第五話 月のない真昼
5-4 残り香
ユリン研究所跡地は、ユリンの町北東にそびえ立つ台地の上にあった。周囲を森に囲まれているので、ユリンの市街地からは見えないが、城の一番高い塔からならそのドーム型の屋根を観測できると、ジュリアンが行きの車の中で教えてくれた。城からの直線距離は歩いて三十分かからないくらいなのだが、台地へ上る道が北側の一本しかないため、実際には車で十数分の道を行かなくてはならない。
「なんだか、変なお泊まり会みたいですね」
フィラは窓枠に肘をついて外を見つめながら、ぼそりと呟いた。開けた道を行く車の窓からは、満天の星空がよく見える。月はまだ出ていない。
「みたいというか、実際変なお泊まり会だろう」
運転席のジュリアンが、ごく冷静に返事をくれた。ジュリアンの様子だけを見ていると、まるで高級スポーツカーでも運転しているかのように優雅なのだが、実際に乗っているのはあちこちガタの来ている軽自動車なのが妙な感じだ。
「……そうですね」
他に反応のしようもなくて、フィラは小さくため息をついた。
「団長って」
「何だ?」
呆れを含んだ声音に、ジュリアンが不審そうな顔をする。
「どこまで冗談が通じるんでしょう?」
「何の話だ?」
ますます訝しげな表情になったジュリアンをバックミラー越しに覗き見ながら、フィラは言葉を続けた。
「カイさんよりは通じそうなんですけど」
「まあ……それは否定しないが」
やはり不審そうな表情のまま、それでも律儀に答えるジュリアンがおかしくて、フィラは少し笑った。笑われたのが気に入らなかったのか、ジュリアンは眉根を寄せてスピードを上げる。
それきり会話もなく、車はユリン研究所跡地へ向かった。
ユリン研究所跡地には、観測塔以外のまともな建物は残っていなかった。建物の土台は植物に覆われながらもいくつか残っていて、研究所のもともとの巨大さを物語っていたけれど、今はもう往時の面影など偲ぶべくもない状態だ。観測塔自体も、資材が不足していた時代に三分の一くらいは持って行かれてしまったらしく、壁と屋根の一部が崩れてドーム内部も吹きさらしに近かった。
ジュリアンは観測塔の壁が切り取られた部分の脇に車を止め、寝袋と毛布と明日の朝食用の弁当をトランクから下ろす。毛布を抱えたフィラは、夜空を見上げて感嘆のため息をついた。
「天の川、すごく綺麗に見えますね」
「ああ……そうだな」
横に立ったジュリアンの声が妙に素直な調子だったので、フィラは思わずジュリアンの横顔を見上げる。
「だが所詮……」
ジュリアンの表情が、ふと厳しさと鋭さを増した。けれど続く言葉は、逆に曖昧にぼかされてしまう。
「団長?」
「いや、行こう」
そう言って寝袋を抱え上げたジュリアンは、ふと動きを止めて顔をしかめた。
「……この寝袋、やめた方が良いかもしれないな」
「どうかしたんですか?」
「少し臭う」
やめた方が良いというほどの臭いなのだろうか。フィラは思わず寝袋に顔を寄せる。倉庫に放置されていた物品にありがちなすえた臭いの間から立ち上る、結構強い臭いは。
「鉄の臭い……?」
ジュリアンはどこか投げやりな調子で首を横に振る。
「血の臭い」
「血」
呆然と復唱するフィラに、ジュリアンはため息をついて踵を返した。そのまま車まで戻り、トランクに寝袋を放り込む。
「一番ましなのを入れておけと言ったんだが」
「それが一番ましだったんじゃないでしょうか」
フィラは不満そうな背中にフォローにならないフォローを入れた。
「そうなんだろうな。全く、嫌なことを思い出させてくれる」
ジュリアンはいささか乱暴な手つきでトランクを閉じ、面倒くさそうにコートのボタンを外し始める。
「すまないが、今日はこれで我慢してくれ」
台詞と共に、聖騎士の制服である白いロングコートがフィラに投げて寄越された。意外な軽さに、フィラは軽く目を見張る。
「洗濯もしていないもので申し訳ないが、一応体温と外気温に合わせて内部の温度を調節する機能のある魔術具だ。それさえ着ていれば、零下で寝ても凍死しない」
不思議そうな顔をしていると、そんな解説が飛んできた。
「寝具じゃないから、寝心地は保証できないが」
ワイシャツ一枚のジュリアンが気まずそうに目をそらす。夏とはいえ高地の夜にその格好では少し寒そうで、フィラの方も申し訳ないような気分になった。
「いえ、私の方こそ、全部お任せしてしまってすみません。ありがとうございます」
「頼んだのは俺の方だ。悪いな、色々と準備不足で」
結構本気で気落ちしているらしい背中に続いて、フィラは観測ドーム内に足を踏み入れる。
ドーム型の屋根は、外側から見て思っていたよりも大きく崩落していた。まるでできそこないのプラネタリウムのように崩れた屋根を覆う星空が美しい。部屋の中央には、天体望遠鏡らしき巨大な機械の残骸があった。周囲より一メートルほど高い台座に設置された装置を取り囲むように幅の広い螺旋階段が刻まれ、それがそのまま地下へと続いている。竜はそこにはいなかった。
ジュリアンは十分な平面を確保できる場所に毛布を下ろし、その場に立って腕を組み、黙り込む。フィラが沈黙の意味を考え始めたところで、ジュリアンは組んでいた腕を解き、フィラへ振り向いた。
「すぐ来るそうだ」
どうやらこの短い沈黙の中で、リーヴェ・ルーヴと連絡を取り合っていたらしい。そんなこともできるのか、と、渡されたコートをたたみ直しながらフィラは感心する。
「言っておいても驚くだろうが、一応、覚悟はしておけ」
そんなフィラに向けて、ジュリアンが何やら不穏な台詞を口にした。
「覚悟、って何の」
尋ねようとしたフィラは、ジュリアンが目線で示した方を見て口をつぐむ。螺旋階段の下から、音もなく闇があふれ出していた。液体と言うには粘性や光沢が感じられない。リーヴェ・ルーヴが闇の竜ならば、やはりこれは闇なのだろう。あふれ出した闇は天体望遠鏡を抱え込むように盛り上がり、やがて竜の形を取った。
フィラは確かに驚いた。竜の生態なんて全く知らないから何があっても不思議ではないのかもしれないけれど、まさか竜以外の形を取ることができるなんて思わなかった。けれど確かに、そうでもしなければ人間用の階段はリーヴェ・ルーヴには狭すぎるのかもしれない。
「リーヴェ、フィラ・ラピズラリを連れてきた」
螺旋階段の形に合わせてとぐろを巻いた竜は、緑色の瞳を静かに瞬かせてジュリアンを見る。
「私は明朝迎えに来る。よろしく頼む」
竜が頷くのを確認して、ジュリアンは踵を返した。
「じゃあな。また明日」
「あ、はい。また……明日」
すれ違いざまに軽く言われた台詞が何故か胸に重く響いて、フィラは思わず口ごもる。感情と呼ぶには余りにも曖昧な、不思議な感覚だった。
「普段は地下にいるんですか?」
リーヴェ・ルーヴの作ったとぐろの真ん中で天体望遠鏡に寄り掛かりながら、フィラは控えめな口調で口火を切った。竜の体が風を遮ってくれるので、たたんだ毛布を座布団代わりにし、ジュリアンが貸してくれたコートを着ているだけでも結構居心地が良い。
リーヴェ・ルーヴはかすかに目を細め、肯定の感情を返してくる。
「ええと」
何を話そうかと迷ったフィラは、ふとかすかな男物の香水の匂いを感じて眉根を寄せた。ようやく違和感が襲ってきた。さっきの、ジュリアンとの会話に。
「さっき……」
ほとんど独り言のような口調で呟く。
「血の臭い、って、言ってた」
周囲の気温がふいに下がったような気がして、フィラはコートをかき寄せた。何か入ってはいけないスイッチが入ってしまったみたいだった。竜が身じろぎして、フィラの様子を窺う。心配混じりの困惑を感じて、フィラは顔を上げた。
「違和感、なかったんです」
それが何かおかしいことなのだろうかと、竜は静かに疑問を伝えてくる。
「違和感があるはずなんです。そうじゃなきゃおかしい。だって知らないはずだもの。そういうこともあるかもしれない、聖騎士ならそうだろうって、怪我人を運ぶのに、担架の代わりに使うこともあったんだろうって。そんなこと」
寒気に身を震わせながら、フィラはきつく膝を抱えた。
「聖騎士が怪我するのは当然だなんてこと、誰も言ってない。ユリンの人たちは、誰も。私、知らないはずなんです」
不安に声が上擦り、震える。リーヴェ・ルーヴはさっきよりも顔を近付け、心配そうにフィラを覗き込んだ。リーヴェ・ルーヴの瞳の中に、新聞の文字が躍っているような気がする。ユリンの町に存在する新聞は城門前広場に毎朝張り出される一部だけ。内容はユリンの町のローカルニュースとユリンの外での花の値動き。今フィラの目の前に浮かび上がっている、幻の電子画面とは全然違う。
本日午前三時、北米第三地区、小規模な小競り合い、犠牲者僅かに三名、聖騎士の働きにより。
遠い場所の知らない人々の情報が、ただ無機的に吐き出される。ただの文字情報と数値情報の羅列。隣で笑っている人々とは全然関係ない話だから平気でいられた。不安が恐怖にまで成長することはなかった。
――でも、今は?
「そんな噂、聞いてない。リラ教会の上級軍の中では、聖騎士団が一番恐れられているなんて、前線に立って、天魔の――ちなまぐさい、せんそうを……」
自分で自分が何を言っているのかわからなかった。途中で言葉と記憶は途切れ、フィラは膝に顔を埋めて黙り込む。ピアノの発表会の舞台の上で、最初の一音を忘れてしまったときよりも酷かった。真っ白だった。後頭部は靄がかかったようにぼんやりとしてまともな思考が働かず、こめかみがずきずきと痛む。
今はまだ思い出せないはずです、と、竜が話しかけてくる。
――それは封印されています。あなたの魔力の中にある、もう一つの『何か』と一緒に。
けれどリーヴェ・ルーヴが精神感応(テレパシー)を通して必死に話しかける声を聞く余裕は、その時のフィラには存在しなかった。
全思考が真っ白に染まっていく中、フィラは理性の最後のひとかけらだけで考えていた。
エステルがいてティナがいる。前線は遠く、周囲の人々も音楽に耳を傾ける心の余裕さえ持っている。
フィラが過ごしていた日常は、他の多くの人と比べても信じられないくらい平穏な恵まれたものだった。
それでも戻りたくないのだろうか。忘れていたいのだろうか。
平穏な日常にも浸透しきっていた死の影を忘れて、ユリンの町に居続けたいのだろうか。
――そんなの、ずるい。
声にならない声で呟いて、フィラは意識を手放した。