日より低い。お湯が出ないとさすがにつらいな」
 このアパートの欠点の一つは、お湯を使いすぎると途中で水になってしまうところだ。そうなるとまたお湯が溜まるまで待つか、我慢して冷水のシャワーを浴びるしかない。お湯のタンクはアパート全体で共有しているので、早めに入ればお湯が出る確率が高い。その代わりできるだけお湯を流さずにさっと入ってしまうのが、このアパートにおける不文律だった。今日も後から入ったジュリアンは途中から水だったのかもしれない。
「風邪引かないように気をつけないと」
「ああ。そのうち何とか出来ないか大家と相談してみよう」
 その口ぶりから、なんとなくジュリアンは解決策を持っていそうな気がした。ボイラーが故障したときに大家さんから相談を受けていたから、その時に何か思いついたのかもしれない。そんなふうに大家さんとも交流があるから、明日のパーティーに参加することになったのだ。
「明日のパーティーも楽しみですね」
「そうだな。賑やかになりそうだ」
 ジュリアンが眼鏡を外してローテーブルに置きながら頷く。
「来年は向こうにも帰れると良いんだが」
 ユリンの皆やジュリアンの家族にも会いに行きたいとは、二人とも思っていることだった。今はまだ生活費だけでかつかつだし、大陸を結ぶ航空便はとんでもない値段だから、そう簡単に里帰りすることは出来ない。
「帰れる当て、あるんですか?」
「まあ……学会についていくかもしれない、くらいだが」
 手を伸ばしたときにずれてしまった毛布をフィラの肩にかけ直しながら、ジュリアンは曖昧に頷く。
「もうそんな話になってるんですか?」
 フィラは驚いて目を瞬かせた。確かまだジュリアンの身分は学生だったはずなのだが、いろいろ話を聞いている限り完全に助手扱いになっているみたいだ。
「いや、一応向こうの言葉や文化がわかる人間がいた方が良いという理由もある」
 それでもジュリアンが戦力として数えられているのはたぶん間違いないだろう。どこに行ってもそういうところは変わらないんだなと思うとなんだかおかしい。
「それじゃ、楽しみにしておきます」
 フィラは笑いながらジュリアンの胸に顔を埋める。毛布の中で背中に回された手が、ゆっくりとフィラの髪を梳いていく。
 静かな夜だ。街に満ちた祝祭の気配は静寂を乱すものではなくて、きっと皆が家族で楽しく過ごしているのだろう空気を伝えてくれる。ラジエーターの上であくびをするティナも、今日はいつもよりくつろいでいるようだった。
 静かに目を閉じながら、こういうのって良いなとフィラは考える。暖かくて、優しくて、甘くて、幸せな。
 クリスマス、だ。