第七話 誰が雨を降らすのだろう
7-3 フィア・ルカの基礎魔術講座 その二
翌朝、フィラがピアノの練習に来たとき、礼拝堂ではまたフィアが待っていた。
「おはようございます。朝、お早いんですね」
「今日はちょっと寝坊しちゃったんだけどね」
にこやかに話しかけてくるフィアに、フィラは笑って頭を掻く。昨日、エディスの言葉通り遅くまでピアノを練習していたせいで、少し寝過ごしてしまったのだ。
「でも、団長だってまだ寝てらっしゃるんですよ」
「あの人は寝起き悪いから」
フィラが苦笑すると、フィアは一瞬目を見開いてから何だか嬉しそうに微笑んだ。
「朝礼まで少し時間があるんです。お邪魔でなければ昨日の続きをお話ししたいと思うのですが、構いませんか?」
「うん、もちろん」
「ありがとうございます」
二人のよく似た少女は、笑い交わしながら信者席の最前列に腰掛ける。
「今日は、フィラが使うことの出来る魔術について説明をしたいと思います」
「よろしくお願いします、先生」
「はい、よろしくお願いします」
ごっこ遊びみたいなやりとりの後で、二人はまた顔を見合わせて笑った。
「昨日、相性の良い分野であれば、魔力値が低くともある程度の効果を上げることは不可能ではないとお話ししました。普通、相性の良い分野は様々な基礎魔術を学習する過程で徐々にわかっていくものなのですが、フィラの場合は私がお教えすることが出来ます。一卵性双生児ならば、持っている魔力の質は同じだからです。フィラが得意とする魔術は、私が得意としている魔術と同じ、治癒系の魔術、ということになります」
フィアは話しながら、空中に両手を踊らせて幻術を描いていく。
「治癒系の魔術は、他の魔術と少々異なる性質を持っています。その性質についてご説明する前に、まず魔術がどのような原理で発動するのか、順を追ってお話ししましょう」
フィアの言葉に合わせて空中に現れたのは、身長二十センチほどの小さな人型だった。
「魔術とはすなわち、私たち一人ひとりが持っている魔力で以て他の世界律に干渉し、普通ならばあり得ない現象を現出させる行為を指します。ですが、私たちが直接干渉できる世界律の範囲は非常に限られたものでしかないのです」
フィアが人型に向かって片手を振ると、人型の周囲にぼんやりと球形の光が広がる。
「そうですね……持って生まれた魔力量にも依るのですが……」
人型は形を変え、ジュリアン・レイそっくりの姿に変わった。
「現在、記録上最大の魔力を持っている現聖騎士団団長、ジュリアン・レイであっても、恐らく半径三メートル程度が限度だと思われます」
その言葉を示して、人型を包んでいた光が範囲を広げる。
「私もフィラの魔力をもらっているので、平均魔力量の三倍程度の魔力を持っていますが、それでも干渉できる範囲は半径一メートル足らずです」
人型は再びぼんやりとした輪郭に戻り、取り巻く光も狭まった。
「疑問に思われますか? そうは言っていても、実際、魔術の効果範囲はもっと広いじゃないかって」
今度は広範囲にわたって、花火のような光が踊る。フィラは感心してそれに見とれていた。普通に話しながら呪文もなくこんなに凝った魔術を使えるなんて、きっと相当なものだ。
「その通り。そこに、私たちが『守護神』と呼ばれる存在と契約を交わす意味があるのです」
フィアは軽く手を振って、人型の隣に小さな白猫の姿を浮かび上がらせる。人型を取り巻く光の一部が子猫の中に流れ込み、同時に周囲で踊っていた花火それぞれに向かって、子猫の体から細い光の糸が延びていった。
「守護神は、契約を交わした相手の意志を、より効率よくより広範囲の世界律に伝えるための触媒となります。守護神がヒューマナイズされた、つまり精神的に人間化の進んだ神であった場合、彼が自分自身の意志で世界律を動かしたり、契約者の命令に逆らったりすることも考えられますが、多くの神は自分の意志で世界律を動かすほどの意志力はありません。仮に強い意志力を持っていたとしても、基本的に神々の意志は世界律を滞りなく流すこと、乱さないことを優先する方向に向かいます」
「ヒューマナイズって、具体的にはどんな感じなの? ティナを基準にして教えてもらえればわかると思うんだけど……」
フィアの話が途切れたタイミングを見計らって、フィラは疑問を差し挟む。
「そうですね」
フィアは誠実に考え込み、一つ頷いてまた話し始めた。
「ティナさんのヒューマナイズはかなり進んでいる方ですね。ヒューマナイズの進んでいない神は、人間とはほとんど意思の疎通はできないのです。私の守護神はヒューマナイズが進んでいませんから、私に話しかけてくることもなければ私の命令に逆らうこともありません。ヒューマナイズの進んでいない守護神は、ほぼ道具と変わらない……逆にティナさんは、契約を結んでいないあなたとも積極的に話し、自分の意見を述べる」
フィアは一度言葉を切り、大人びた微笑と共に小首を傾げる。
「ティナさんは非常に人間らしい受け答えをされるでしょう? フィラに忠告することも、冗談を言うことさえある。それは、彼が人間に近い精神構造を得ている証拠です」
「ということは、えーと、ティナは自分の意志で世界律を動かせる? つまり、魔法が使える? ってこと?」
なんとか覚えていた内容を継ぎ合わせて尋ねると、フィアは嬉しそうに微笑した。
「ええ、使えるでしょうね。ただ、ヒューマナイズされた神々が自分自身の意志で魔術を使う例はさほど多くなく、あったとしても小規模なものにとどまるようです。そうですね……ティナさんくらい人間に近い精神構造を持っていても、自分の司るもの――ティナさんの場合は少量の光を操る程度が限度でしょう。先程もお話しした通り、基本的に神々の意志は『世界律に逆らわない』『世界律が正しく運行していく』方向に動きます。ですから、神が世界律の流れを変える行為である魔術を使うという例は、さほど多くはないのです」
ふと、フィアの表情が曇る。
「これにも例外があるのですが、今はお話しできません」
けれど、フィアの表情が曇ったのはほんの一瞬だった。
「話が逸れました。ともかく、ここで知っていただきたいことは、守護神は契約者の意志を世界律に伝える媒介となる、ということです。守護神に意志の力があれば、それが魔術に影響を与える場合もありますが、基本的には我々の意志をそのまま神界に伝えてくれます」
「し、神界って?」
次々と出てくる新しい単語に、どうにかついていこうとフィラは食い下がる。
「神界とは、世界律そのものによって構成される神々の世界のことを指します」
フィアは話しながら、また人型に向かって片手を振った。人型はフィアそっくりに変化し、その背後に重なり合うように、同じ輪郭の真っ黒な人型がもう一つ浮かび上がる。白い団服を着た小さなフィアの後ろで、真っ黒な人型は影のように同じ動作をしている。小さなフィアが片手を上げれば、黒い人影も片手を上げ、小さなフィアがくるりと回れば影も同じ方向に回った。よく見れば、黒い人影にはびっしりと虹色の幾何学模様が細かく描かれている。
「私たちのいる現実の世界と重なるようにして存在しているのですが、普段はよほど魔力の大きい者であっても、ほとんど知覚することが出来ません。ただ、強力な魔力の影響を受けたり、もともと魔力的な力場の強い場所であったりした場合には、この世と神界が交差することもあります」
小さなフィアは黒い人影の中に溶け込むように姿を消し、その周囲を取り巻いていた光に虹色の幾何学模様が浮かび上がった。同時に小さな白猫の身体にも、同じ幾何学模様が現れる。
「実体化していない神々は、神界に身を置いていることになります」
フィアは手を伸ばし、幻影の中からすくい上げるように小さな白猫をその手に取った。
「彼らがこの世界に落とす影こそが、この世界における森羅万象なのです。例えば、ティナさんが実体化を解いたとき、我々が魔力の助けなしに見ることが出来るのは、ティナさんがこの世に落とした影である『光』だけ、ということになります」
フィアの手の中で、小さな白猫は光の球体に変化する。
「ティナさんが実体化しているとき、ティナさんは己の影と同化し、この世と神界、双方に同時に身を置いているのです。竜もまた同様の存在であると考えられています」
フィアの手の中の光に、ノイズのように虹色の幾何学模様が浮かび上がったかと思うと、光は収束して再び白猫の姿を取った。
「乱暴なまとめ方になりますが、要するに神界とは、この世のありようを律する秩序、世界律によって構成される、より根源的な世界なのです。守護神を通してより根源に近い部分に干渉することにより、物理的に干渉するよりも大きく超常的な現象を現出させることが出来る。影の形を変えるために本体に干渉する術。それが、魔術です」
フィアの手によってもとの場所に戻された白猫に向かって、黒い人型を取り巻く光が再び流れ込んでいく。光の流れは、さっきは見えなかった虹色の回路を通って煌めきながら白猫まで達し、白猫からまた別の回路を通って幻影全体に広がった。人影を取り巻く光と、その光に刻まれた幾何学模様の範囲をも超えて、虹色の道筋は何もない空間へも延びて行き、その先端でさっきの花火が舞い踊っている。
「……では、治癒系の魔術はそういった通常の魔術とどう違うのか、ご説明いたしましょう」
球体を撫でるようなフィアの手の動きに合わせて、球形の光を纏った人影がもう一人浮かび上がった。
「治癒系の魔術も、やはり同じように世界律に干渉するのですが、干渉する対象が世界律に逆らうことが出来るほどの『意志』を持っていることが少なくない点が、他の魔術と異なります」
舞い踊っていた花火が消え、代わりに白猫から延びる回路は新しく現れた人影に向かって走っていく。しかし光の筋は新しい人影を取り巻く光の回路に上手く侵入することができず、そのまま立ち消えてしまった。
「この意志力との相互干渉があるため、守護神を介した魔術の使用は、著しく効率が低下してしまうのです」
細かい動きを良く見てみれば、人型を取り巻く光の端で途切れた回路に偶然飛び込むことができた光は、きちんと新しい人型の方まで届いている様子だ。
「意志の力は、基本的には世界律の流れと同質のものです。ただ、意志力はその持ち主が世界に占める場所にのみ作用する局地的なものであり、その分流れる力は世界律よりも強く、また主の精神状態によって流れ方を変える。他の世界律より変化しやすく、変化の割合も大きく、時に不自然な流れとなることも多いようです。そのため、神々は意志力のある部分への干渉を苦手としています」
フィアはさっきと同じように白猫を幻影の中からすくい上げ、少し離れたところに放してやる。
「ですから、世界の一部であっても意志力を持つ部分――生物の身体、中でも特に自我のはっきりとした人体に直接干渉する必要がある治癒魔術に限っては、守護神の力を借りることなく、自らの持てる魔力で直接干渉する方が効率が上がるのです」
二つの人影は互いに歩み寄り、お互いが纏った光が触れ合ったところで立ち止まった。光が触れ合った部分で、虹色の回路は解け合うように結びつき、片方の人影から出発した光は、今度は白猫も空中も経由することなく、直接虹色の回路だけを通ってもう一つの人影まで走っていく。
「そのために、治癒呪文は他の魔術と比べ、魔力量よりも魔力の質に左右される分野となっています。先程もお話しした通り、私たちが自分一人の魔力だけで干渉できる範囲は、大きな魔力を持っていたとしても非常に限られていますので、魔力の大きさはあまり関係がないのです。それよりも、守護神を通した魔力の変質を図れない分、魔力の質が治癒呪文に向いているかどうかが重要になります。もちろん、同質の魔力の持ち主であれば、魔力が大きい方がより早くより大きな効果を上げることができるのは確かです。しかし、治癒呪文に向いた魔力と向かない魔力では、治癒効率に最大で数十倍の差が出ると言われていますから、やはり重要なのは量より質、ということになるでしょう。また、治癒呪文は意志力と意志力のぶつかり合いという側面を持ちますので、魔術をかけられる側からの信用を得られればより高い治癒効果を上げることが出来、逆に心を閉ざしている方の治療は効率が下がります。どれだけ相手の信頼を得られるかも、治癒魔術師の実力評価基準になり得るのです」
フィアの言葉に従って、二つの人影を結ぶ虹色の回路が途切れたりまた繋がったりした。どうやら相手の信頼を得られれば、より多くの回路が溶け合って繋がっていく、らしい。
「長々と難しい話をしてしまいました。ごめんなさい、今日はここまでにしましょうか」
フィアは小さく息を吐いて手を振り、少し離れたところに浮かんでいた子猫ごと、空中から幻影を消し去る。
「何か質問はありますか?」
「えっと」
正直どこがわかっていないのかわからない状態なので、質問もそう簡単には出てこない。フィラはいろいろ考えた末、諦めて全く別の質問をさせてもらうことに決めた。
「ぜ、全然関係ないんだけどね」
「はい?」
フィアが意外そうに瞳を瞬かせる。
「フィアって、何だか大人っぽいなって思うんだ。同い年のはずなのになって」
「え、ええ……?」
フィアは戸惑った様子で頷いた。
「だからどう、ってわけじゃないんだけど……ただ、なんとなく……私、フィアのこと全然知らないんだなって、思ったりして……」
ちらりと窺ったフィアの表情が見事に困惑を露わにしていたので、フィラは途中で申し訳ない気分になってしまう。
「……ごめん。全然まとまってないね」
「いいえ。お気になさらず。確かに、よく生き急いでいるとは言われますから」
フィアは一つため息をつき、ベンチの背もたれに寄り掛かって祭壇の向こうのステンドグラスを見上げた。
「私は『忘れる』ということが出来ないので、それも生き急ぐ原因の一つとなっているのかもしれません。あまり良いことではないと思います。幸せだったとは、到底言えない記憶も多いですし」
フィアは自分の左胸にそっと右手を当てる。聖騎士団の白い団服に、アシンメトリーにデザインされたスカイブルーの十字。その十字が、ちょうど交わる場所に。
「でも、それでも私は……誰かに代わって欲しいとは思わない。私には大切な記憶があります。何ものにも代え難い、大切な記憶です。その記憶を失ってしまえば、私は今の私でなくなってしまう。それほど大切なものなんです」
十字の中心でフィアは強く拳を握りしめ、団服に深い皺が走る。その陰影を見つめながら、フィラも心臓を鷲掴みにされたような、強烈な息苦しさを感じていた。
――私が私でなくなる。記憶を失うことで。
「それじゃ……私は……今の私は、私じゃ、ないのかな?」
「いいえ」
即座に落ち着き払った声が否定した。
「記憶のないあなたが、今のあなたです。記憶の欠落はあなたの存在を否定したりはしません。ただ、記憶を持ったあなたと、記憶を持たないあなたではやはり違う部分もある」
フィアは真っ直ぐフィラに向き直り、その瞳を覗きこむ。
「竜化症の進行によっては、私もあらゆる記憶を失ってしまう可能性があります。そうなったとしても私は私ですが、今の私とは違う。そうなってしまっては成し遂げられないこともある。だからそうなる前に、この記憶がなくては出来ないことを、一つでも多く成し遂げておきたい。今はただ、そう願っています」
言い終えて息をつくと同時に、フィアの表情がふっと苦笑の形に緩んだ。
「ごめんなさい。何だか……持って回った言い回しですね。穴に向かって叫びたい気分です。王様の耳はロバの耳、って」
フィアは左胸に当てていた右手を左肩まで持ち上げ、自分自身を抱きしめるように身を縮める。
「本当は下らないことだと思うんです。話してしまえば、なんだそんなことか、って言われそうな気がします。王様の耳と同じように。でも、今はまだ……」
静かに瞳を伏せながら、フィアは小さな声で呟いた。
「……すみません」