第三話 ピアノと拳銃
3-5 鍵
こういうのも運命の悪戯と言うのだろうか。
前領主の支配の下ではユリンの町民は誰一人足を踏み入れられなかった城に、フィラが足を踏み入れるのはこれでもう三度目だ。ついこの間まで、自分とはまったく縁のない場所として、ただ街中で方向を見定めるためにだけ見上げてきたゴシック様式の壮麗な尖塔。その下の礼拝堂に、フィラは今案内されたところだった。
「この奥だ」
ジュリアンはそう言って、精緻な彫刻で飾られた両開きの扉を開いた。中庭に面した薄暗い回廊に、礼拝堂からあふれ出た淡い光が差し込む。
礼拝堂は広かった。以前は城の者だけでなく、近隣のリラ信仰者にも開かれていたのかもしれない。うっすらと埃を被った信者席は、優に二百人は収容できそうな数だった。薄闇に沈む高い天井に向かって幾本もの花崗岩の柱がそびえ立ち、色のない彫刻の群れを支えている。側廊に配された先の尖った細長い窓にはステンドグラスがはめ込まれ、色とりどりの光を幾筋も堂内に落としていた。
祭壇の後方にはパイプオルガンがそびえ立ち、その向こうのバラ窓が投げかける光に巨大なシルエットを浮かび上がらせている。前領主のことを考えるとあまりきちんとした手入れはされていそうにないが、礼拝堂の規模と比べても随分立派なパイプオルガンだった。
祭壇の右手には聖歌台。それと対になる左手の壇上には、一台のグランドピアノが置かれていた。
「あのピアノですか?」
フィラの問いかけにジュリアンは無言で頷き、先に立って礼拝堂の奥へと歩き出す。ジュリアンの後を追いながら、フィラは行く手にあるピアノを観察した。
随分と大きなピアノだ。記憶をなくす前に毎日弾いていたピアノよりもずっと大きい、気がする。おそらくフルコンサートグランドだろう。
「団長、あのピアノって」
前を歩くジュリアンに、フィラは控えめな声で呼びかけた。石造りの礼拝堂の中はしんと静まりかえっていて、フィラが履いている布靴の足音さえよく響く。大きな声を出すのはためらわれた。
「前の領主様の頃からここにあったんですか?」
「いや。俺が来てから運び込んだ」
ジュリアンは振り向きもせず、あっさりと答える。
「運び込んだときにメンテナンスしたばかりだから、調子は良いはずだ」
ジュリアンはピアノの前で立ち止まり、ポケットから鍵束を取り出してピアノの天板を開いた。
「わざわざ運び込んだってことは、どなたかピアノをお弾きになる方がいらっしゃるんですか?」
「そういうわけじゃない。このピアノは俺の私物で、他に置き場所がなかったから置かせてもらっているだけだ」
「私物って……フルコンサートグランドがですか……」
感心するというよりは呆れかえった心持ちで、フィラは三メートル近い長大なピアノの全身を眺め渡す。夏祭りの日の様子からして、ジュリアンがピアノに興味を持っているとは考えにくい。それなのにこんなやたらと豪華なピアノを所有しているというのは、一体どういうことなのか。貴族の道楽だろうか。
「楽器の製作会社から寄贈されたんだ」
呆れかえったフィラの視線に気付いたのか、ジュリアンはぶっきらぼうな調子で説明を始める。
「俺はピアノは弾かないし、中央省庁区の家にも置くスペースがないし、寄贈されたものをまたどこかに寄贈するわけにもいかないしで処置に困っていた。それでこちらに異動が決まった後、実家に預けておいたのを引き取って移したんだ」
「どうしてピアノ、弾かない人に寄贈したりしたんでしょうね?」
ピアノに歩み寄って筐体を覗き込むと、フレームに六桁の製造番号が刻まれているのが見えた。型番だろう『FC-277』の飾り文字に並んだ数字は『000001』だ。
「しかも製造番号一番って」
「俺が貰ったわけじゃない」
ジュリアンの口調にどことなく苦しげなものを感じて、フィラは顔を上げた。合いそうになった視線はジュリアンの方から外されて、フィラは小首を傾げる。ジュリアンが何をためらっているのかわからない。
「……寄贈されたのは、妹だ」
相手が彼でなければ泣き出しそうだと思ってしまうような表情でジュリアンは言う。見てはならないものを見てしまった気がして、フィラはピアノの鍵盤の蓋に視線を落とした。ジュリアンにとって、妹のことは触れられたくない話題だったはずだ。この間、妹がいるのかと尋ねたときの反応を考えれば。
「どうせ誰も弾かないんだ。だから、お前が使え。その方がピアノのためにも良いだろう」
――その、意味するところは何なのか。
フィラはいつの間にか呑み込んでしまっていた息をゆっくりと吐く。
「……考えて、おきます。エルマーさんとも、相談、したいので」
やたらぎくしゃくした口調になってしまって、フィラは内心落ち込んだ。
もっとさらっと流さなければならないような場面なのに、どうしてこう、上手くやれないんだろう。
「そうか」
しかしジュリアンの返答には不自然さを気にした様子は微塵もなく、もうすでにいつもの調子を取り戻したようだった。
「一応使うことになったときのために説明しておくが、楽譜はあそこの棚に難しげなものが並んでいるから、好きに使うと良い」
フィラは慌ててジュリアンが指し示した方を見る。パイプオルガンの演奏台の脇に、柱の陰に隠れるように書棚が設置されていた。
「あの棚の鍵はこれだ」
ジュリアンは続いてさっきピアノの天板を開く時に使っていた鍵束を持ち、その中の一つを示した。
「こちらがピアノの鍵でこっちは裏門の鍵、これが礼拝堂の鍵」
早口で次々と示される鍵と対応する場所を、フィラはだいたいの大きさだけでどうにか記憶する。エリート揃いの聖騎士団ではこのスピードでの説明が普通なんだろうかと思うとちょっと目眩がしそうだ。フィラには到底やっていけそうにない。
「出入りは自由だ。お前の保護者が外出を許可するなら、何時に弾こうとかまわない。居住区までは音は届かないからな」
「は、はい」
目眩を感じる内にも説明は続き、フィラは慌てて返事をする。ジュリアンは譜面代の脇に鍵束を置き、続いて聖歌台の後ろの扉を指差した。
「トイレはその扉を出てすぐ左だ。他の部屋は聖具室だが、入るなよ。警報が鳴ると面倒だ。何か問題が起こったらそこの」
と、ジュリアンは扉のすぐ右脇にある真鍮のボタンを指して続ける。
「インターホンを押してくれ。警備室に繋がる」
「ええと、問題って言うとピアノの弦が切れたとか不審者が出た、とかですか?」
ようやく口を挟むタイミングが巡ってきて、フィラは半ば思考をとりまとめるための時間稼ぎで質問した。
「そうだ。それから、この部屋を使うに当たって、特に聖騎士団の誰かに断りを入れる必要はない。好きなときに来て、好きなときに帰れ。ただし一人で来ること。お前の友人たちにまで城への立ち入り許可は出せない。ティナは連れてきても構わないが、余計なところには出入りしないようにしてくれ。他に質問は?」
「え……と、特には」
頭の中で(凹凸の少ないのがピアノので小さいのが本棚ので一番大きいのが裏門で)と必死になって反芻していたフィラには、質問まで考えているような余裕はない。
「では、説明は以上だ」
ジュリアンは頷きながら、鍵盤を覆っていた蓋を持ち上げる。
「少し弾いていくと良い。帰るときは扉の鍵を閉めていってくれ」
「あの、ありがとうございました。まだ、使わせていただくかどうかわかりませんけど」
深々と頭を下げてから顔を上げると、ジュリアンは微苦笑を浮かべながら口を開いた。
「礼は別に良い。口止め料だって言っただろ。鍵の貸出期間は無期限だ。いらなくなったら返してくれ。明日でも俺がここを去るときでも、いつでも好きなときに」
その夜、フィラはエディスとエルマーと三人で話し合い、酒場が忙しくない時間はピアノの練習をしに礼拝堂へ通うことを決めた。早起きが得意だから早朝と、酒場が空いている昼過ぎから夕方近くにかけてを主な練習時間にしようという結論を抱えて、フィラは屋根裏部屋へ戻る。
「昼間あいつが来てただろ」
先に屋根裏に上がっていたティナが、寝藁の上から問いかけてきた。
「あいつって、団長のこと?」
寝間着に着替えながらフィラも聞き返す。
「うん。何の用だったの?」
「練習用に、お城の礼拝堂にあるピアノを使わせてくれるって。酒場のピアノじゃ練習は無理でしょ? お店が開いてるときはお客さんがいるし、お店が閉まってる時間には近所迷惑になるし」
「その申し出、受けるの?」
フィラは寝間着を頭から被り、前のボタンを留めながら頷いた。
「うん……エルマーさんたちも賛成してくれてるから」
「……そう」
ティナは瞳を伏せ、寝藁の上で丸くなる。
「ティナは? 反対?」
のど元のボタンを留めながら、フィラはティナを見下ろして首を傾げた。ティナは首だけを持ち上げてフィラを見つめる。
「反対はしない。僕も君にはピアノ続けて欲しいって思ってるから」
「そっか」
フィラは微笑み、ティナの背中をそっと撫でてから、枕元のランプを吹き消した。