第二話 竜は低気圧を運び、騎士は低血圧を嘆く
2-6 城砦の東、道の西
「寝る場所以外は提供できませんので、今日の夕食と明日の朝食分のお弁当を持ってきてください。明日の午後までかかるようなら、つましいものですがお昼は用意致しますので」
というフェイルの言葉に送られて、フィラは城を後にした。
保護者には竜と会ったことを話しても良いと許可をもらっていたので、酒場に戻ってエディスに今日あったことを話し、城に戻って竜の治療を見届けても良いかと尋ねる。エディスはあっさりと――むしろ諸手を挙げて賛成した。怪我をした竜を助けるなんて滅多にできない体験だから、ぜひ行って見たことを話してくれと言いながら、エディスはバスケットに食べ物を詰め込んでいく。エディスの夫であり踊る小豚亭の主人でもあるエルマーは、いつもと同じように黙りこくっていたが特に反対もしなかった。
「それじゃ、行って来ます」
フィラが裏口から頭を下げると、エディスが何か言う前にエルマーが口を開く。
「気をつけて行ってこい」
必要以上に重々しいその口調にフィラは微笑んだ。
「はい、おみやげ、期待しててくださいね!」
夕日が大地の果てへ沈んだ頃、城に戻ったフィラを出迎えたのは、リサと車で乗り付けたときにも出迎えてくれた黒髪の青年だった。青年は事務的かつどこかワンテンポずれた調子で、フィラを三階の一室に案内してくれた。案内されたのはやたらと広くて天井も高い部屋で、家具といえば分厚い埃をかぶった丸テーブルと、どうにか使えそうなレベルに整えられた天蓋付きベッドだけだった。ここまで案内してくれた青年は、
「バスルームはご自由に使ってくださって結構です。出発する三十分前には誰かが呼びに来ることになっています。それではごゆっくり」
と、やはり事務的なのにのんびりした口調で言ってさっさと去っていってしまった。フィラは丸テーブルの埃を払って荷物を置いて、部屋を探検してまわった。とは言っても、殺風景な部屋には特に見るものもなく、ただバスルームへ続くドアを開いて覗き込んだだけだ。バスルームもベッドと同じように、どうにか使えそうなレベルには整えられていた。
フィラは部屋に戻り、持ってきた荷物を解きながら考えこむ。
――こういうときに話し相手がいないのは、ちょっとさびしいかもしれない。
以前は、いつでもどこでも一緒に行動していた『誰か』がいた気がするのに。
――誰だっけ?
思い出そうとすると、おぼろげな『誰か』の記憶はあっさりと霧散してしまう。いつだって、思い出せるのは昔使っていた扇風機のこととか、どうでもいいことばかりなのだ。本当に思い出したいことは簡単に手をすり抜けていってしまう。
フィラはため息をつき、先にシャワーを浴びてしまうことに決めた。さっさとシャワーを浴びて夕食を食べて、それから寝てしまおう。早ければ深夜に、とさっきジュリアンが言っていたから、早めに寝た方が良さそうだ。
フィラは予定通り早めに床についた。シーツは湿っていてかなり気にくわなかったが、気にくわない気にくわないと思いつつもフィラはしっかり熟睡した。そして、夜明け頃に夢を見た。
夢の中のフィラは、やっぱり眠っていた。眠っているのだから周囲の状況はほとんどわからなかったけれど、自分が病室のベッドに眠っていて、誰かがベッドの脇に座っているということはなんとなく理解していた。
「ユリンへ行くことになった」
ベッドの脇の誰かが、少し堅い口調でそう告げる。
――カイさんの声だ。
目を閉じたまま、フィラはそう思った。
「現領主のラドクリフの監査を命じられたんだ。彼が違法な領地運営をしていることは間違いない。監査など行うまでもなく、上もそれはわかっているはずだ」
カイの口調が堅いのは、怒りがこもっているせいだ。話を聞きながらフィラは思う。
「わざわざ私を派遣するのは、次期領主にジュリアンを据えるための口実なのだと思う。ユリンは特殊な土地だ。あの中であった事件をもみ消すことはたやすい。何か……罠があると考えて良い」
カイはいかにも悔しそうに息を吐いた。
「それでも、私にはラドクリフの罪を摘発しないでおくことなどできない」
騎士と市民という事務的な関係だけでは知ることができそうにない、感情を押し隠していないカイの声。
「すまない……君の兄さんを……私は助ける立場にいるのに」
目が覚めた。
ベッドを覆う天蓋を見上げて、フィラは思う。
――ここはどこだろう?
数回瞬きをする。寝ているのが屋根裏の寝藁の上でないのはなぜ?
フィラは起きあがり、眠気を振り払うように周囲を見回す。天蓋付きの豪奢な、しかし古ぼけたベッド。天蓋の向こうの遠い窓からは、夜明け前の暗い空が覗いている。埃っぽい室内、丸テーブルの上にはフィラが持ってきたバスケット。
――そうだ、お城へ来ていたんだ。
フィラはようやく自分の置かれた状況を思い出し、ベッドから降り立った。地平線がうっすらと白んできているから、夜明けはもうすぐだ。どうやら夜中の呼び出しはなかったらしい。
持ってきた服に着替えていると、ふいに扉がノックされる。
「はい!」
慌てて服の前を合わせながら答えると、フェイルの声が扉越しに聞こえてきた。
「良かった、起きてらっしゃいましたか。今、出られますか?」
「いえ、まだちょっと。少し待っていてください」
フィラは服装を整え、髪を素早く梳かしてバスケットを取り上げる。
「お待たせしました」
部屋の外に出ると、昨日と同じ高位神官の衣装をきっちりと着込んだフェイルが待っていた。
「いいえ。こちらこそ、急かしてしまって申し訳ありませんでした」
先に立って歩き出すフェイルの後を、フィラは少しだけ早足で追いかける。石の廊下を渡り、かつては召使いたちが使っていたのだろう狭い木の階段を下り、中庭を取り囲む回廊を抜けて、二人は城の裏口へ到着する。小高い丘の上に建つ城の裏口からは、東の果てまで続く広大な草原が見渡せる。
「それでは、ここで待っていて下さい。団長はちょっと遅れると思います。先ほどランティスさんが起こしに行ったのですが……寝起きが悪いので」
フェイルは辺りをはばかるような調子で最後の一言を付け加え、一礼して去っていった。
ゆっくりと明るくなっていく地平線を見つめながら、フィラはさっきの夢を思い返す。カイは『君の兄さん』と言っていた。あの文脈からすると、『君の兄さん』はたぶんジュリアンだ。
「……変なの」
フィラはぼそっと呟いた。こんな夢を見るなんて、自分の深層心理はいったいどうなっているのだろう。まさかあの人の妹になりたいなんて願望が……あるわけないし、あってたまるかと思う。むしろ積極的に遠慮させていただきたいところだ。
考えに浸っていたフィラの背後で、裏門の木戸が蝶番をきしませながら開く。
「遅れてすまなかった」
振り向くと、木戸を押し開けたままのポーズでジュリアンが呟いた。あからさまに寝起きの、かすれた眠そうな声だった。
「いえ」
「一時間ほど前に、フィア・ルカから、カナンの村を出たという連絡があったらしい。間もなく、こちらに到着するはずだ」
ジュリアンは必要以上にゆっくりと言いながら木戸を閉め、門柱に寄りかかって両腕を組む。
「……部屋」
ジュリアンは据わった目つきで東の地平線を睨みながら、重々しい口調で言った。
「へ?」
「悪かったな……あんな状態で。ずいぶん……掃除が、できてなかった」
昨日泊まった部屋の話らしい。
「いえ、こちらが急に押しかけたようなものですから。私の方こそ、お忙しいところすみませんでした」
眠いのか不機嫌なのかわからない表情のジュリアンを見上げて、フィラは首をかしげる。
「朝、苦手なんですか?」
「……ああ。……眠い」
ジュリアンの瞳がふっと細くなり、上半身がぐらりと揺れた。
「だ、大丈夫ですか? ふらふらしてますけど」
「大丈夫だ……たぶん。それに、起床は気合いだ」
よく知らない人のことだから確信は持てないが、言動が微妙におかしい気がする。フィラは呆れて訊ねかける。
「……寝ぼけてません?」
「いや……緊張感が足りないだけだな」
――どうだか。
フィラは内心でつっこみを入れた。ちゃんと目が覚めているのか、怪しいものだ。
「……すまないが」
ジュリアンは組んでいた腕を下ろし、やはり眠そうな瞳でフィラを見下ろした。
「ちょっとつねってくれないか」
ジュリアンが右手を差し出す。フィラはどうしたものかとその手を見つめ、しばらく迷ったあげく、まあ本人がやれと言っているのだしと決心して思い切りつねり上げた。
「……容赦ないな、お前。おかげで目が覚めた」
ジュリアンは右手の甲をさすりながら、さっきよりはいくらかはっきりした声で言う。
「それは……おめでとうございます」
フィラは視線を外しながら答える。
「嫌みか」
「いえ、どう答えればいいのか分からなかったもので。すみません、つい」
淡々と謝りながら、フィラはなぜ自分はこんなところで苦手な人と妙に盛り上がりに欠ける会話を繰り広げているのだろうと不思議に思った。
「ま、どうでもいいけどな。朝食は食べたのか?」
ジュリアンの口調は、既にいつものようなはっきりしたものに変わっている。
「まだです」
「じゃあ食べておけ。フィア・ルカが来たらすぐに出るぞ」
フィラは指示に従って門柱の脇に落ちていた岩に腰掛け、バスケットからエルマーが作ってくれたサンドイッチを取り出した。ハムやチーズやサラダや卵や香草を挟んだ、色とりどりのお弁当だ。
「そういえば、聞きたいことがあったんです」
「何だ」
サンドイッチを包むハンカチを膝の上でほどきながら言うと、ジュリアンは横目でこちらを見下ろして聞き返してくる。
「瞬間移動してしまう体質が、変なところで発動しないようにする方法ってあるんでしょうか」
「変なところ?」
ジュリアンは視線を草原の彼方へ戻し、眉根を寄せた。
「現状では無理だな」
しばし考え込んだ後のジュリアンの返答は、実にきっぱりしたものだった。
「その転移能力は、おそらくお前がもともと持っていた能力じゃない。誰かが何らかの形で干渉しているはずなんだ。その『体質』とやらが発動するとき、何か感じなかったか?」
「何か……?」
フィラはサンドイッチに挑みかかるのを中止して考え込む。
「竜と話したんだろう? 感じとしてはあれに近い。直接精神に呼びかけられているような感覚だ」
数回あった発動の瞬間を思い出そうとしてみるが、何も思い当たる節がない。フィラは諦めて首を横に振った。
「気付きませんでした」
「なら、今度転移したときに気をつけてみてくれ。干渉しているのが誰だかわからない限り、俺にも手の打ちようがないからな」
フィラは頷いて朝食を再開する。
草原を渡る風の方向が変わって、それまで草の間に隠れていた道が見えた。遥か東からやってきた道。かつてユリンが城砦だった頃の城壁の名残を越えてユリンの市街地を通り、大地の果てまで続いている黄色いレンガの道だ。城壁跡で本道から分かれた小道が、長く伸びた草の間を縫ってフィラの足下まで来ている。
「干渉している人……何か目的があるんでしょうか」
道の先へ視線を走らせながら、フィラはふいに襲ってきた寒気に身体を震わせた。
「俺が知るわけないだろう」
ジュリアンがにべもなく答える。それはそうなんだけれど、誰かの思い通りにあっちこっち移動させられているのだとしたら、それはかなり恐ろしい話だ。もう少しくらい労るような言葉を掛けてくれても良いのに。
「怖いのか?」
「え? いえ……別に」
内心に広がる不満のせいで、フィラはつい強がってしまう。強がる必要なんてどこにもなかったのに。
「あの、団長、妹さんって、いらっしゃいます?」
勝手に気まずさを感じてしまって話題を逸らそうとすると、ふいにジュリアンの表情がこわばった。
「他人の家庭のことなど放っておけ」
「あ……そう、ですね。すみません」
うっかりさらに気まずくなってしまって、フィラはサンドイッチをかじりながら反省する。変な夢さえ見なければ思いつきもしなかった質問だし、聞くつもりだってもともとなかった。それなのに、何で口に出してしまったんだろう。苦手な人の、しかも貴族のプライベートのことなんて、知ったってしようがないのに。
フィラはどんよりとした気分でサンドイッチを食べ続ける。ジュリアンも口を開こうとせず、草原を渡る風だけがざわざわと波の音のように響く。
一つめのサンドイッチを食べ終えるまで、重苦しい沈黙が続いた。
「……フィラ」
二つめのサンドイッチを取り出すフィラに、ジュリアンが小さく声を掛ける。
「何ですか?」
手を止めて見上げると、ジュリアンは厳しい表情で昇り始めた朝日を見つめていた。
「お前、あまり余計なことを詮索するなよ」
「余計なことって……」
思わず息を呑むフィラに、ジュリアンは「俺の家族の事じゃない」と首を横に振る。
「この町の外に、お前の帰る場所はないんだ」
ジュリアンは寄りかかっていた門柱から身体を離し、真っ直ぐフィラを見下ろした。
「お前はここで、今ここにある自分の居場所を守れ」
奇妙に静かな口調でジュリアンは続ける。
「ここから出してやることは俺にも出来る。だが、その後でお前を保護してやることは出来ない」
息を詰めて耳を傾けるフィラに、ジュリアンは一呼吸置いて言った。
「だから、ここにいろ」
朝日がジュリアンの瞳に入って、やけに鮮やかな色に輝く。
「余計なことは詮索せずに、ですか?」
引き込まれるようにその瞳を見上げながら、フィラは呆然と呟いた。
「そうだ」
ジュリアンは瞳を閉じ、再び門柱に寄りかかる。
納得できない、と、フィラは思った。エルマーが作ってくれたサンドイッチを頬張りながら、地平線の彼方をにらみ付ける。
納得できない、というよりは考えたくないのかもしれない。ユリンの外に広がる、果てしのない草原。その向こうのどこにも、自分の居場所がないなんて。