第三話 ピアノと拳銃

 3-2 ウィンド

 宗教的な意味合いの強い城門前広場の競技と違って、外の人々が集まった時計塔広場の賑わいは定期市も兼ねている。いつものユリンでは見られない色とりどりの布や菓子類、普段は旅商人を待つしかない書物の類も、惜しげもなく並べて売られている。
 珍しい楽器を手にした吟遊詩人やジャグリングを披露する大道芸人に目を奪われながら、フィラは夏祭りの空気を満喫していた。
 町の外に出ることが禁じられているユリンの人々にとっては町の外の文化と大量に接することができる唯一のチャンスだから、時計塔広場の賑わいは夕暮れの市場の喧噪よりもずっと激しい。普段は目にすることもできないような珍しい異国の食べ物を紙皿に盛って売っている屋台、民族衣装を並べている露店、似顔絵を描く絵描きとモデルになっているユリンの町民。フィラも屋台で売っていたサボテンアイスに小銭を支払い、歩きながら味わう。
「それ、おいしいの?」
 紙カップに入ったピンクとミントグリーンの二段重ねのアイスを食べながら歩いていると、ティナが気味悪そうに肩の上から尋ねてくる。
「意外と普通の味。ティナも食べてみる?」
「……いらない」
 逡巡と言うよりは呆れたような沈黙の後で、ティナはため息混じりに断った。
「そう?」
 フィラは呆れられたことを気にすることもなく、賑わう広場を歩き続ける。ガラス細工の動物を売っている商人の前で足を止め、口上に耳を傾けているうちにアイスは腹の中へ消えてしまった。残った紙カップを捨てるため、フィラは広場の隅に設置された公共ゴミ箱へ向かう。
 気づいたのは、紙カップをゴミ箱に放り込んだ直後だった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
 広場の隅を埋める建物の石壁に、フィラとティナの声が反響する。
「変、だよね」
 思わず声を潜めるフィラに、ティナは不思議そうに小首を傾げた。ティナは気づいていないらしい。ざわめく広場の片隅の、その空間だけがなぜか静寂に包まれていた。すべての音が急に遠ざかったような気がして、フィラは思わず周囲を見回してしまう。広場を行き交う人の多さは変わっていない。気のせいかと思い直して歩き出そうと振り向いた瞬間、数メートル離れた場所に立っていた銀髪の女占い師と視線が合った。
 広場に面した小間物屋のショーウィンドウを背景に、彼女は微笑んでいた。天幕も囲いも何もなく、水晶玉やタロットを置いた机すらもない。彼女が占い師であることを示すのは、その足下に置かれている『占いいたします』の看板だけだった。占い師は、まっすぐフィラに視線と笑顔を向けている。
「こんにちは、フィラ。はじめまして」
 静かで穏やかな声がフィラの所まで届いたのは、この片隅の一角だけが静まりかえっていたせいだ。
「は、はじめまして……」
 反射的に挨拶を返してから、フィラははっとして占い師の顔を凝視した。作り物のように整った顔立ちと腰まで届くほど長い銀色の髪のせいで、年齢は判然としない。一見すると二十代後半くらいの大人っぽい美女だけれど、顔を上げるときの一瞬の表情はフィラと同い年くらいの少女のようにも見えた。見覚えはない。
「私の名は『風』。どうぞウィンドとお呼び下さい」
 ウィンドと名乗った占い師は優雅に一礼した。
「あの、どうして私の名前を?」
 身構えながらも数歩近づいて尋ねるフィラに、ウィンドはあくまで穏やかな笑顔を向ける。
「私は旅の占い師。あなたのことを知っているのは、私が知りたいと願ったから。私たちの願いは交差している。同じ願いを持つ限り、いつの日か、どこかで私たちの運命は交わる。だから私は、あなたのことを知りたいと願ったのです」
「う、運命……?」
 どうしよう、これは何か変な壷とか売りつけられるんじゃなかろうか。フィラは急に不安になってくる。
「本当は、あなたは一度選んでいるのです」
 思わず一歩後ずさったフィラに、占い師は変わらない口調で続けた。
「え……?」
「私と同じ願いを。でも、今のあなたは覚えていない」
 覚えていない。二年以上前の記憶は、確かに自分にはない。その失われた記憶の中で、自分と彼女は会っていたのだろうか?
 ――わからない。
 困惑するフィラに、ウィンドと名乗った占い師はなだめるような微笑を浮かべた。
「もしも知りたいことがあるときは、私を訪ねてきてください。あなたが求めるその時に、私もあなたに会いたいと願うでしょう」
「それって、どういう意味……」
 尋ねかけたフィラの顔に、ふいに突風が吹き付ける。目に入りかけた砂に一瞬目を閉じ、もう一度開いたとき、ウィンドの姿は既にそこにはなかった。『占いいたします』の看板すら、幻のように消え去っている。
「い、いない!? 消えた!? どうして!?」
 思わず一番手近にいたティナに詰め寄ると、ティナは面倒くさそうに視線を逸らし、やる気なさそうに口を開いた。
「知らにゃー」
「中途半端に猫の真似はやめようよ……」
 フィラはがっくりと脱力しながらため息をつく。
「知りたいことがあるときは訪ねてきてくださいって……今、知りたいことができたとこなのに」
 彼女が誰で、本当に自分と会ったことがあるのかどうか、とか。彼女が言う『願い』とはいったい何なのか、とか。
 フィラの記憶は滝壺で拾われた後、酒場で目を覚ましたときより前に戻ってはくれない。深い霧に視界を奪われたときのような、頼りない感覚。欠落感。自分の存在が急にあやふやなものに感じられる。
 こんなことは初めてだった。今まで、記憶を取り戻したいとは思っても、記憶がないことを不安に思ったことはなかった。エディスやエルマーが保護してくれたことや、ソニアやレックスと友達になれたことで、ユリンの町で暮らしていくことに全く違和感を感じずにすんでいたおかげだ。それなのに、こうして自分の過去を突きつけられたとたん、急に不安を感じるのは何故なのだろう。
「思い出さなきゃ……いけないのかな」
「んー、別に僕はその必要があるとは思わないけど」
 ティナがあくび混じりに答える。
「無理しなくていいんじゃない?」
「無理……する、つもりはないけど……」
 フィラはもう一度ため息をついて、ウィンドが立っていたあたりに視線をやった。
「ホントに何にも思い出せないの?」
 ティナが微妙な期待を含んだ調子で尋ねる。
「急に変なこと思い出したりはするんだけど……意識して思い出そうとすると、頭の中に靄がかかってきちゃう感じで」
 フィラは小さくため息をつき、軽く頬をふくらませた。
「ピアノの曲なんかは暗譜してるのになあ」
「……変なの」
 ティナは半眼でぼそりと呟き、前へ向き直る。
「私もそう思う」
 フィラもうなずき、広場へ取って返そうと顔を上げる。楽しげな男性の声が話しかけてきたのは、ちょうどその瞬間だった。
「よう、嬢ちゃん」
「うわ!?」
「にゃあ!?」
 フィラとティナは同時に驚いて毛を逆立てた。ティナが驚いた拍子に思わず爪を立ててしまったらしく、右肩に微かな痛みが刺さる。
「ランティスさん!?」
「こんなとこで会うなんて、奇遇だな」
 振り向いたフィラに、大柄な黒人男性はにこやかな表情で片手を上げた。ふと気がつけば、さっきまで奇妙な静寂が支配していたこの片隅にも、夏祭りの喧噪が戻ってきている。
「ランティスさんも、お祭り見学ですか?」
 フィラは奇妙な占い師のことからはとりあえず気持ちを切り替え、なんだか友好的な態度のランティスに笑顔を向けた。
「ん? ああ、見回りだよ。祭りだと羽目外して酔っぱらったり暴れたりするやつがいるかもってリサの提案で……まあ、要するに休暇なんだけどな」
 ランティスは気楽な調子で肩をすくめて笑う。慣れない土地に来てすぐに竜の侵入という大事件があったり、拠点となる城が荒れ放題だったりで、聖騎士たちは今まで休む暇もなかったのだろう。
「剣術大会には出ないんですか?」
 午前中のメインイベントである剣術大会は、毎年盛大に行われているし、領主お抱えの騎士や兵士も参加することが多い。聖騎士団の面々が参加すれば、ギャラリーはさぞかし盛り上がるだろう。ランティスもなんとなくそういう派手な催しは好きそうな気がする。
 しかし、予想に反してランティスの反応は鈍かった。
「いや、その予定はないなあ。市民の皆さんに俺の華麗な剣技をお見せできないのは残念だが、俺らが出ると上位独占しちまうから」
 ずいぶんと自信たっぷりだ。根拠は――たぶんあるのだろうけれど、なんとなくユリンの町の皆が一段下に見られたようで悔しい気もする。
「やってみないとわからないですよ。もしかしたらユリンにもすごい人がいるかも」
 右肩のティナが呆れたようにため息を漏らすのも気にとめず挑発してみると、ランティスは困ったような苦笑いを浮かべた。
「いや、ほら、正式な訓練受けてるのと受けてないのとじゃやっぱり全然違うからさ。基本的に禁止されてるんだよ、こういうアマチュアの大会とかに出るのは。身体能力を魔術で強化してる部分もあるわけだし」
「あ、そうか……魔法が使えるんですもんね」
 それでは確かにアマチュアの大会に出るのは不公平かもしれない。
「そうそう……お?」
 勢いよく頷いたランティスは頷いた拍子に何かに気づいたらしく、ふいにフィラの背後へ視線を飛ばした。つられて振り向いたフィラの視界に、人混みで一際目立つ白と青の聖騎士団団服に身を包んだ金髪の青年が飛び込んでくる。右肩のティナが小さく「げ」と呟き、フィラも一瞬似たような感想を抱いた。
「おーい、ジュリアン!」
 できればジュリアンとの接触は避けて通りたいというフィラの思惑に気づくはずもなく、ランティスは大声で呼ばわって右手を振る。ジュリアンがこちらを見る。フィラは自分の表情筋が強張るのを感じる。
 ティナには信じてみたいと言ったものの、相変わらず警戒心は働いてしまうし、バルトロのノートを見るたびに引っかかりは覚えるし、側にいると妙に緊張するし。どんな態度を取ればいいのかもよくわからないから、できれば関わり合いになりたくない。それなのに、ジュリアンは逃げる間もなくこちらへ近づいてきてしまう。
「待ち合わせ場所にいないと思ったら、こんなところで油を売っていたのか」
 片手に広場で買い集めたらしい荷物の箱を抱えたジュリアンは、いつにも増して不機嫌そうな目でランティスを睨んだ。
「そうつんけんするなって。嬢ちゃんに頼みたいことがあったんだよ。せっかくだから一回くらいはピアノ聴いてみたくってさ」
「わざわざ聴くほどのものなのか?」
 大げさに肩をすくめるランティスに、ジュリアンはあくまで冷ややかな口調を返す。
「そりゃまあ、お前みたいに興味ない奴は知らないだろうけど、一応その方面じゃプロとして活動してたんだ。そこそこ有名なんだぜ、この嬢ちゃん」
「そうか」
 ジュリアンはちらりとフィラを見て頷いたが、興味はまったく感じていなさそうだった。
「なあ嬢ちゃん、お願いできないか? 二、三曲でいいんだ。俺のために弾いてくれよ」
「それは……かまいませんけど」
 でも、いつどこで? と尋ねる前に、ランティスはジュリアンに向き直る。
「つーことでさ、一緒に聴かせてもらおうぜ。お前だっていいとこのぼんぼんなんだから、ちょっとくらいそっちの教養高めておいても損はないだろ?」
 ランティスは親しげに、かつ乱暴にジュリアンの肩を叩いた。結構いい音がフィラの耳にまで届き、ジュリアンが顔をしかめる。
「私のピアノが教養になるんですか?」
 手加減した方が良いのではと思いつつ、それを言うとジュリアンの機嫌がますます下降しそうで怖いので、フィラはとりあえず二番目に疑問に思ったことを口に出した。
「俺にとっては趣味だけどな」
「はあ」
 答えになっていない気がする。
「よし、そうと決まれば」
 ランティスはフィラの困惑にもジュリアンの不機嫌にも頓着することなく、嬉しそうにターンを決めた。
「おい、何がいつ決まったんだ」
 ジュリアンが叩かれた拍子に取り落としそうになった荷物を抱えなおしながら尋ねる。
「踊る小豚亭にはピアノあるんだろ? 行こうぜ」
 ランティスは今さら何を言っているんだという顔で振り向いてそう言った。
「……強引ですね」
 先頭に立って歩き始めたランティスに、フィラは思わずため息をつく。
「趣味が絡むといつもこうだ」
 呆れた調子のジュリアンも隣で嘆息し、致し方ないと言いたげな重い足取りでランティスの後に続く。
「まあ、昼食を食べる場所を探していたところだから、酒場に移動するのは構わないんだが」
 隣に並んだフィラに、ジュリアンは感情の読み取れない声で呟いた。
「今日はお店閉まってますから、お料理お出しできないんですけど……」
「じゃあ何か買っていくか」
 ジュリアンはやはり何の感慨もこもっていない瞳で広場を見渡す。
「何か食べたいものはあるのか? 俺は何でも構わないんだが」
「あ、じゃあ、ピロシキ! ピロシキ食べてみたいです」
 フィラは広場を見渡し、すぐ近くで揚げたての良い匂いを漂わせていたロシア式揚げパンの屋台を指差した。
「て言うかなんでこの状況を受け入れてるんだよ? 僕こいつと昼食なんて嫌なんだけど」
 右肩のティナが、他の通行人には聞こえない程度の小声で文句を言う。
「まあそう言うなって子猫ちゃん。仲良くやろうぜ」
 先を行くランティスが耳聡く振り返ってティナをなだめ、ジュリアンは「夏にピロシキか」と呟きながらもピロシキを買いに行った。そしてフィラは、どうして自分がこの状況を受け入れてしまっているのかを考えていた。
 確かにティナの言うことにも一理あるのだ。フィラだって、ジュリアンのことは相変わらず苦手なはずなのだから。
 ――きっとピアノを聴きたいと言われて嬉しかったからだ。
 ジュリアンが三人分のピロシキを買ってフィラたちの所へ戻ってきた頃、フィラはそう結論を下した。それに、ランティスが自分の過去について何か知っていそうなのも気になる。
「これで食料は確保できたか。休みでも嬢ちゃんがいれば飲み物は頼めるよな?」
 ジュリアンが黙って差し出した紙袋を抱えながら、ランティスがフィラに尋ねた。
「あ、はい、お出ししますよ」
 フィラはとっさに接客用の笑顔を浮かべて頷く。
「オーケーオーケー。いい感じだ。そんじゃ行くか!」
 ランティスはいまいちノリの悪い一同を鼓舞するように宣言し、先頭に立って歩き始めた。