第六話 Dance on the balcony. Dance with the half moon.
6-5 不思議の国のアリステイデス
一曲踊り終わった頃、ランティスが広間から戻ってきた。
「嬢ちゃん、悪かったな。そろそろ戻って良いぞ」
ランティスはフィラとジュリアンが並んでいるのを見て一瞬目を丸くしたが、すぐに気を取り直してそう告げる。
「あ、はい。ありがとうございます」
フィラは慌ててジュリアンから距離を取り、ぎこちなく頭を下げた。ランティスが抑えた扉をくぐって広間へ戻っていくフィラを見送りながら、ジュリアンは再びバルコニーの手すりに寄り掛かる。ランティスは広間へ通じる扉を閉じると、どこか苛立った調子で歩み寄り、ジュリアンの前に立った。
「お前らしくないよな」
両腕を組んでの断定口調に、ジュリアンは眉をひそめる。
「何がだ」
「嬢ちゃんにちょっかい出してるのが、だよ。わかってんだろ? お前の立場とあの子の立場をちょっと考えてみれば、ヤバイってすぐにわかりそうなもんじゃねえか。それを無視してんのはお前らしくない」
似ていないようでいて、時々妙にカイと似たようなことを言う友人を、ジュリアンは皮肉な笑みを浮かべて見やった。
「俺らしい、か。……下らないな」
その意味するところを理解して、ランティスの表情がさらに苛立ちを増す。
「じゃあ、聖騎士団団長として相応しい行為じゃねえって言えば良いのかよ」
丁重に無視して月を見上げるジュリアンに、ランティスはなおも言い募った。
「まあ、ちょっかい出したくなるのはわからなくもないけどよ。確かに可愛いもんな。でもお前の好みのタイプじゃねえだろ?」
「何が言いたい」
半分の月を睨み付けながら、ジュリアンは低く聞き返す。
「何企んでるんだよ?」
ジュリアンは月を見上げたまま、ランティスのドスを利かせた声に軽く肩をすくめた。
「別に。ただの気まぐれだ」
言い終えると同時に視線を巡らしてランティスに視線をやる。
「ランティス。持ち場に戻れ」
「……へいへい」
これ以上は何を言っても無駄だと判断したのだろう。ランティスは不満げに頭を掻きながらも、踵を返した。ランティスが広間に戻るのを待っていたように、ジュリアンからほど近い手すりに白い子猫が飛び乗ってくる。
「僕も聞きたいね」
ティナだった。次から次へと面倒だと思ってジュリアンはため息をつく。
「君、いったいどういうつもりなの?」
「聞いてたんだろ? さっき言った通り、気まぐれだ」
「僕はそんなの信じない」
ティナは不愉快そうにしっぽを左右に振った。
「パーティーでたった一人とだけ踊るって、特別な意味がある行為なんだろ? その相手にフィラを選ぶってどういう意味があるわけ?」
「……そういう意味だろ」
投げやりに答えて手すりに体重を預ける。
「ふざけんな」
ティナは精一杯の迫力を利かせてジュリアンを威嚇した。
「遊びなら手を出すなよ。お前が何のために聖騎士団団長やってるかなんて知ったこっちゃないけど、フィラを巻き込むな」
「遊びも許されないのか?」
胸ポケットから煙草を取り出しながら、ジュリアンは自嘲の笑みを浮かべる。それこそ下らないことを言っていると、自分でもわかっていた。
「相手を選べって言ってるんだよ。遊びならもっと遊びに慣れてる人間を誘うべきだ。フィラじゃなくて、別の」
ティナはどこまでも真剣だ。
「ああ、そうだな」
「……ホントにわかってんの、君」
煙草に火をつけながら上の空で頷いたジュリアンに、ティナの声が呆れる。ジュリアンは黙って煙を吸い込み、ティナはそれを見上げて不機嫌に目を細めた。ゆっくりと煙を吐き出してから、ジュリアンは横目でちらりとティナを見る。
「本気だったら手を出しても良いのか?」
怒らせることを覚悟して下らない質問を続けたのに、ティナは怒らなかった。本気で呆れかえってしまったのかもしれない。
「その仮定には意味がないだろ。なぜなら君は」
ティナは不自然に言葉を切り、一瞬の逡巡の後にもう一度口を開いた。
「君が、フィラに本気になるはずなんてないよ。人間って、そういうものなんだろ?」
ジュリアンは返事の代わりに、ため息と煙を吐き出す。
「……誰に植え付けられたんだ、そんな偏見」
「エステル」
「あいつの師匠か」
「馴れ馴れしいな。あいつとか呼ぶなよ」
ティナは背中を弓なりにしてジュリアンを威嚇した。ジュリアンは無視して煙草をふかす。
「契約者であるエステルが死んだのに、どうしてお前はフィラと一緒にいるんだ?」
「お前には関係ないだろ」
機嫌を損ねたままのティナは素っ気なく答えたが、ジュリアンが冷静に返答を求める視線を送ると、落ち着かなげに姿勢を正した。
「……一度は離れたんだよ。エステルが死んで、契約が切れて……僕は世界律の中に戻って行かなくちゃって。でも、後悔した。フィラがいなくなってから。僕は一緒にいるべきだったのかもしれない、フィラを一人にするべきじゃなかったのかも、って」
「ずいぶんとヒューマナイズされたものだな」
煙草をくゆらせながらぼんやりと呟く。
「ホントだよ。おかげでもう、サーズウィアでも来ない限りは世界律の中に戻れそうにない」
いらいらとしっぽを振るティナを見下ろして、ジュリアンは僅かに首を傾げた。
「戻りたいのか?」
「戻りたいに決まってるだろ」
即答された内容は、さっきの彼の台詞と矛盾している。
「フィラを置き去りにしてでもか」
「その頃には……僕なんかいなくても、平気になってるだろうさ。別の家族とか、できてるかもしれないし……」
生意気な少年の声に、一抹の寂しさと自信のなさが滲む。
「……そうか」
ジュリアンはため息と共に煙を吐き出し、手すりに寄り掛かって仰向いて月を見上げた。
バルコニーから広間へ戻ったフィラは、しかしそのまま広間を素通りして中庭に面した回廊へ出た。ソニアやレックスのところに戻る前に、頭を冷やして落ち着きを取り戻しておきたかったのだ。もともと頭を冷やしてくるつもりだったのに、さっきのジュリアンとの一幕で余計頭に血が上ってしまった。
礼拝堂へ続いている回廊は、広間に近い一部分がパーティー客向けに開放されているはずなのだが、薄暗いせいか人気は全くなかった。疲れた客が休むための控え室として整えられた部屋も回廊に沿って並んでいるが、そのどれからも人の気配はしない。パーティーの喧噪もここまでは届かず、ただ吹き抜ける風の音だけが寂しげに響く。中庭にもまだ荒廃の跡が残っているようで、ここだけ見ていれば廃城だと言われても不思議はないほどうらぶれた雰囲気だ。
薄暗がりに心許ない視界を補うように、聴覚がいつもより鋭くなっていく。もう少し耳を澄ましてみれば、葉擦れの音の向こうに広間のざわめきも聞こえるかもしれない。
そう思って立ち止まったフィラの耳に届いたのは、広間の喧噪ではなく、回廊の向こうから歩いてくる二人分の足音だった。一人でいるところを見つかったら目立つだろうし、そうすると相手が視察団の誰かだったらまずいことになる。フィラは慌てて手近にあった控え室の扉に逃げ込んだ。
数秒後には回廊の角を曲がる足音が聞こえたので、間一髪だった。たぶん、ぎりぎり存在に気付かれなかったくらいのタイミングだ。足音はフィラが逃げ込んだ控え室の前で止まり、低く親密な調子の会話が始まる。
「もしかして、俺が不公平だって拗ねたこと気にしてる?」
聞き覚えのある声だった。さっきも聞いたばかりだから間違えるはずがない。優しいけれど真意のうかがえない調子の話し方はフランシス・フォルシウスのものだ。言い方は悪いかもしれないが、詐欺師の猫撫で声に一脈通ずるところがあるような気さえするくらい、うさんくさい。
「ええ。少しだけ、ですけど」
落ち着き払った返答が、やはり間違えようもなくフィアの声だったので、フィラはぎょっとして曇りガラスのはめ込まれた控え室の扉を凝視した。曇りガラスの向こう、淡い逆光に浮かび上がる二人のシルエットはかなり接近している。いったいどんな関係なのか気になるやらこちらに入ってこられてしまったらどうしようと落ち着かないやらで、フィラはおろおろと控え室中を見回した。暗く狭い室内にはほとんど隠れる場所などないが、とりあえずは普通ならまず覗いたりしないだろうソファの後ろにしゃがみこんでみる。
「それで俺に対する敬語をやめるんじゃなくて、全員に敬語を使い始める辺り、君らしいけど」
「そうですか?」
ドレスの裾を汚さないように両手で押さえている間にも、二人は親密そうに会話し続けた。
「君のそういうところ、俺は嫌いじゃないよ」
どう考えても口説いている口調がフィアに向けられていることに、フィラは愕然とする。
「フィア」
「何でしょう?」
「髪、伸ばしてみない? きっとその方が似合う」
「あなたがそう仰るなら、そうしましょうか」
これは聞いてちゃマズイと思い、フィラは頭の中で覚えている曲を片っ端から再生し始めた。
再生し始めたが、転がり始めた思考は止まらない。フィアとフランシスはどういう関係なのだろう。そしてフィアは本当に自分と同い年なのだろうか。
バッハのインベンションを一番から順に脳内シミュレートしつつもフィラの苦悩は続く。
同い年で十六歳であんな会話はないんじゃないかと思う。こういうなんて言うか、艶めいた会話は、できればもっと年齢の高い人にして欲しい。絶対十六歳がするような会話じゃない。少なくとも自分には、あんな風に誰かに口説かれてまともな反応を返せる自信はない。
そこでうっかりさっきのジュリアンとのやりとりを思い出してしまって、フィラはそこらに穴を掘ってでも入りたくなった。
真っ赤になって頭を抱えながら、フィラは必死で自分の思考をそこから逸らそうと努力する。
それに、それに……そうだ。聖騎士団と光王親衛隊が犬猿の仲なら、聖騎士であるフィアが光王親衛隊隊長とこんな風に懇意なのは大丈夫なのだろうか。もしも、もしフィアが聖騎士団の味方じゃなかったとしたら、自分はいったいフィアとジュリアンのどちらを信用すれば良いのだろう?
考えてみれば、フィアのことは何も知らない。
ソファの後ろで膝を抱えて、フィラは唇を噛みしめた。火照ったままだった頬に冷水を浴びたような心地だった。
双子の妹。顔が似ていて、自分の過去を少しだけ知っていて、知らなかったことも調べて教えてくれた。桜餅が好きだけど、手に入れにくいから自分でもよく作る。そしてフィラにもそれを分けてくれたりする。治癒系の魔術が得意らしい。地図を一瞥しただけで覚えていたからたぶん記憶力も良い。
――他には?
他には、何も知らない。知っているのはそれだけだ。
「竜化症の、その後の経過は?」
脳内での音楽再生がいつの間にか止まってしまっていて、思いがけずフランシスの声が耳に飛び込んできた。
「大丈夫です。進行はしていません。……ご心配をおかけします」
「いや……」
フランシスが口ごもる。フィラの心の中では不安が膨れあがる。
竜化症。妙に寒心や焦燥をかき立てる単語だった。たぶん、聞いたことがある。なくしてしまった記憶の中で。そして恐らく、良い思い出はない。
会話の流れからすると、フィアは竜化症にかかっているのだろうか。
「実を言うと、君が聖騎士団に入団することが決まって、少し安心したんです。ユリンは竜化症の治療には最高の環境だから。少なくとも、ここにいる限りは進行を遅らせることが出来るはずだ、とね」
甘さと優しさで包まれていたフランシスの声に、ふと憂いが混じった。相変わらずうさんくさいというか、真意の汲み取れない口調だけれど、それでもさっきまでと比べればまだ人間らしい感じがする。
「ここはまるで不思議の国だ」
優しげなのに何故か『容赦ない』と表現したくなるような調子で、フランシスは呟いた。
「君も、その魔法にかかってしまえばいいのに」
「駄目です」
くすくすと笑いながら、フィアが答える。
「それ以前からかかっている魔法の方が強いから、上書きできないんですよ」
――私、こんなところで何をやっているんだろう。
思ってフィラは、泣きたくなった。ソファの裏にしゃがみ込んで、妹のごくプライベートな会話に耳を澄ましている。さっきの自分と比べるまでもなく、同い年とは思えないほど大人びた彼女の受け答えに落ち込んだり、意味を覚えてもいない単語に不安を募らせたりして。
二人が何の話をしているのかはよくわからなかった。ただ何か薄ら寒い気分になって、フィラは自分の両腕を抱き寄せた。怖かった。記憶を取り戻せば、彼らの言っている意味もわかるのだろう。竜化症のことも、ユリンにかかっている魔法のことも、すべて。思い出したくないと思ったけれど、知らないままでいる方がもっと怖かった。知ろうとなんてしない方が良いのかもしれない。それでも他にどうしたら良いのかわからない。
指先に力を込めた。
踊る小豚亭での居心地の良い生活が、がむしゃらに情報を求めようとする心にブレーキをかけている。好奇心を持つことに対して、何もかもを思い出そうとすることに対して――まだ、迷いがあった。