第五話 月のない真昼

 5-2 石の鍵盤

「フィラフィラフィラフィラ、大ニュース!」
 夕方、エディスと直接話をしたいというジュリアンと共に、踊る小豚亭に戻ったフィラを出迎えたのは、ソニアのはしゃいだ声だった。
「どうしたの?」
 店の外まで飛び出して来たソニアの勢いに押されて一歩退きながら、フィラは尋ねる。
「あのね、お城でパーティーがあるんですって! ダンスよ、ドレスよ、ああもう、本当に夢みたい……」
 フィラの手を握って飛び跳ねていたソニアは、そこではたと言葉を切った。フィラの肩越しに固まってしまったソニアの視線を追いかけたフィラは、ジュリアンと目が合って思わず生ぬるい微笑を浮かべる。当のパーティーの主催者が一緒にいるとは、ソニアも思っていなかったのだろう。
「喜んで頂けて光栄です、マドモワゼル」
 ジュリアンは自分に視線が集まったことに気付いて、優しげな微笑みを浮かべながら優雅に騎士の礼をした。似合いすぎていて逆に激しい違和感がある。しかも何だか妙にキザだ。フィラは笑顔を引きつらせながらソニアに視線を戻す。
「え、と。パーティー?」
「う、うん。今度光王庁から視察団が来るから、その歓迎パーティーをするって、お城の正門の掲示板に貼り出されてたの。一般の町民も参加して良いって。パーティーは一週間後よ」
 ジュリアンに遠慮しているらしく、ソニアはややおとなしめの声音と調子で説明した。
 視察団が来るから忙しいという話は聞いた気がするが、パーティーの準備までしているなら、確かに寝る暇もないほど忙しいだろう。フィラはこっそりとジュリアンの様子を窺いながら考え込んだ。
 そんなに忙しいのに、ここまで足を運んでくれるなんて、そんな暇あったんだろうか。竜との会話がそんなに大事なこととは思えない。さっきの話だとどうも竜の暇つぶしに付き合え、みたいな感じだったのに。何か裏があったりして、と、思わず勘ぐってしまう。
「お城の大広間まで入れるなんて、今までなかったことじゃない? 楽しみでたまらないの。ああ、領主様、本当にありがとうございます」
 フィラが眉根を寄せて考え込んでいるうちにも、ソニアはうきうきとしゃべり続け、ジュリアンに向かって頭を下げた。
「あまりご期待には添えないかもしれませんが……。現在城中総出で大掃除をしているのですが、手の回らないところもありますから」
「まあ、領主様。それなら私たちに一声かけて下されば、みんな喜んでお手伝いしますのに」
 苦笑を浮かべるジュリアンに、ソニアはいつもより心持ち高い声で言う。
「ありがとう。考えておきます」
 ジュリアンはやはり優しい調子で頭を下げると、では奥様に話があるので、とか言って酒場に入っていった。その背を見送りながら、ソニアはうっとりと両手を組む。
「領民の生活だけじゃなく、憬れや好奇心も理解して下さって……しかもさらっと前例を無視……格好良いわあ……」
 ――格好良さって何だろう。
 思わず遠い目で考えるフィラに、ソニアがぱっと振り向いた。
「それでねフィラ、参加する私たちにとって一番大事なのは、やっぱり衣装だと思うわけ。だから明日、一緒にドレスの採寸に行かない? 貼り紙を見てすぐに仕立屋に走ったんだけど、予約、明日の夜しか取れなかったの。フィラだってドレス、作らないとないでしょ?」
「明日の夜は……」
「急で悪いんだけど、明日しか取れなかったのよ。パーティーまで日にちないから、一気に混み合っちゃって。もう予約一杯なんだって。パーティーまではもう、一切空きがないから。酒場が混む時間なのはわかってるけど、エディスさんだってフィラがドレスなくてパーティーに出れないなんてなったら悲しむと思うし。ね? フィラも一緒に行こ?」
「い、いや、そうじゃなくて……」
 何て言えば良いんだろう。竜がまだ結界内にいることは秘密のはずだから、それを言うわけにはいかないだろう。でも、嘘はつきたくない。
「ごめん、ソニア。私、明日ちょっと先約があって」
「外せないの?」
 残念と心配が半々の表情で、ソニアはフィラの顔を覗き込む。
「わからない。団……領主様に聞いてみないと」
「先約って領主様と? お仕事? ピアノ関係?」
「えーとね」
 正直に、竜とお話するためです、とは言えず、フィラは返事に詰まる。
「ピアノの調律に立ち会っていただきたくて、私がお呼びしたんです。申し訳ありません、マドモワゼル。調律師が明日の夜にしか来られなくて」
「うわ!」
 突然背後から別の声に答えられて、フィラは思わず驚きの声を上げた。
「領主様」
 ソニアもそれなりに驚いたらしく、目を見開いてフィラの背後を見上げる。
「お話、もう終わったんですか?」
「ええ。お忙しそうだったので、手短に」
 ジュリアンの方が遙かに忙しいんじゃないかという気もするが、確かにそろそろ忙しくなってくる時間帯だ。立ち話をしている場合ではなかったと、フィラは少し慌てる。
「あ、私、もう手伝いに入らないと」
「ごめんね、引き止めちゃって」
 ソニアは申し訳なさそうに頷き、気にしないでと首を振ったフィラにジュリアンも礼儀正しく頭を下げた。
「それでは、明日、よろしくお願いします」

 翌日の夕刻、フィラは一人で領主の居城へ来ていた。ティナは「光の神と闇の竜ではやっぱりそれなりに反発もあるから」と言ってついて来なかったのだ。いつもの習慣で裏門から回ったフィラは、礼拝堂へ続く中庭を囲む回廊で、壁に向かって難しい顔をしているジュリアンに気付く。
「何してるんですか?」
 無視してすぐ横を通り過ぎていくのも妙な話なので、フィラは立ち止まって尋ねかけた。
「フィラ。お前、秘密は守れるな」
 ジュリアンは壁を睨み付けたまま、重々しく確認する。
「はい?」
 答えになっていない。何を突然言い出すのかと、フィラは思わず変な顔で聞き返した。
「ここ、他と叩いたときの音が違うと思わないか?」
 ジュリアンは手に持っていた剣で、半分蔦に覆われた石壁を叩いてみせる。音よりも先に、継ぎ目のほとんどない無機質で真っ白な剣のデザインに興味を惹かれた。先日ランティスが聖騎士団全員に支給されると教えてくれた、オーソドックスな形の剣とはデザインが違う。刃の部分も真っ白だから、あまり刃物に見えない。いったい何でできているのだろう?
「お前の方が耳は良いだろう」
 ジュリアンに言われて、フィラは慌てて耳を澄ます。ジュリアンは目の前の壁を叩き、次いでアーチ型の柱に挟まれた隣のブロックの壁を叩いた。
「確かにここだけ壁が薄いみたいですね。向こう側で反響してる……もしかして隠し通路でもあるんでしょうか?」
「構造的には、この向こうに何か空間があってもおかしくはないな」
 ジュリアンはフィラに下がっているよう指示を出し、壁を覆っていた蔦を切り払う。
「城の図面を見ていて少し気になったんだ。何もなくても不自然ではないが、何かある可能性もなくはない。そういう微妙なスペースがあったものだから」
 説明しながらかがみ込んだジュリアンにつられて、フィラも腰を落とした。ジュリアンは儀礼用の手袋が汚れるのも構わず、切り払った蔦や積もっていた埃を除けている。その手元を覗き込んだフィラは、壁際にできた段差に線が刻まれているのに気付いた。
「これ、鍵盤みたいですね」
 黒鍵も白鍵も色はついていないけれど、線が描く模様はピアノの鍵盤に酷似している。
「何かの鍵になっているのか……?」
 鍵盤の上に手をかざしていたジュリアンが考え込むように呟いた。
「鍵?」
 ジュリアンが手をかざしている部分を、虹色の光が細い幾何学模様を描きながら走り抜ける。
「たぶん、順番通りに魔力を流せば別の魔術が発動すると思うんだが……上にも何か書いてあるな」
 ジュリアンは顔を上げ、石の鍵盤らしきもののすぐ上の壁を手で払って埃を落とした。
「ヒントは恐らくこれだな」
 埃の下から現れたのは、周囲の壁と同じ石材で作られたプレートだ。
「これって……ネウマ譜、なのかな?」
 一見すると四角い模様がぽつぽつと描かれているだけだが、すぐ下に鍵盤があることを合わせて考えると楽譜に見えなくもない。
「ネウマ譜?」
 目を細めてプレートを観察しながら、ジュリアンが首を傾げる。
「かなり初期の記譜法です。八世紀か九世紀頃発生した記譜法で、初期のものは音の上がり下がりくらいしか読み取れないんですけど……これもそうですね」
 元は蔦の模様や天使の絵で飾られていたらしいプレートは、もうかなりすり減ってしまっていた。深く穴を穿たれた音符の部分は読み取れるが、その他の線や装飾はほとんど判別がつかない。
「正確な音高やリズムはこれだけじゃちょっとわからないです。譜線ももう、もともとあったのかどうかもよくわからないし」
「これは?」
 プレートに付着していた苔や埃を取り除いていたジュリアンが、最初の音符の下に書かれている星のような記号に気付いて指し示す。
「さあ? 見覚えはないですけど……私も、あまり詳しいわけではないので」
 答えながら、フィラはプレートや鍵盤の付着物を取り除けるのを手伝った。しばらく二人は黙々と作業を続ける。
 いったいこんなところで貴族と並んでしゃがみこんで何をしているのだろうと疑問に思いつつも、フィラは黙って苔やら埃やらを払い続けた。
 そしてふと、ジュリアンと会うたびに感じていたはずの緊張感が薄れてきていることに気付く。理由は予測がつくような気がした。きっと彼が、妙にこちらを信用しているような素振りを見せるせいだ。寝顔を見せたり、意見を求めたり。
 わかっている。それは恐らく、本当の意味での信頼なんかじゃない。フィラの存在がジュリアンにとって、それだけ軽いものだという証拠なのだろう。多少弱みを見せられたって、そこにつけ込むほどの力さえ、フィラは持っていない。魔力も権力も財力もない、毒にも薬にもならない一般庶民だと思われているに違いない。
 ――よし。
 フィラは密かに握り拳を固める。
 久々に良い感じにファイトが湧いてきた。脳裏を掠めるのは、いつだったか空を飛びたいという夢を語っていたときのバルトロの生き生きとした笑顔だ。特に何ができるというわけではないけれど、負けるものかと思う。
「おい」
 勢いよく苔を削っていたフィラの動きを、ジュリアンの声が止めた。
「その苔に何か恨みでもあるのか?」
「え? いえ、別に……?」
 ジュリアンは呆れ半分の視線を向けながら呟く。
「じゃあ、俺にか」
「さ、さあ……?」
 ばれてーら、と思いながら視線を逸らしたフィラに、ジュリアンは大げさなため息をついた。
「それ、同じ記号じゃないか?」
 指差されたフィラの手元には、最初の音符の下に描かれていたのと同じ、星形の記号が刻まれた鍵盤がある。
「本当だ。この音が最初の音ってことなんですかね?」
「そうなんじゃないか? よくわからないが」
 フィラはほとんど無意識に楽譜通り弾こうとするが、石の鍵盤はびくともしない。さっきジュリアンが言っていた通り、魔力だか魔術だかを使わなければ反応しないのだろう。
「団長、楽譜は読めます?」
 フィラは鍵盤から指を離し、ジュリアンの横顔を見上げた。
「単旋律なら時間はかかるが読めなくもない」
「……学校で習った程度、ってことですか?」
 少し意外な答えだ。なんとなく、こういうこともそつなくこなしてしまいそうなイメージがあったのに。
「一応ヴァイオリンも習っていたことはあるんだが……半年続かなかったからな」
「団長とヴァイオリン……」
 気まずげな呟きに、フィラはついジュリアンがヴァイオリンを構えているところを想像してしまう。
「……恥ずかしいくらい似合いそうですね」
「どういう了見なんだ、それは」
 即座につっこみを入れられて、フィラはわざとらしく視線を逸らした。
「それじゃ、私が楽譜を読むので、魔力がどうとかいうのはお任せしますね」
 ジュリアンは再び呆れたようなため息をつく。
「楽しそうだな、お前」
「そうですね。宝探しみたいでわくわくします」
 フィラは微笑みながら最初の鍵盤を指差した。
「それじゃ、私が指す通りに操作をお願いします」